猫はネット上を駆けまわる 下
何度も言うが、俺は臆病で小心者で泣き虫な子供だった。
俺の小心者っぷりは伊達じゃない。家の外だけじゃなく、家の中でも常にビクビクしていたものだ。
そんな弱虫な俺を、両親はそれはもう溺愛していた。
親にも我が儘をいう意気地がない俺が呟いた、ほんの小さな言葉を聞き逃さないほどに……。
――あの腕輪、かっこいいなぁ。
当時人気だったアニメの主人公が付けていた腕輪。
特殊なカードをその腕輪に挿入することで神獣を召喚して戦うというアニメで、そのグッズが人気商品となっていた。そのCMを見た俺が呟いたひと言を両親は聞き逃してはくれなかった。
そのアニメの人気はすさまじく、社会現象になっていた。
当然のことながら、グッズは売り切れ必至の状況で、それでも両親は俺の為にとグッズを探し求めた。
電話であちこちのショップに在庫確認した父親は、たまたま隣県で在庫を見つけた。
ちょうど代休を取っていた父親は、愛するひとり息子を一刻も早く喜ばせようと、すぐさまその在庫を確保し、専業主婦だった母親を助手席に乗せて車で取りに行った。
その日は大雨だった。
両親は、俺が学校から帰る前に戻ろうと急いでいたのかもしれない。
雨にタイヤを取られて事故を起こし、命を落とした。
自損事故だった。
車の残骸の中からすっかり壊れてしまった玩具の包みを見つけてくれた警察の人達が、事故の原因をそんな風に推測するのを当時の俺は呆然としたまま聞いていた。
両親を失った直後の俺はただ『死』に怯えていて、両親がなぜ死んだのかに思いを巡らすことができずにいた。
だから警察の人達の話を思い出したのは、大さんとふたりの幼馴染みを得て、祖父母の愛情に触れてなんとか普通に日常を過ごせるようになった頃だ。
――僕が腕輪を欲しいなんて言わなければよかったんだ。そうしたら、パパとママは死ななかった。
両親を殺したのは自分だ。
俺は、そう思い込んで布団に潜り込んだまま泣きじゃくった。
祖父は、泣きじゃくる俺を根気よく宥めて、なぜ泣いているのかその理由をゆっくり聞き出してくれた。
――パパとママは、お前さんを喜ばせたくて雨の中を出掛けたんだ。悲しませたかったわけじゃないんだよ。
誰のせいでもない。ただ、ほんのちょっと運の巡りが悪かっただけ。よかれと思ってやったことで息子が苦しんでいると知ったら、両親はきっと嘆くだろう。
泣くなとは言わない。
ただ、自分を責めて傷つけるような真似だけはしちゃいけない。
祖父は泣きじゃくる俺の背中を撫でながら、穏やかに語りかけてくれた。
――そんなにめそめそ泣きたいんなら、まず水分取りな。そのままじゃ干からびちまうよ。
祖母は強引に布団を引っぺがして俺に無理矢理食事を取らせ、歯を磨かせ顔を洗わせて、日常生活を送らせようと努力してくれた。
そしてその間、大さんはずっと俺の側に寄り添って温めてくれていた。
祖父母ふたりともが教育に関わってきた人間だったことが、俺にとっては幸運だったのだと思う。
俺は根気強く支えてくれたふたりのお陰で、両親を殺したのは自分だという強迫観念から逃れることができた。
それでも、元々が臆病な小心者だったから、少しだけ後遺症が残った。
人に対して、強い態度に出ることをためらってしまうという後遺症が……。
堅司から、俺は追い詰められるとふいっとどこかに逃げてしまう癖があると指摘されたが、たぶんそれもその後遺症の一端なんだと思う。
俺に気がない癖につき合いを続けようとする京香に、こちらから強い態度で別れを切り出せなかったのもそうだ。
そして今、佐倉の妻子のことを気遣って、真実を明かすことをためらっているのもそうなんだろう。
俺のひと言で、誰かの人生が大きく変わるのが怖い。
ほんのちょっとの変化なら構わないが、それが命に関わるようなことになったらと思うと怖くて仕方ない。
