ぶらぶら散歩で新しい仕事 上
翌日は昼近くなってから起きた。
月光浴は心身を浄化すると言われているが、その効果を打ち消すほどに飲み過ぎていたようで目覚めはあまりよろしくなかった。
風呂にも入らずに寝てしまったので、大さんと一緒に朝風呂としゃれ込む。
「あー、気持ちいー」
少し前まで、この時間は通勤時間帯だった。
痴漢冤罪を防ぐための自衛で両手でつり革を摑みながら、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に揺られていたものだ。
仕事を楽しいと思っていた頃はその日のスケジュールや仕事のことをあれこれ考えていたせいで苦にもならなかったが、やり甲斐を見失ってからは通勤時間帯は苦痛でしかたなかった。
ここで何らかの仕事を探すにしても、田舎故に車社会だから通勤はぐんと楽になるだろう。そこは素直に嬉しい。
「そろそろ食材も少なくなってきたし、今日の朝……もう昼飯か。で、残り物を片付けるか。ラタトゥイユもどきとチャーハンと漬け物……って、けっこうちぐはぐだけど、大さん平気か?」
「なー」
大さんは湯の中で気持ちよさそうに目をつむったままで鳴いた。
普段はふわっとまん丸い顔が濡れてシュッとしているが、すっかり風呂の気持ちよさに蕩けまくっていて野性味は感じない。可愛いばかりだ。
「じゃ、決まりだな。その後は、家の掃除して祠のあたりの草むしりもちょっとしてから、商店街のほうに散歩がてら行ってみるよ。百合庵にも顔出したいし、食材もそっちで買ってくる」
戻って以来、食料の買い出しは国道沿いのコンビニかショッピングモール内のスーパーで済ませていた。
商店街に顔を出して知り合いに会えば、きっと賑やかに出迎えてもらえる。厭世観に浸っていたかった俺にとって、それはちょっと避けたい事態だった。
だが都落ちだとやさぐれる時期はもう終わった。
これから俺は、ここで、大さんと一緒に土地神様の祠を守って生きていくと決めたのだから。
「大さんも一緒に行くか?」
「うなー」
この鳴き声はたぶん、行かない、と言ってるんだろう。
でっかい大さんを連れ歩くと目立つし言い訳も大変だが、本猫が行きたいならばと念のために聞いてみたが、正直ほっとした。
「わかった。じゃ、百合庵でお土産買ってくるよ。蕎麦よりお稲荷さんがいいか?」
「なー」
よしよしと、大さんの頭を濡れた手で撫でる。
ぴぴぴっと震えた耳が水滴を弾き顔に当たって、俺は目を細めた。
◇ ◆ ◇
食材をいろいろ買い込むことを考えて、商店街へは車で行った。
駅近くにあるコインパーキングに車を停めて、ぶらぶらと散歩がてら商店街へ向けて歩く。
この町で言うところの商店街は、駅前から続く大通り(前にも言ったが、田舎なので片側一車線の普通の道路だ)と平行している歩行者専用の二百メートルほどのアーケード商店街のことだ。
一昔前は近隣からも人出があるような賑やかな通りだったが、時代の流れと共に徐々に衰退し、以前帰省したときは、国道沿いに建築中だったショッピングモールに根こそぎ客を取られてしまうと店主達は戦々恐々としていた。
あれから二年、さてどうなっていることやら。
不安に思いながら、リリーベル商店街という看板が掲げられた入り口をくぐる。
まず真っ先に目に入ったのは、入り口すぐの店舗だ。以前は煙草屋だったそこは、今ではチェーンのクリーニング店の看板が出ている。
さらに進むと、履き物屋だった店舗がラーメン店へ、書店だったところが学習塾へと姿を変えている。
それ以外にも面変わりしている店がかなりある。というか、記憶通りの店のほうが少ないぐらいだ。
「……けっこう変わってるなぁ」
以前の店主達はどうしているのだろうか?
