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不意打ちと惑う女と守る猫 3

「駄目よ。そんな姿勢じゃ、赤ちゃんが苦しいでしょう?」


 慌てて美代さんが手を伸ばし、頭を下げていたさとみさんの身体を起こした。


「勝矢くん。嫌がらせなんて本当にしているの?」

「いや、してないしてない。――俺には嫌がらせなんて、まったく心当たりがないんですが」

「でも主人のことでネットの炎上を煽っている集団の中心人物は、相馬さん、あなたですよね?」


 ペットボトルのお茶のキャンペーン商品である猫のストラップ、その元になったと言われているイラストの話題を書き込んでいる人の多くが、俺の出身地の近くにいること。そして、証拠だと写メで撮られている学校で作成されたパンフレットやしおり等が、やはりこの近隣の学校だったことが、その証拠だとさとみさんが言う。


 どうやら、さとみさんは、ネットで騒がれていることの全てが俺のねつ造だと思い込んでいるようだ。

 そういう風に佐倉から聞かされてきたのかもしれない。


「確かに、主人がしたことは悪いことかもしれません。でも、デザインの買い取りなんて、みんながやってることなんですよね? 部下の人達の作品をチームリーダーの名前で発表するのが当たり前になっているように」

「いやいや、買い取りなんてやってないです。少なくとも俺は一度もやったことないですよ。それに、部下の作品を自分の名前で発表することもありません」


 まあ、そもそも俺は中小企業向けの案件ばかりをやっていたから、今のところ自分の名前すら表に出ることが殆どなかった。名前を出すとしたら企業名だし、クライアントと直接会話を交わして名前を覚えてもらうのは営業担当の部下だ。

 クライアントから特別に直接お褒めの言葉をいただいたときは、そのデザインの中心案を出した部下の名前を伝えるようもしていた。部下が個人的に注文をもらえるようなチャンスを逃さないように。


 だが、佐倉の場合は仕事の種類が俺とは違っていて、個人名が表に出ることが多い。

 部下の作品を自分の名前で出しているのだとしても、ある程度の助言や手直しをした上でチームというか、監修という形をとっているんじゃないのか?

 まさか、まるっとそのまま奪い取ってはいないよな?

 その手の噂がまことしやかに囁かれる業界ではあるが、それを本当にやってしまうかどうかは、本人の人間性の問題だ。


「……佐倉さんは、デザインの買い取りを日常的に行っていたんですか?」


 俺の問いに、さとみさんは、はっとしたような顔をした。

 自分がまずいことを口走ってしまったことに気づいたようだ。

 もともと精神的にも肉体的にも弱り切っていただけに、そこらへんの判断力も落ちていたんだろう。


「いえ、あの……」


 さとみさんが、おろおろと手にしたガーゼのハンカチを絞るように握っている。

 美代さんは、そんなさとみさんを宥めるように背中を撫でていた。


「ねえ、勝矢くん。さとみさんに、修学旅行のしおりを見せてあげたらいいんじゃないかしら」

「そうだね」


 ショックを受けるんじゃないかと心配だったが、美代さんが言うのならばと仕事部屋に置いてあった中学時代の旅行のしおりを取ってきて、さとみさんに手渡した。


「これは?」

「俺が中学三年生のときの修学旅行のしおりです。中を見てください」


 促されてページを捲っていくさとみさんの表情がみるみるうちに硬くなる。

 しおりに描かれている猫が、ストラップの猫と同じだと気づいたのだろう。


「な、中のイラストは誰が?」

「先生に頼まれて俺が描きました。その後、イラストをデータ化してその先生に渡したんです。先生はそのイラストを気に入ってくれて、転勤で学校を変わった後も、ちょくちょくそのイラストを使っていたようです」

「でも、主人はネット上の情報はすべてねつ造だって……」

「少なくとも、そのしおりは本物ですよ。紙にも経年劣化の跡が見えるでしょう? それに俺の書き込みもある。祖父が書道家で習っていたんで、中学時代とはいえけっこうな達筆でしょう?」


 さりげなく自慢してみた。

 修学旅行のしおりには、同じ班の友達の名前や教師の携帯番号、保険証の番号等、ちょこちょこ書き込みがしてある。そのペンのインクも、やはり経年劣化でかすれている部分があった。


