不意打ちと惑う女と守る猫 2
眠っている女性の顔を眺めるのは失礼にあたる。
俺はそっと茶の間を出ると、玄関の上がり框に腰を降ろして、美代さんの到着を待った。
開け放ったままの玄関から、切り取ったように明るい外の景色が見える。家の前に広がる庭を、ムラサキシジミがひらひらと横切っていった。
「もうすっかり秋だなぁ」
と言うか、もうじき冬かと言ったほうが正しい季節だ。
稲刈りはとっくに終わり、家のある丘の周囲の田んぼはもうすっかり丸裸。
冬に使う縁側の板戸も大工さん達が手入れしてくれたので、今年は開け閉めに苦労することもないだろう。
ここら辺は殆ど雪が降らないが、風は強い。
子供の頃は、びょうびょうと吹き続ける冬の風が防風林を揺らす音に怯えていたものだ。……今でもちょっと怖いけどな。
三十分ほどして、タクシーが戻ってきた。
「お連れしましたよ」
「助かります。ありがとうございました」
タクシーの運転手は、玄関先まで美代さんをエスコートしてくれてから帰って行った。なかなかの紳士だ。
「それで、その妊婦さんは?」
「茶の間に布団を敷いて寝かせてる。俺が前に勤めていた会社のお偉いさんの奥さんで、佐倉さとみさんっていうんだけど」
障子を少し開けて茶の間の中を見ると、さとみさんはぐっすり眠っているようだった。
そんな彼女をしばらく眺めた後で、美代さんはそっと障子を閉めた。
「病院に連れてったほうがいいかな?」
「いいえ、むしろ今はここにいたほうが良いわ。大さんが守ってくれているから安定してるんだと思うし……。ここから今すぐに離すと、また具合が悪くなるかもしれないわ」
「俺には見えないんだけど、美代さんには、大さん見えてるの?」
「姿を消されると私にも見えないわよ。でもなんとなく感じるの。今はあの妊婦さんに寄り添ってるって……。きっと赤ちゃんが心配なのね」
「そっか」
そういえば彼女、タクシーを降りたときよりずっと顔色がよくなってるし、寝顔も穏やかだ。
あれも、大さん効果なんだろうか?
大さんは優しいから、具合の悪い彼女とお腹の赤ちゃんをほっておけないんだな。
「彼女、しばらく起きないと思うわ。その間に詳しい事情を聞かせてくれる?」
「わかった」
彼女が起きたらすぐにわかるよう、縁側に座布団とお茶を持ってきて座った。
ガラス戸を閉めているから、縁側はサンルーム状態でぽかぽかだ。
「真希達から、俺の前の会社の話、なにか聞いてる?」
「いいえ。お祖父ちゃん達の血圧が上がるといけないからって、教えてくれなかったわ」
「じゃあ、そこからか」
俺は佐倉と京香に陥れられて会社を辞めたことや、昔自分が描いたデザインが盗作されている現状をとりあえずざっと美代さんに教えた。
すべて聞き終わった美代さんは、ふうっと深く息を吐いた。
「なにかあったんだろうとは思っていたけど、そんなことが……。確かに、源二さんあたりが聞いたら、怒りすぎて頭の血管が破裂しちゃうかもしれないわね」
「源爺、短気だから」
「それで、どうしてあの奥さんはここに? あのお腹から見て、そろそろ産み月でしょうに」
「それがよくわからなくてさ。いきなりアポなしで来られて、途方に暮れてるところ」
「そう。……あのね、参考になるかどうかわからないけれど、あの奥さんの乗ってきたタクシーに残り香のようなものがあったの」
「残り香って、香水? さとみさんからは、なにも匂わなかったけど」
「実際に匂いがするわけじゃないのよ。そうじゃなくて……以前『心残り』の話をしたでしょう? あれの生者版? あまり好きな言い方じゃないけれど、生き霊と言ったほうがわかりやすいかしら」
「あー、そっちかー……」
また怖い話か。
美代さんが、この子、大丈夫かしら、と不安げな視線を向けてくる。
情けないが、ざわっと鳥肌立ちました。怖いです。が、俺だって学んでいるのだ。
大さんがいるこの家には悪いものは入ってこれない。ここに居る限り安心なんだぜ。ふふん。
「さとみさんは、その生き霊のせいで具合が悪くなったってこと?」