重い気持ちを抱えながら、以前と変わらぬ店のひとつである百合庵の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ。――おっ、おお! 勝矢くんか。久しぶりだなぁ。どうだ? 元気だったか?」
「どーも、お久しぶりです。お陰様でなんとか」
出迎えてくれたのは、店主の信さん。
子供の頃からつき合いがある彼は、祖父の教え子であると同時に、死んだ父とは高校の部活の先輩後輩の仲だったらしく、父の忘れ形見である俺に対してとても親身になってくれるありがたい人だ。
客で混む時間を避けていたので店内の客はまばらで、俺は「ここいいですか?」と自主的にちょうど空いている席に座ろうとしたのだが、「ちょっと待て」と信さんに止められた。
「どうせなら、個室を使えよ。積もる話もあるしな」
こっちこっちと手招きされるまま、奥のほうにある十二人用の広い個室に招かれる。
「ここ? 隣の狭い個室でもいいのに」
「大は小を兼ねるってな。蕎麦食ってくんだろ? なににする?」
「温かい鴨南蛮を。それと帰りに包んでもらいたいものもあって……」
忘れる前にと、大さんの為にお土産を注文する。
「ちょっと待ってろ。特別に美味い鴨南蛮を作ってやるからな」
信さんは浮き浮きした様子で厨房に消えた。やがて、鴨南蛮とちくわの天ぷらを乗せたトレイをてに戻って来る。
「ありがとう。いやー相変わらず美味そうだな」
鴨からでた油の旨みをたっぷり含んだつゆと田舎蕎麦の風味がマッチして実に美味いのだ。塩分は控えめで、より蕎麦の味を堪能できるようになっている。
信さんは、久しぶりの好物を上機嫌ですする俺の前に座って、最近の商店街の状況を教えてくれた。
「煙草屋夫婦はまだあそこにいるぞ。商売替えしてクリーニング店をやってるんだ。履き物屋は年も年だけに完全に廃業したな。店を売った金でサービス付き高齢者住宅ってのか? のんびり老後を過ごせる場所に引っ越していったよ」
ネット通販やショッピングモールに客を取られて厳しい状況になった書店は、都会で塾講師をしていた息子に代替わりしたそうだ。同じく厳しい状況だった酒屋は、起死回生の策として、珍しい地酒や地ビールを取り扱いはじめ、セルフサービスで立ち飲み屋もはじめたのだとか。
「コップ酒やビールを店内で買うんだ。つまみも店で売ってる乾き物だけだが、この商店街で売っている商品ならレシートさえ在れば持ち込みOKってことになってる」
ただし、コンビニやファストフード店は禁止。客が減って経営が苦しくなっていた八百屋や肉屋、魚屋などが店頭で売り出すようになっている総菜類ならOKらしい。
焼き鳥にメンチカツ、コロッケに焼き魚に煮魚、和菓子にせんべい等々と、つまみはけっこう充実しているらしい。
「八百屋でフルーツジュース買って、それを割り材にして飲む奴もいるそうだ」
「じゃあ、二年前に予想してたより、状況はマシなんだ?」
「ああ。むしろ、以前よりよくなってるかもな」
ショッピングモールに客を取られると思っていたが、そうでもなかったらしい。
ショッピングモールは、マンションを挟んで駅とは反対側にあって、会社帰りに買い物をするには少々不便だったようだ。もちろん、休日にそこでまとめ買いする人達が殆どだが、平日に駅からマンションへと帰宅する途中で足りないものを商店街でちょこちょこ買い込んで行ってくれるらしい。
大規模マンションで住人が増えた分、飲食店も増えたし、学習塾だけじゃなく、花屋が運営するフラワーアレンジメント教室や料理教室など、カルチャースクールも少しずつ増えて来ているのだとか。
「石屋のせがれに聞いたが、勝矢くんは仕事辞めてこっちに帰ってきたんだってな?」
「まあ、そうだな」
「今なら、ここで書道教室を開いてもやっていけると思うぞ」
まだ競争相手もいないし、どうだ? と信さんが言う。
「ここでって、ここ?」
「そうだ。お前のお祖父さんみたいに書道の先生をやるんだよ。資格、持ってるんだろ?」
「そりゃ、一応持ってるけど……」
祖父の書は、俺にとってデザイン的な意味でとても魅力的だった。