「……ホント、俺ってしょうがないよなぁ」
「なー?」
深く溜め息をついたら、どうしたの? と大さんが声をかけてきた。
「大丈夫。大丈夫だよ、大さん。最終的にはちゃんとけりをつけるからさ」
とりあえず今はいったん引くが、それはあくまでも戦略的撤退だ。
いずれきちんとこの落とし前はつけてもらう。
撫でごたえのある大きな頭を撫でてから、喉のあたりをくしゃくしゃっとくすぐると、大さんはぐるると嬉しそうに喉を鳴らして、ふっさふさのしましま尻尾をばっさばっさと振った。
◇ ◆ ◇
そんなわけで俺は、とりあえず猫のストラップを引き出しにしまい一時的に忘れることにして、日常生活に戻った。
家の改築は順調に進み、最後のチェック時には俺も見ると源爺がしゃしゃり出てきて、家を建てた時の昔話をあーだこーだ延々としゃべりまくったせいで作業が一日伸びてしまったりもしたが、最終的にはお互いに満足のいく結果になった。
「またなにかありましたら、是非うちに声をかけてくださいよ。こういうしっかりした屋敷は手入れ次第で代替わりしてもずっと使えますからねえ」
「はい。そのときは是非よろしくお願いします」
大工さん達を見送った後は、仕事を始める為の機材の受け入れに取りかかった。
カラープリントにコピー、そしてスキャン機能も付いた大判複合機や、大型のライトテーブルとスチール棚等々。大量のファイル類の分類分けや手書き作業用の道具など、細かなものもこれからの作業で使いやすいようにきちんと整理して片付ける必要がある。
そこら辺はのんびり楽しくやろうと思っていたのに、その頃になると竜也が仕事を取ってくるようになったので、仕事と平行してやらなきゃならなくなった。
竜也の奴、俺を暇にさせないよう必死だな。覚えてろよ。
そんなこんなで忙しく過ごし、本気で猫のストラップの件を忘れかけていた頃、それは起きた。
夕食後、まったり大さんのシャンプー前のブラッシングにいそしんでいた俺は、表から聞こえてくる車の音に手を止めた。
さすがにこんな時間に縁側から訪ねてはこないだろうと、立ち上がって玄関に向かう。
「勝矢、いるー?」
「いるよ。ちょい待て。いま鍵開けるから」
玄関の引き戸を開けると、そこには真希と堅司が立っていた。
その後ろから、なぜか竜也まで顔を出す。
「ども、先輩。これお土産っす」
ずいっと目の前に出されたのは、アクリルケースの中にきちんと並べられた十種類のストラップの猫達。
「お、そっか。もうキャンペーンも後半に入ってるのか」
自分の絵が立体化されているのを見るのは嬉しいものだ。その出来がよければ、なおさら。
俺はすんなり受け取ったアクリルケースをついマジマジと眺めてから、はたと気づいた。
これは罠だ。やばい。
「先輩、間抜けっすね」
「あんた、気づいてたのね?」
「……相談しろって言ったよな」
恐る恐るケースから顔を上げると、三人とも不機嫌そうな顔をしている。
「あー、とりあえず、お茶でも淹れよっか」
「珈琲にして」
「それなら、俺よか堅司のほうが淹れるの上手だよな」
「……わかった」
優しい親友は不機嫌顔で美味しい珈琲を淹れてくれた。ホント、いい奴だよ。
大さんは珈琲が飲めないので、ほうじ茶を淹れてあげた。
「で、いつからパクられたってことに気づいてたんっすか?」
「あー、幼稚園の壁絵描きに行った日に、たまたま貰ったお茶のペットボトルがそれだったんだ」
「あのときには気づいてたの? もう! なんで言わないのよ!」
「いや、その……時期を見はからってたっていうか、あんま大騒ぎにしたくなかったからさ」
「手遅れっす。もうネット上では大騒ぎになってるっすよ」
「マジか?」
「マジっす。俺もそれで気づいたんすから……。迂闊っした。この猫ストラップ、惹かれるものはあったんすけど、まさか、先輩の中学時代の作品だったとは……」