「直接的な原因はそれじゃないの。前にも言ったけど、不安定な念の塊より生きてる人間のほうが強いから、普通ははじき飛ばしてしまうものなのよ。……ただねぇ、本人が弱っていると、それができずに憑かれてしまうこともあるのよ」
死者の『心残り』ならば一度はじき飛ばせば、それで消えてしまう。
だが、生者の生き霊の場合は、一度はじき飛ばしても、次から次へと送り込まれてくる。その母体が生者なだけに、きりが無いのだ。
無意識に他者に生き霊として憑いてしまうほどの、恨みや妬み、憎しみなどの感情は、そう簡単に解消されるものではないから……。
「あの奥さん、随分やつれているようだし、精神的にも不安定なんでしょう。弱っているところに、そんなものにべったり張り付かれて、相乗効果で具合が悪くなっているのよ。残り香があるぐらいだから、かなり強い念みたいだし……」
残り香か……。
比喩表現なんだろうけど、ただでさえ具合が悪いときに、常に不快な匂いが身体の周囲に漂っているとしたら、元気になろうという気力も削がれるだろう。
「今は大丈夫なんだろ?」
「ええ。この家は、大さんの結界内ですからね。はじき飛ばされて消えてるわ。もちろん、今ある分だけですけどね」
「ここから出れば、また憑かれる?」
「そうね。こういうことは念を送っている相手側に働きかけるのはとても難しいのよ。逆にこじれて悪化することのほうが多いわ。まずは本人が強くなって、相手側との距離を開けて、徐々に接点を断つようにするのが一番の解決策なのだけれど……」
そうは言っても、臨月のさとみさんの体調はそもそもよろしくないようだから、気力だってそう簡単には戻らないだろう。
それに、彼女を支えてくれるはずの夫である佐倉が、現在ネット炎上に巻き込まれて崖っぷち状態で役立たずだ。
「なんだって、こんな状態でわざわざここまで来たんだろうな」
「こんな状態だから……じゃないのかしら」
溜め息交じりに呟くと、美代さんが意外なことを言った。
「どういう意味?」
「……話を戻すけれど、京香さん……だったかしら。そのお嬢さんは勝矢くんと半年もお付き合いをするふりをしていたのよね?」
「だね」
「どうして、そんなに長くあなたの側にいたのかしら? セクハラの嫌疑をかけるためだけなら、一ヶ月程度で充分だとは思わない?」
「確かに。言われてみると変だな」
京香が俺を金蔓扱いしてただけという可能性もあるが、その為に佐倉が計画を実行する時期を引き延ばすとも思えない。
「ただの想像なのだけれど、もしかしたらそのお嬢さんは、あなたのことを探っていたのではないかしら」
「探る? 俺、探られるような悪いこと、なんにもしてないけど」
「だから、半年もかかったのよ。半年かけても、勝矢くんを脅迫して、言いなりにできるようななにかが見つからなかったから、仕方なくセクハラだなんて短絡的な手段を使ったんじゃなくて?」
「美代さん、凄いな。名探偵みたいだ」
俺が感動して誉めると、やあねぇと美代さんに肩を叩かれた。
「それでね。もうひとつ思いついたことがあるの」
「なに?」
「その佐倉という人は、自分の目的の為に、自分の愛人を勝矢くんに差し出したのよね? だったら、奥さんだって差し出すんじゃないかしら?」
「え!? いや、いくらなんでも、俺、妊婦さんとはつき合えないけど」
というか、この心をナッチの存在が大きく占めている間は、もう誰ともつき合う気はないぞ。
「馬鹿ね。そういう意味じゃ無いわよ。……ただね……とても嫌な想像だけど、もしもよ。もしも今、ここであの奥さんが流産したら、あなたの立場は悪くなるんじゃなくて?」
「え、いや、だって、俺が呼び出したわけじゃないし」
「そうね。でも、勝矢くんが何らかの手段で奥さんを脅迫して呼び出したんだっていう証拠を、佐倉という人が後から持ちだしてくるかもしれないわよ? 会社を辞めさせられたときのように……」
「は?」
間抜けにも俺はぽかんとしてしまった。
なんというか、それは俺の想像の範囲外すぎた。
俺を陥れる為だけに、わざわざ具合の悪い臨月の妻をここに寄こしたというのか?
