不意打ちと惑う女と守る猫 4
「美代祖母ちゃんの予想が悪い方に当たったようだ」
「そう」
玄関の扉を開けるなり、堅司は折りたたんだメモ用紙を美代さんに渡すと、すぐに帰って行った。
寄っていかないのかと聞いたが、邪魔になると悪いからと言われた。どうやらこちらの現状をちゃんと把握しているようだ。
たぶん、美代さんが根回ししたんだろうなぁ。
「それなに?」
「さっき、さとみさんが顔を洗っているときにね。漢方薬の薬包の中身を少しだけ頂戴したの。それを堅司くんに頼んで、隣町に住む友達の漢方医のところに持っていってもらって、中身を確認してきてもらったのよ。その結果ね」
メモ用紙に目を通した美代さんは、珍しく眉間に皺を寄せていた。
たぶん、よっぽど悪い内容なんだろう。
「……流産を促すようなもの?」
「ええ。そうらしいわ。もう産み月に入っているから、今なら早産ですむかもしれないけれど。でも、もしも人目のないところで産気づいてしまったら……」
美代さんは、俺を気遣ってか、その先を口にするのをためらった。
だが、言われなくても分かる。
病院にすぐ行けないような場所で産気づいて早産なんてしてしまったら、赤ちゃんの命は危険にさらされるだろう。それに、元々体力が落ちている母体だってどうなるかわからない。
佐倉は、人として許されない領域に足を踏み入れてしまっているようだ。
「なんで自分の妻子に対して、そんなことができるんだろ」
「自分の妻子だからよ」
俺の呟きに、美代さんが溜め息交じりに答えた。
「ごく稀に、妻子を自分の所有物だと、自分のモノだと思ってしまう人がいるのよ。人の命は、自分自身ですら自由にしていいものではないのにね」
「……このこと、さとみさんに伝えたほうがいいんだろうけど、大丈夫かな?」
「大丈夫ではないでしょうね。でも、伝えるなら今しかないわ。……大さんが守ってくれている今なら、きっとさとみさんの身体も持ちこたえてくれるでしょうから。それとね、勝矢くんが佐倉という人にされたことも、今のうちに話してしまいましょう」
「それは別に言わなくてもよくない? 佐倉と京香の関係まで言わなきゃならなくなるし」
「いいえ、彼女の為にもいま知らせておいたほうがいいわ。それに、口止めも必要でしょう?」
「口止めって?」
なにか止めなきゃならないことがあったっけかと、首を傾げていると、美代さんに溜め息をつかれてしまった。
「さとみさんから佐倉という人に情報が流れてしまってもいいの? 明後日、そのことで東京に行くんでしょう。盗用されているイラストの本当の作者が勝矢くんだってことは、まだ向こうには伏せていたほうがいいんじゃない?」
「あー、そっか。そうだよな。下手に対処なんかされたら面倒なことになるか」
なるほどなるほど。美代さん、冴えてる、凄いなーと感心する俺を、美代さんがやっぱり溜め息をついて、この子、大丈夫かしらという顔で眺めている。
「もうちょっと慎重に物事を考えなきゃ駄目よ。そんなだから簡単に騙されるの。東京ではチームをまとめてたって言ってたけど、よくそれで仕事が勤まったわね」
「……部下に恵まれてたんだよ」
「でしょうね」
さっくり美代さんに頷かれた。くそう。
実際、俺がそれなりに評価されるようになってきたのは、竜也が俺を追って入社してきてからだ。
自分にはチームリーダーになるような才能なんて無いと思っていたから、ずっとアシスタントとしてやっていくつもりだったのに、なぜか仕事が評価されるようになって、気がついたらチームを抱える身になってしまっていた。
たぶん、というか間違いなく、影で竜也が暗躍していたんだろう。
学生時代の評価は俺よりずっと高かったというのに、なぜか竜也はそっちにはすすまなかった。営業が取ってきた仕事を現場と摺り合わせたり、客先に営業と共に出向いて現場の意向を伝えたりと、繋ぎのような仕事ばかりをしていた。
