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引っ越しはまだ終わらない 下

「無理」


 勝利を確信していたプロポーズへの思いがけない返事に、マヌケにも俺はぱかっと口を開けてしまっていた。

 一瞬の放心の後、我に返ってナッチに聞き返す。


「……無理って、なにが?」

「ずっとふたり一緒に誕生日を祝うのが無理。あたし、三日後にはオーストリアだから、カッチとは結婚できない」

「はあ?」


 オーストリアの地方都市で新設される美術館に常設展示される彫刻を依頼され、現地で制作することが決まったのだとナッチが言う。


「向こうで仕事しながら、いろいろ勉強してくるつもりなんだ」


 以前から好きだった作家の元を訪ねたり、近隣の美術館を訪ねたり、やりたいことが山ほどあるから向こうには年単位で滞在する予定だとキラキラした目で語る。


――あ、これ、もう駄目だ。


 その目を見て、俺は悟ってしまった。

 ナッチは急ハンドルを切り、新たな目標に突っ走って行く。

 即断即決即実行。

 ナッチはもう俺に対する興味を失ったのだ。

 俺はふられたんじゃなく、捨てられたのだと……。


 三日後、ナッチは本当に旅立って行った。

 立つ鳥後を濁さずという諺通り、俺の部屋から見事に私物を全て片付け、「元気で。カッチ、幸せになってね」と笑って手を振って。

 俺はそんなナッチを、ただ呆然と眺めていた。

 ナッチのことを誰よりもよく知っているからこそ、引き止めても無駄だとわかっていた。


 その後しばらくの間、状況の変化に心が追いつかずぼんやり過ごした。

 十日過ぎたあたりでやっと現状を認識して、ちょっとイラッとした。


 なんて自分勝手な女だ。

 自分で俺を拾っておいて、いらなくなったからポイッと捨てるなんて。

 また俺をひとりにするなんて、なんて酷い女だ。


 イラッとしたけど、憎めはしなかった。

 だって、ナッチと過ごした日々はあまりにも楽しかった。

 ナッチを憎むことは、ふたりで過ごしたあの楽しい日々を否定することだ。

 そんな勿体ないこと、俺にはどうしたってできなかった。

 だから諦めた。

 諦めて、日々をただぼんやり生きた。

 ひとりで過ごす日々は虚しかった。

 望んで就いたはずの仕事にも以前ほどの達成感は無く、過ぎていく時間をただ見送る日々は虚しくて、それ以上に寂しかった。


――ひとりは嫌だなあ。


 ナッチがいた日々は楽しかった。

 また誰かと一緒になれば、この虚しさは消えるのだろうか?


 寂しさに負けた俺は、安易な選択をした。


 そして、ナッチを失ってもなおこの手に残っていたものまで失ってしまった。



   ◇ ◆ ◇



「これぞ、まさに都落ちってか」


 東京での生活基盤を失った俺は、田舎の祖父母の家に戻ってきていた。

 縁側に座って、へへっと独りごちつつ、スマホの画面を指でタップすると、途端に画面が賑やかに動きだしステージクリアを祝福する画像が映し出される。


「よし、クリア! この面には手こずったなあ」


 俺がやっているのは、いわゆるパズルゲームってやつだ。

 以前は通勤時の電車内の暇潰しでぼちぼちやっていたが、今はクリア時の爽快感とちょっとした達成感が癖になって日がな一日こればっかりやっている。

 まあ、いわゆる現実逃避だ。


「どうせ、やることもないんだし、少しぐらいのんびり過ごしたっていいだろ」


 庭を眺め、ペットボトルのお茶を一口。

 極力、茶の間のある後ろは振り返らない。

 なぜなら、現在そこには一週間以上敷きっぱなしの布団と、その周囲にコンビニ飯の残骸が散らばっているからだ。

 ちなみに、俺の部屋には荷解きしていない段ボール箱が積まれたままだ。


 もうこれ以上は無理だと決断して、東京での生活を切り上げたところまでは早かった。

 我ながらびっくりするほどテキパキ荷造りをし、長く暮らしたマンションを引き払い、マイカーで引っ越し荷物を積んだトラックを追いかけてここまで戻ってきた。

 だが、その後が駄目だった。

 荷物を運び込み、ほっと一息ついた途端にガクッと気持ちが落ち込み、なにをする気にもなれなくなったのだ。


 そして今、俺は日がな一日スマホゲームに熱中しまくっている。

 課金する度、「今回だけ」と誰にともなく言い訳しながら……。


「よし! 明日こそ、段ボール箱を開けるぞ。だから今日だけはごろごろしたっていいよな」


 何回目かわからなくなった意思表示をしてから、縁側に寝転がる。

 季節は晩夏。

 東京とは違う田舎ならではの涼しく心地いい風が縁側にぶら下げた風鈴をちりんと鳴らす。

 板敷きの縁側は硬いが、ひんやりして気持ちよかったりもする。


「……今だけだからさ」


 俺は誰にともなく言い訳しつつ、座布団を枕に昼寝と決め込んだ。



   ◇ ◆ ◇



 ビタッと腹を叩かれて、飛び起きた。


「うおっ、な、なに!?」

「なにじゃないよ! この馬鹿たれ!」


 夕焼け色に染まった縁側には祖母が立っていた。

 俺のTシャツをまくり上げ、汗ばんだ素肌を手の平で叩いたらしい。

 ヒリヒリして凄く痛い。


「なにやら落ち込んでるから黙ってたが、もう我慢できん! まず部屋の段ボール箱をなんとかしな。全部片付けろとは言わない。せめて服だけでも、今日中に収めるところに収めるんだ。――ほら、さっさと立つ!」