「自分の子供の命を使うって、そんな……」
「ああ、そんな顔しないで。ただの想像なのよ? ……宮司なんて仕事をしているとね、いろんな人から相談を受けるの。その中には、とてもじゃないけど口に出せないようなことも沢山あるわ。鬼のような心根の人間も本当に居るものなのよ。そんな人の心の裏側を見つづけてきたから、少しだけ疑い深くなってしまったみたい。気持ち悪い話をしちゃって、ごめんなさいね」
顔面蒼白になった俺に、大丈夫? と心配そうに美代さんが背中を撫でてくれた。
両親と祖父母、親しい人達を次々に『死』によって失ってきた俺は、人の命に関わる話になるとどうしてもナーバスになってしまう。
だが、背中を撫でる小さな手の温かさで、なんとか気持ちを建て直すことができた。
「ごめん、美代さん。大丈夫だから……。俺の為に色々考えてくれたんだよな? ありがとう」
「いいのよ。私の方こそ、嫌なことを言ってごめんなさいね。――ただ、心構えだけはして欲しいの。あの『残り香』は普通のものじゃなかったわ。誰かはわからないけれど、あの奥さんの周囲には確かに怖い人がいるの」
「わかった。用心するよ。この家から離れるときは、堅司の守り石も持っているようにするし」
「そうね。それがいいわ」
「そういえば、この前、堅司の仕事場に行ったとき、美代さんに頼まれたって石を研磨してたけど、あれ完成した?」
「ええ、ほら、これよ」
美代さんが胸元から曲玉の形をした半透明の紫色の石を引っ張り出した。同系色の丸いビーズもいくつか一緒に黒の組紐に通されて、なかなか良い感じのネックレスになっている。
「へえ、これなら俺も欲しいな」
色違いで頼んでみようかなと話していると、『なー』と大さんの声が聞こえた。
どこで鳴いてるんだときょろきょろする俺を美代さんが不思議そうに見ている。どうやら、美代さんには大さんの声が聞こえなかったようだ。
「大さんの声がしたような気がするんだ」
「あら、じゃあ起きたのかもしれないわね」
そっと障子を開けると、ちょうどさとみさんが起き上がるところだった。
「気分はどうですか?」
「少し寝て、すっきりしました。あの……お話をさせてください」
「ああ、そのままそこで座ってらっしゃい。苦しいようだったら横になってもいいのよ」
美代さんが立ち上がろうとするさとみさんを宥めた。
「私は、この地域の氏神様を祭っている神社の元宮司の加東美代です。勝矢くんのお祖母ちゃん代わりなのよ。よろしくね。寝ていて喉が渇いたんじゃない? 勝矢くん、お茶でもいれてあげたら?」
「美代さん、妊婦さんにお茶っていいの?」
「がぶがぶ飲まなきゃ平気よ」
「あの……できれば白湯をいただけますか?」
「わかりました。ちょっと待ってくださいね」
台所で何度か湯冷ましを使って湧かしたお湯の温度を下げる。自分達の分はお茶を淹れてから、茶の間に戻った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
白湯を受け取ったさとみさんが、バッグから白い薬包を取り出す。
それを見て、美代さんが待ったをかけた。
「そのお薬は、お医者様からいただいたものなの?」
「いえ。これは主人が。お腹の張りに利くからと知人に勧められた漢方薬なんです」
「そう……。でも、今は飲まなくてもいいんじゃないかしら。人伝で聞いた話なんですけどね、産み月近くで漢方を飲むと副作用が出ることがあるそうよ」
「え、本当ですか?」
「人伝だから、本当か嘘かはわからないけど……。漢方は、飲む人の体質によって効果もまちまちだと言うし……。お医者さまからいただいた薬があるなら、そっちを飲んだほうがいいと思うわ」
「そう……ですね。そうします」
さとみさんはバッグから薬局の袋を取り出して、その薬を白湯で飲んだ。
その間に、ちらっと、美代さんが俺を見る。
その表情で、あ、さっきのは嘘なんだなとわかってしまった。
美代さんは、この状況で出所のはっきりしない漢方薬を飲ませたくなかったのだろう。
さすがにこれは年の功か。なかなかに用心深い。俺はそんな危険性なんて全然思いつきもしなかったぞ。
薬を飲み終わり、一息ついたさとみさんは布団の上で、できる限り居住まいを正して俺を見た。
「お話をしても?」
「はい、どうぞ。ただし、お腹の子供のことを第一に考えましょう。こちらの美代さんがストップを掛けたら、そこでお話は終了して休んでもらいます」
「わかりました。お気遣いありがとうございます。……少し、安心しました。相馬さんは、聞いていたよりずっと穏やかだし、思いやりもある方なんですね。きっとなにか行き違いがあったんですよね?」
「えっと、あの……。すみません。話が見えないんですが」
「あ、ごめんなさい。先走ってしまって……。今日はお願いに伺ったんです。主人への嫌がらせを止めて欲しくて」
嫌がらせ? 俺が? なんだそれ?
唐突なお願いに困惑した俺は、さとみさんが大きなお腹を押さえるようにして頭を下げるのを、ぼけっとして見ていた。