その結果、俺はチームリーダーになった。
なぜ俺の為にそこまでするのか、はっきり聞いたことは無い。
たぶん聞けば、竜也は簡単に答えるだろう。
俺は、その答えを聞きたくない。
きっと、小心者で臆病な俺には重すぎる答えだろうから。
◇ ◆ ◇
風呂から上がってきたさとみさんは、顔色がすっかりよくなっていた。
「お先にいただきました。素敵なお風呂場ですね。羨ましいぐらい」
「死んだ祖父が道楽で作ったものなんですよ」
なんせ巨大猫の大さんと一緒に風呂に入ることを前提にして作られた風呂場だ。
浴槽も洗い場もゆったりしていて、温泉旅館の家族風呂程度の広さもある。
ほかほかのさとみさんが冷えないよう、美代さんがカーディガンと靴下を履くよう促していた。
俺は、用意していた生姜湯を人数分湯飲みに入れて、茶の間に持っていく。
「どうぞ。こっちは東京より少し気温が低いでしょう?」
「そうですね。でも、空気が綺麗で気持ちがいいです」
入浴がいい効果を与えたのだろう。さとみさんの表情には生気のようなものが戻ってきている。
ここでまたショックを与えるのは可哀想な気がして、美代さんをちらりと見たが、美代さんは小さく首を横に振る。
弱気になったら駄目だと言ってるのか。
――大さん、頼む。
それならばと、誰にも聞こえないよう、口の中だけで小さく呟くと、『なー』と大さんが答えてくれた。
俺は美代さんをもう一度ちらりと見て頷いた。
それに頷き返してから、美代さんが口を開いた。
「さとみさん、あなたに聞いて欲しい話があるの」
「はい、なんですか?」
すっかり美代さんに気を許してしまっているさとみさんが、微笑みを浮かべたまま頷く。
このまま美代さんが話してくれるのかと思って黙っていたら、「まずは勝矢くんからね」と美代さんに押しつけられた。
仕方なく、俺は腹をくくる。
ショックを和らげる話し方なんてわからないから、時系列にそのまま話した。
京香という女に告白されてなし崩しにつきあい始めたこと。その女の態度に疑問をもち、金遣いの荒さに辟易して、関係の自然消滅を目指していたこと。
最初、なぜこんな話を自分にするのかわからなかったのだろう。さとみさんは戸惑いながら俺の話を聞いていた。
やがて話が会社絡みに発展し、セクハラ疑惑を掛けられ、証人として佐倉が出てきたことを告げると、さとみさんの表情がみるみるうちに強ばっていく。
「あの人も騙されていたんですか?」
「いいえ、違います。……京香は、佐倉さんに頼まれて俺に近づいたんです」
会社を退職させられた後、独自に調査した結果も話した。
さとみさんは、京香の音声データがあることを知ると聞きたがった。
さすがにショックが大きすぎるんじゃないかと思って止めたが、さとみさんは聞き入れなかった。
「この話だけであなたを信じることはできません」
夫も騙されていたのかもしれないからと。
妻として夫を優先して考えるのは当然だろう。仕方ないかとノートパソコンを持ってきて、音声データをその場に流した。
さとみさんは俯いたまま黙ってそれを聞いている。
また泣くんじゃないかと心配だったが、彼女は泣かなかった。
ぎゅっとお腹の前で両手を握り、唇が白くなるぐらいに歯を食いしばっている。
怒りか悲しみか、とにかくなにか強い感情が溢れ出てこないように耐えているんだろう。
「これはまだ推測ですが、例の猫のイラストは、京香が俺から盗んで佐倉さんに売りつけたんだろうと思ってます」
「そう……なんでしょうね。……あの人に女がいること……気づいてました。でも、なにも言えなかった。言うと、全部無くしてしまうと思っていたから……」
申し訳ありませんでした、とさとみさんは俺に頭を下げた。