「はいっ!」


 ダンと床を踏みならした祖母に追い立てられるまま、俺は慌てて立ち上がって自分の部屋に向かった。

 若い頃は教師をしていたという祖母は怒らせるとそりゃもう怖い。

 抵抗しても無駄だってことは子供の頃に嫌ってほど学習させられたので、逆らう気力なんて微塵もわかない。

 今までの怠惰さはなんだったのだと自分でも呆れるほどのスピードで、引っ越し荷物を片付ける。

 衣装ケースに入れたまま運び込まれた秋冬の服はそのまま押し入れに、段ボール箱に詰め込んでいた夏物はタンスに、礼服やスーツ類はクローゼットに吊す。


「よしよし、今日のノルマ完了っと」


 小一時間ほどで作業は終わり、空になった段ボールを畳んで茶の間に戻り、はっと気づく。

 祖母はとっくの昔に、俺が高校三年のときに死んだはず。


「……寝ぼけたか。……ほんとに俺は馬鹿たれだな」


 そもそも、祖母が生きていたら、茶の間に万年床を敷いたり、ゴミを放置したりすることを許すわけがないのだ。


「あー、やっぱこんな生活、怒られるよなあ」


 茶の間にある仏壇を眺めて、ぼりぼりと頭をかいた。

 仏壇には祖父母と両親の写真を並べて飾ってある。

 祖父は、祖母の一年ほど前に死んだ。

 当時にしては珍しいほど結婚が遅かった祖父母は、遅くにひとり息子である俺の父親を産んだ。

 俺の父親も、長い独身生活を楽しんだ後で結婚したので、子供ができたのは遅かった。

 だから、ちょっとした持病はあったものの、ふたりとも寿命だったのだと俺は思っている。


「祖父ちゃん、祖母ちゃん、父さん、母さん、ごめんな」


 帰ってすぐに線香を上げただけで、後はずっと放置したままだった。

 なにもかも失って田舎に帰ってきたことがなんだか後ろめたくて、仏壇に向き合う気になれなかったのだ。


「明日はちゃんとご飯を炊いて、みんなにもお初を上げるから勘弁な」


 ささっと仏壇の埃を払い、水をあげて線香に火を点す。

 鐘を鳴らして手をあわせてから、もう一度勢い込んで立ち上がった。


「とりあえず、茶の間を片付けるか」


 コンビニご飯の残骸をゴミ袋に突っ込み、自室に積み上げた段ボール箱を見たくないばかりに茶の間に敷いた万年床のシーツと枕カバーを交換して洗濯した。

 本当に今日だけだからと言い訳しつつ、カップラーメンで適当に夕飯を食ってから風呂に入る。


「あー、生き返る」


 祖父こだわりの檜風呂に肩まで浸かり、湯で顔を洗う。

 明日はどういう順番で引っ越し荷物を片付けるかなぁと考えながら、何気なく湯につかった自分の身体を見下ろした俺は、ふと腹が赤くなっているのに気づいた。


「どこかにぶつけたっけ?」


 お湯越しにまじまじ見ると、赤くなったそれは手形に見えた。

 ちょうど、祖母が叩いた場所にくっきりと残るそれは、俺のものよりひとまわり以上小さい。


「嘘だろ。あれ……夢じゃなかったのか……」


 あまりの恐怖に、風呂に浸かっているにも拘わらず、ぞわわっと全身に怖気が走る。


「こ、こえ~」


 あれがいわゆる幽霊だとしても、相手は祖母だからそういう意味では怖くない。むしろ大歓迎だ。

 怖いのは、祖母がもう我慢できないと言ったこと。

 堪忍袋の緒が切れて化けてでるほど、祖母が俺の自堕落な生活にお怒りだという事実だ。

 いまだに俺にとって、怒り狂った祖母以上に恐ろしいものはないのだから。


「どうしよ……」


 好物を大量に作って仏壇に上げようか。

 いや、その前に引っ越し荷物を完璧に片付けないと、また寝込みを襲われそうだ。

 常々祖母は働かざる者食うべからずと言っていたから、仕事も探さねばならないだろう。

 恐ろし過ぎるお目付役が再び現れないよう、しっかりした生活を送らなければ。


 怠惰な生活一転、俺は風呂の中で冷や汗をかきつつ、忙しくなるだろう明日からの日々に思いを巡らせた。


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