だから勧められるままに、よろこんでその指導も受けたものだ。
資格を取ったのは、無駄にはならないからと祖母に尻を叩かれ、仕方なくだったが……。
「先生は俺が路頭に迷いかけたとき助けてくれた。今度は俺が先生の孫であるお前を助ける番だ」
「いやいやいや、ちょっと待って。俺、書道教室なんて開く気ないし」
「本当か? 俺に気を使ってるんじゃないのか?」
「気なんてつかってないって」
かつて信さんは脱サラして百合庵をはじめた。当初の店舗は住宅街のほうにあり、客足が少なくてすぐに赤字経営に突入してしまったらしい。それを知った祖父が、この場所を信さんに譲り渡したのだ。
持病が悪化して継続して生徒達を指導できなくなりつつあった祖父にとっては、この土地を無駄にせずに済むちょうどいいタイミングだったらしい。
だが、信さんにとってはまさに救いの神。いまだに深い恩義を感じているのだ。
「書道教室をやる気はなくても、なにか商売をはじめるとか、ないのか?」
「今のところはまだなんにも考えてない。っていうか、信さん。どっか具合悪いわけじゃないよな?」
「いや、健康だが」
「だったら、このままここで百合庵続けてくれ。せっかく帰ってきたのに、ここの蕎麦が食えなくなるなんて、俺、嫌だよ」
「そ、そうか?」
「俺にとって、ここの蕎麦はふるさとの味だからさ。無くしたくないんだ。それに、これからなにか商売をはじめることがあったとしても、こんな商店街のど真ん中にふさわしい客商売だけはしないし」
小心者で臆病な俺にとって、客商売は鬼門だ。同じく先生業も向いてない。……モンスターペアレンツとか本気で怖いし。
「そうか。ふるさとの味か……」
「そうそう」
「ここはじめて、まだ二十年も経ってないんだがな」
「信さんにとってはまだ二十年でも、俺にとっての二十年は長いよ。小学校の頃から食べてる味なんだからさ」
「そうか。……そうなるか。だったら、もうちょっと頑張るか。お前さん等の子供の世代にも、ここの蕎麦の味を知って欲しいしな」
信さんはなにかふっきれたようで、すっきりした顔でくしゃっと笑った。
蕎麦を食べ終わり、玄米茶を飲みつつ、信さんから最近の商店街の話の続きを聞いていると、急に店のほうから賑やかな声が聞こえてきた。
「おっ、先生のところの坊ちゃんはこっちだ。――坊ちゃん、久しぶりですな」
「おお、こりゃ、立派になって」
「元気そうですな」
いきなり個室の戸が開かれ、初老の男達が五人ほど賑やかに入ってきて、テーブルの端に複数の総菜のパックや野菜類等をどさどさと置いて、勝手に座りはじめる。
「坊ちゃん、これはちょっとした儂等の気持ちです。帰りにお持ちください」
「あー、ありがとうございます。先日も色々貰って感謝してます。……でも、坊ちゃんは止めてください。頼むから」
二十代後半で坊ちゃん呼びはキツい。ダメージハンパない。誰かに聞かれたら恥ずかしくて死ねる。
「じゃあ、勝矢くん……いや、もう勝矢さんか。それでよろしいか?」
「ええ、まあ」
男達は皆、この商店街の重鎮達だ。
突然の来襲者に驚いた様子が見られないので、たぶん信さんが呼び寄せたんだろう。
「お帰りになったと聞いてから、ずっと商店街にいらっしゃるのをお待ちしてたんですよ。なかなか姿を現さないので、先代宮司さんにも話を通したんですが、話は聞いとりますか?」
「商店街に顔を出せとは言われましたけど、それ以外はなにも」
なにが起こっているのかわからないが、美代さんが絡んでいる話なら、そう警戒することもないだろう。
「えーっと、俺になにか?」
「ええ、ちょっとお頼みしたいことがありまして……。――あ、今は儂がこの商店街の長をやっとります」
八百屋の店主、志藤さんが、リリーベル商店街振興組合の理事長の名刺を出した。
「まずは、これを見ていただきたいんですが……」
「はあ」
次いで差し出された、ポスターらしき紙の筒を受け取る。
そのポスターをテーブルの上に広げた途端、なんとなくこの話の先の流れが読めてきた。
と、同時に、室内に貼られたカレンダーに慌てて視線を向けた。