「やめてください。さとみさんはなにも悪くない」
「……でも、夫婦ですから……」
「さとみさん、実は、もうひとつお話があるのよ」
頭を下げ続けるさとみさんに顔を上げるようにと促しながら、美代さんが切り込む。
こっそり薬包から漢方薬を抜いて中身を調べたことを告げられて、さとみさんは不思議そうな顔をしていた。
まったく疑ってなかったのだろう。
と言うか、普通は疑わない。父親が自分の妻と子供のために用意した薬なんだから。
「そのお薬、お腹の張りどめじゃなかったわ。出産を早める効果のあるものなの」
「……え? あの……」
「産み月のあなたが主治医のいない旅先で急に産気づいたら……。その危険性はわかるわね?」
「わか……ります。……あの人、出がけに忘れずにいつもの薬を持っていけって……。わざわざ部屋に戻って、手渡してくれたのに……」
「そのお薬、持ってくるつもりじゃなかった?」
「はい。お医者様の薬も良く利くので……。そうか、心配、してくれてたわけじゃ……なかったんですね」
ああ、そっか、そっかぁ……と呟いて、さとみさんはとうとう泣き出してしまった。
声を押し殺し、涙をぼろぼろ零して、見ていて辛くなるような泣き方だった。
美代さんは、そんな彼女の背中をそっと撫でている。
「我慢しないで泣いていいのよ。こんな酷い話、ショックを受けて当然ですもの。……でもね。落ち着いたら、ちゃんとこの先のことも考えてみて。これからも妻として夫を支えて生きるのか。それとも母として生きるのか……。どちらを選択するにしても、あなたには覚悟が必要よ」
確かに覚悟は必要だろう。
妻として生きるのならば、これからも佐倉に利用され続けて生きていく覚悟を決める必要がある。
母として生きるのならば、我が子でさえも危険にさらす佐倉と正面から対峙する覚悟が必要だ。
どちらとも決めない道を選ぶこともできるだろうが、その場合、あまりいい未来は想像できない。
佐倉が心を入れ替えてくれればいいが、あそこまで行ってしまったらそれも難しいような気がする。
「勝矢くん、後は私にまかせて。お風呂にでも入ってらっしゃい」
泣き続けるさとみさんを慰めている美代さんにそう言われて、泣いている女性を見つづけているのが辛かった俺は急いで風呂場に逃げ込んだ。
◇ ◆ ◇
「旦那さんと離婚して子供を育てて行くにはサポートが必要でしょう? だから今日、ご実家に連絡してみるそうよ」
翌朝、朝食の支度をしていた俺に、美代さんがそう言った。
さとみさんのご両親は、佐倉の危険性に気づいていたらしい。あの男と結婚するのなら縁を切ると言われ、それ以来連絡を取っていなかったのだそうだ。
「……離婚するって決めたんだ」
「ずっと自分を利用してきた夫が、不妊治療中から不倫していて、更に子供を危険にさらす薬を渡してきたのよ。信用できない相手とは、もう一緒には暮らせないわ」
「そっか」
「それでね、ご実家との話し合いの決着がつくか、それが駄目でも次の落ち着き先が決まるまでは、この家に泊めることにしたわ」
「……それ、決定?」
「決定よ。克江ちゃんと真希も協力してくれるって言うし、赤ちゃんを守る為にも、大さんがいるこの家にいたほうがいいものね。どうせ勝矢くんは、明日から東京でしょ? 少し向こうでゆっくりしてきたらいいのよ」
家主は俺なんだけど……。
とはいえ、美代さんには逆らえないし、お腹の赤ちゃんのことを思えばこれはもうしょうがない。
大さんも、赤ちゃんのことを心配してくれているみたいだしな。
「……了解しました」
俺は全面降伏して、大さんの好きな甘い厚焼き卵を焼きはじめた。
後でお稲荷さんと一緒に庭の祠にお供えしておくのだ。
そうすれば、きっと透明猫になっている大さんも、人目を盗んでこっそり食べてくれるだろうから。