「……本物……なんですね?」

「そうです。そして俺は、この猫のイラストを誰にも売ってないんです」

「でも、そんな……。だったらあの人、騙されてるのかしら……」


 なにをどうしたらいいのか、どこからなにを考えたら良いのか。

 混乱しているようで、さとみさんの目線がふらふらと揺らぐ。


「佐倉さんが、誰からあの猫のイラストを買い取ったかご存じですか?」

「……直接は知りません。ただ、あの人、私よりも役に立つ女を見つけたって……。私、このままじゃ捨てられる。この子もいるのに……ど、どうしよう……」


 耐えきれなくなったのか、突然さとみさんが泣き出した。

 やつれた頬を、ぼろぼろと涙が零れていく。


「え、あ、ちょっ……。美代さん、どうしよう?」

「落ち着きなさい。大丈夫だから。こういうときは、むしろ少し泣いたほうが落ち着くものよ」


 さすが年の功。美代さんは馴れた仕草でさとみさんを抱き寄せて、ぽんぽんと背中を軽く叩いてあげている。

 女の涙って、それだけでもう男にとっては充分威力があるものだ。

 狼狽えた俺は、なにかできることはないかと立ち上がり、ティッシュの箱を取ってきたりゴミ箱を近くに置いたり、お代わりの白湯をたっぷり用意したりと、二人の周囲をうろうろしていた。


 そういえば、ナッチは俺に涙を見せたことがなかった。

 俺の前では安心して泣けなかったのか、それとも泣く必要がないぐらい楽しいと思ってくれていたのか。

 どっちだったんだろう。

 泣き続けるさとみさんを見ながら、俺はそんなことを考えていた。




     ◇  ◆  ◇




「取り乱して、すみませんでした」

「気にしないでください。体調もあまり良くないようだし、気が弱くなってるんですよ」


 ひとしきり泣いて落ち着いたさとみさんが、洗面所を使った後で軽く頭を下げる。俺はそれを止めた。


「ところでさとみさん、今晩泊まるところは決まっているのかしら? あなたの今の体調で長距離移動は無理だと思うの」

「あ、そうですよね。……私、なにも考えてなかった」


 美代さんの指摘に、さとみさんはすでに六時を回っている時計を見て、途方に暮れたような顔になる。

 寝たり泣いたりせず、スムーズに話ができれば日帰りできるとでも考えていたのだろうか?