「まさか、そこまでネットでばれてるわけじゃないよな? 真希達に聞いたんだだろ?」
「残念ながら、先輩の名前以外は全部ばれてるっすよ」
「なんでばれたんだ? たかが田舎の中学の修学旅行のしおりだぞ」
「違うっすよ。それだけじゃないっす。……先輩、知らなかったんすね」
あのしおりにしか使われていないと思っていた猫達は、実はその後、何年かに渡って、他の学校でもちょこちょこ顔を出していたらしい。
原因は、俺にしおりの絵を描いてくれと頼んだ先生だ。
俺がデータ化して渡した猫達の絵を気に入ってくれていた彼は、他の学校に転勤になってからも使っていたらしい。
「あー、そういや、そうだったかも。これからもなにかに使いたいからデータ化してくれって頼まれたんだっけ」
そんなことがあったと、すっかり忘れていた。
猫達は、そんなこんなで複数の学校で沢山の生徒達の目に触れてきたらしい。
今回のキャンペーンがはじまってしばらくして、かつて猫達を見た記憶のある人達が、ぽつぽつとネットにその情報を書き込み、物持ちのいい人が学校時代の冊子等に使われた猫達の写メをネットに上げたことで一気に情報が拡散されてしまったらしい。
この猫の絵を描いた人がキャラクターをデザインしたんじゃないかとデザイナーである佐倉が注目され、出身地がまったく違うということで、どういうことだと悪い意味で注目されている最中なのだとか。
ちなみに、猫のイラストを使っていた先生は、ネット上に個人名をあげる危険性をちゃんと把握してくれているようで、俺の名前をまだ黙秘してくれているらしい。ありがとう先生。
ネットで炎上しているのを知った竜也が、これは俺の作品なんじゃないかと真希達に連絡を取り、堅司が猫達の絵を記憶していたことで確信に至ったとか。
ちなみに、この三人、出会った日からグループラインで連絡を取り合っていたらしいよ。
なんで俺だけ、はぶられてるんだ? 泣くぞ。
「で、どうして佐倉は、先輩の猫のデザインを持ってたんすか?」
「……多分だけど、京香が横流ししたっぽいな」
俺はノートパソコンを取られた件や、その後の推測などを包み隠さず話した。
さっきから無言でぶっとい腕を組んで俺を睨んでいる親友の、無言の圧力に負けました。
「ろくなことしない女っすね」
「ホントだよなぁ」
「あんたもよ! 気づいてたんなら、なんで放置してたの!」
「いや、だってさぁ」
「なによ!?」
「佐倉の奥さん、そろそろ臨月なんだよ。赤ちゃんになにかあったら嫌だし……」
「……勝矢、もう手遅れだ。この騒動に、奥さんはもう巻き込まれてる」
「……だよなぁ」
俺は頭を抱えた。
こんなことになるなんて。
騒動にならないように黙っていたつもりだったのに、知らないうちにネット上で炎上していたとは……。
「なー」
頭を抱えたままうなだれる俺を心配したのか、大さんがぴたっと寄り添ってきた。
「大さん、ありがとな」
大さんのふかふかの毛並みを撫でて気持ちを落ち着かせながら、俺はどうすべきか考える。
今もネット上では、俺が描いた猫達があちこち駆けまわって、情報を拡散し続けている。
この猫達を描いたデザイナーが誰なのか?
その謎がみんなの興味を惹いているうちは、きっとこの騒動は収まらない。
そして、デザインをパクった佐倉が断罪されるまで、炎上を煽っている人達は納得してくれない。
もう腹をくくらなきゃ駄目だ。
「竜也、ちょっと調べて欲しいことがあるんだけど」
「なんすか? 俺、先輩のためならなんでもするっすよ」
……いや、なんかそこまで言われると怖いって。
反撃するなら、カードはすべて出揃えておきたい。
ずるずる後出しにすれば、騒動は長引く。
一気に片をつけたほうが、きっと周囲への影響も少なくてすむ。
そう考えた俺は、竜也に指示を与えた。