 ちょっと妊婦としての自覚がなさ過ぎるんじゃないか。


「今から宿を探すのも疲れるでしょうし、ひとりで知らない場所に泊まってなにかあったら大変よ。今晩はこの家に泊まっていらっしゃい」

「え、ちょっと美代さん」

「大丈夫。私も泊まらせてもらうから。――ね? それなら安心でしょう?」


 そうなさいよと、美代さんに笑顔でごり押しされて、さとみさんは押し負けたように小さく頷いた。

 その間、俺に意見を言う権利はないらしく、しっかり無視されていた。家主なのにな。


 話が決まると、美代さんは女性の、それも妊婦さんの宿泊に必要なものを用意するからと、縁側に出て携帯であちこちに連絡しはじめた。

 しばらくして堅司がやって来て、風呂敷包みと紙袋を置いていった。着替えと顔に塗るものらしい。女の人って色々面倒だな。

 それでやっと落ち着いて、一休みしていたさとみさんと向き合う時間を取れた。


「さて、これでもう大丈夫。この家に居る間、あなたの身の回りのお世話は私がします。不自由はさせないから安心してね」

「ありがとうございます。色々とご迷惑をおかけしてすみません」

「迷惑だなんて、そんなこと考えなくてもいいの。赤ちゃんはみんなの宝物なんですからね」

「……宝物?」

「そうよ。あなたにとっても大事な宝物でしょう? それなのに、産み月で体調も良くないのに、ろくな計画も立てずにひとりで遠出するだなんて無茶もいいところよ」

「そう……ですよね。私……なんて馬鹿なことを……」


 さとみさんは指摘されてはじめて自分の無茶に気づいたらしい。両手でお腹に触れて、ごめんねと呟いた。


「夫に言われたんです。自分はいま動くと逃げたと思われて騒ぎになるから、代わりに私が相馬さんを説得するようにって。役立たずなりにできることをしろって……」

「なんて酷いことを言うのかしら。自分のことばかりで、妻と子供の心配は全然してないのね」


 あんまりだわと、美代さんがぷりぷり怒っている。

 普段はこんな風に怒ることなんてないから、きっとこれはわざとだ。

 さとみさんの感情をわざと煽って、重い口を開かせようとしてるんだろう。


 美代さん、名探偵で策士か……。……ちょっと怖い。


「……そう……私も、この子も……あの人から心配されてなかったんですね。あの人、私達を利用することしか考えてなかったんだ。……私、馬鹿みたい」


 再び、さとみさんの目に涙が滲んでくる。


「うわっ、まただ。美代さん、どうしよう」

「辛いのね。可哀想に……」


 オロオロしてしまう俺をシカトして、美代さんはさとみさんの背を撫でて話しかける。


「事情を聞かせてくれない? 亀の甲より年の功と言うでしょう。なにか力になれるかもしれないわ」


 ね? と促されて、両手でティッシュを持って涙を押さえていたさとみさんは無言のまま頷いた。


 これは落ちたな。凄い。

 長年に渡って地域の心の支えである神社の宮司を務めてきたのは伊達じゃない。

 俺は美代さんに尊敬の眼差しを向けた。さっきからシカトされたままだけど……。

 たぶん、さとみさんの口を割らせるのに、俺の存在が邪魔だったんだろう。


「勝矢くん、悪いんだけど、夕食の支度をお願いできるかしら?」


 その証拠に俺は、いいところであっさり茶の間を追い出されたのだから。





 だからこれは、後から美代さんに聞いた話だ。


「あの人と私、大学で出会ったんです」


 さとみさんは、佐倉と同じ美大に通っていたのだそうだ。

 はじまりは、大学時代に佐原の課題を手伝ったこと。

 その後、佐倉はちょくちょくさとみさんに頼るようになっていく。 

 最初のうちは頼られるのが嬉しかったから簡単に頷いていたが、そのうちに違和感を感じるようになり拒否したら、それならおまえとはもう終わりだと言われてしまった。


「私、あの人と別れたくなかったんです」


 だから協力し続けた。


――結婚してやるから。子供ができなくても離婚しないでいてやる。不妊治療をしてやってもいいぞ。


 自分のしていることに疑問を感じる度、そんな言葉に誑かされてずるずると自分の才能を佐倉に与え続けた。

 対価を支払ってデザインを買い取るのは当たり前、アシスタントのデザインを奪うのも、この業界では当たり前だと言われ続けて……。


 これはもう洗脳に近いのではないか?


 だが、妊娠したことで事態は変わってしまった。

 辛いつわりと体調不良で今までのようにアイデアを出すことができなくなってしまったさとみさんに、佐倉は今まで以上に辛く当たるようになったのだそうだ。


――役に立たない女を飼うつもりはない。おまえより才能のある女を見つけた。捨てられたくなかったら、もっと俺の役に立て。


 そんな言葉に追い立てられ、なにも考えられなくなったさとみさんは、佐倉に言われるまま新幹線に乗ってここまで来てしまった。

 正気に返った今は、赤ちゃんに申し訳ないことをしたと後悔しているようだ。





「その佐倉という人は、勝矢くんをさとみさんと同じように利用したかったのね。でも、その手段が見つからなかったから、自分の邪魔になるまえに排除することにしたのよ」


 台所の椅子に座った名探偵美代さんが、生姜湯を作っている俺の背中に向けてそんなことを言う。

 ちなみに、さとみさんは夕食を少量ながらもなんとか食べて、今は風呂だ。

 ひとりで大丈夫かなと俺が呟いたら、『なー』と透明猫になっている大さんの声がした。きっと自分が側で見守っていると言っているんだろう。


「さとみさんより才能のある女って、やっぱり京香なんだろうな」

「そうなんでしょうね」


 京香はノートパソコンを佐倉に渡す前に、あらかじめデータを抜いていたんだろう。

 ブランド物大好きで常に金を欲しがっていたから、あのデータが金になると思って。

 佐倉の腰巾着の笠原も俺のアイデアをパクってるのは、佐倉が横流ししたのか、京香がこっそり売りつけたのか。

 どっちにせよ、みんな同じ穴の狢だ。


 佐倉はどうやら本当にあの猫のイラストを描いたのが俺だとは知らなかったようだ。

 ただの恨みで、ネット炎上を煽っていると思っているのだろう。

 真実を知ったら、さてどんな顔をするか。

 ちょっと楽しみになってきた。


「さとみさんは、このまま佐倉の元に戻さないほうがいいよな」

「ええ。そこのところも後で私が相談に乗っておくわ」


 それなら一安心だ。

 ほっとしていると、表のほうで車のエンジンの音がする。

 丘の上の一軒屋だけに、来客がすぐにわかって便利なのだ。


「誰かな」

「たぶん、堅司くんよ。さっき、ちょっと調べ物を頼んたの。直接来たってことは、成果があったのね」

「調べ物?」


 聞いてないぞ。なんだそれ?


 名探偵はおっとりと微笑むと玄関へ向かった。


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