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神社からの眺めと優しい瞳 5

「勝矢くん、最後まで泣かなかったわね。京子先生の話の『心残り』や、大さんが消えた理由を話したら泣くかと思っていたのに……」


 帰り際、美代さんが言った。

 石に幽霊が憑いている話をしたら絶対に怖がって泣くと思っていたわ、と、ついでのようにからかわれる。


「子供の頃の泣いている姿ばかりが強く印象に残ってしまって、つい子供扱いしてしまうけど、あなたはもう大人なのよねぇ」

「当然。真希や堅司と同い年なんだぜ」

「そうは言っても、勝矢くんは高校生になってからも泣き虫だったじゃないの。真希や堅司くんはもう全然泣かなくなってたのに……」


 それを言われるとぐうの音も出ない。

 大さんが死んだと思ったときはもちろん、上京するときに見送りに来てくれた美代さん達の前で大泣きしてしまったのは、故意に忘れてしまったことにした過去だ。……記憶にございません。ええ、まったく。


「泣き虫の印象を変えてもらえるよう、これから頑張るよ」

「あら、そう? じゃあ、楽しみにしてますからね」

「はいはい。……まずは仕事を探さないとなー」

「そうね。まずは、商店街を見ていらっしゃいな。先々のことを考えるにしても、これから暮らすことになるこの町の今の状況を知っておかないとね」


 商店街の店主さん達も俺が顔を出しに行くのを待っていると美代さんが言う。

 百合庵に引っ越し蕎麦を頼んだ際、俺を『先生のところの坊ちゃん』呼ばわりして、あれこれ差し入れしてくれた人達だ。そういや、差し入れのお礼もまだ言ってなかったな。


「わかった。百合庵にもまだ行ってないし。散歩がてら、商店街に遊びに行ってみるよ」


 じゃあ、またと挨拶して車に戻る。

 バックミラーに映る美代さんは、その姿が見えなくなるまでずっと見送ってくれていた。




 その日の夜は、お裾分けよと美代さんから貰った重箱で夕食にした。

 中身は山菜おこわと鳥の竜田揚げ、インゲンのゴマ和えと赤かぶの漬け物だ。

 大さんが食べやすいように皿に盛りつけてから、一緒にいただきます(大さんもちゃんと食べる前には、軽く頭を下げて「なー」と鳴くのだ。賢いだろ)をして食べはじめる。


「大さん、うまいか?」

「なー」


 大さんはふっさふさのしましま尻尾をばっさばっさ振って答えた。


「そういや、山菜おこわって大さんの好物だったよなぁ」


 大さんは基本的に餅米で作られた料理が大好きだ。それに、たしか、お稲荷さんも大好きだったはず。

 そういえば、この前、朝ご飯にしてねと美代さんと克江さんから、お稲荷さんを貰ったな。

 美代さん達は、大さんが俺専用の守り神だと思っているようだから、たぶんこれは付け届けみたいなものなのかもしれない。

 ふたりとも、俺の保護者気分でいてくれてるんだろう。ありがたいと思う。


 食事中、ふと思いたってテレビの電源を入れた。

 引っ越して以来、テレビの電源を入れたのは最初に設置したときだけで、それ以降は置物と化していた。

 まあ、ぶっちゃけ、社会との接点を極力減らして厭世観に浸っていたのだ。

 テレビ画面の中ではニュース番組のキャスター達が、地元の話題を楽しげに語っている。会話のペースは遅いし、だじゃれ混じりで突っ込み処の多い内容だった。

 でも、のどかでローカル色も豊かで、ああ、本当に帰って来たんだなと実感させてもらった。



 夕食の後、網戸から入ってくる風を少し寒く感じて、縁側を閉めに行った。

 玄関に近い縁側の建具を閉めてから、奥の庭に面した縁側に向かうと、見上げた空に丸い月がぽっかり浮いているのが見えた。


「そろそろ満月か……」


 東京で暮らしていたときは、月の満ち欠けなんて気にもしていなかったが、ここでは自然に目に入る。

 昔、ここで暮らしていた頃はまだ夜が怖かったから、こんな風に落ち着いた気分で月を見上げることはなかった。

 闇夜に浮かぶ月を見て、自然に綺麗だと思えるんだから俺も大人になったもんだぜ。ふふん。


「どうせなら、月光浴としゃれ込むか。――大さ~ん、俺と縁側で月見酒しよーぜ」

「なあぁぁぁ~ん」


 茶の間にいる大さんに声をかけると、大さんが鳴きながら駆け寄ってきて、俺の足に、すりっと頭をこすりつけてくる。


「お、嬉しそうだな。そういや、大さん、祖父ちゃんとよく縁側で酒飲んでたよなぁ」


 ふたり(ひとりと一頭?)で縁側に座って、のんびり月を見上げていた姿を思い出す。

 大さんはあの静かな時間が大好きだったのかもしれない。

 これからは俺が、祖父のように一緒に過ごす番だ。


 縁側はかなり涼しい。厚手のカーディガンを羽織ってから、酒を用意すべく台所に向かう。


「大さん、酒はウヰスキーで良いよな?」

「……うなー」

「え、いやなのか? じゃあ、ビールは?」

「うなー」


 大さんは珍しく鼻の頭に皺を寄せている。


「あー、じゃあ、源爺が残していった日本酒は?」

「なー」

「よしよし。あとはつまみだな。なにがいい?」


 冷蔵庫を開けて物色していると、後ろからすりっと大さんにすり寄られた。

 振り返ると、大さんが美代さんから貰った和菓子屋の袋をくわえていた。


「大さん、それ、作爺の団子だぞ。あんこを塗ったやつ」


 日本酒に甘いつまみはどうだろう? と思ったのだが、大さんはふっさふさのしましま尻尾をばっさばっさと振っている。


「わかったよ。じゃ、大さんのつまみはそれな。――俺はウヰスキーにしよっかな」


 お盆にあれこれ乗せて縁側に向かう。

 その前に家中の電気を消すのも忘れない。月見の為に縁側の網戸を開けるにしても、虫が家の中に飛び込んでくるのは極力防止したいからだ。


 大さん用に櫛から外した餡子の団子を皿に盛り、大きめの盃に日本酒を注ぐ。

 俺の分は、小皿に乗せたナッツと、クラッシュした氷をぎっしりつめたグラスにウヰスキーをたっぷりだ。


「よし、じゃあ、乾杯」

「なー」


 大さんの盃にグラスを軽く当てて乾杯した。

 一口飲んで鼻から抜ける濃い酒精と香りを楽しむ。大さんを見ると、ぺろぺろっと美味しそうに日本酒を舐めてから、餡子がたっぷり乗った団子を一個口に運んで、にっちゃにっちゃとやっぱり美味そうに食べている。

 幸せそうでなによりだ。


「……大さん、俺さ。小さい頃は、こっちの縁側が苦手だったんだ」


 玄関に近いほうの縁側は、庭も明るい雰囲気だし、田んぼの向こうに町の灯りも見えるしで夜でもちょっとしか怖いとは思わなかったが、こっち側の縁側は違う。

 防風林に囲まれた広い裏庭の奥の方に、祖父が仕事に専念するときに使っていた離れがあるのだが、灯りがついていないとどうしても淋しげな雰囲気に見えるし、なによりその手前には例の祠がある。

 ちゃんと祭っているとはいえ、祠なんて子供の頃の俺にとって恐怖の対象でしかなかった。祖父母がいないときは絶対に近寄らなかったぐらいだ。


「土地神様か……。けっきょく、正体は分からずじまいだったな。でも、大さんが大事にしている神さまなら、これからは俺も大事にするよ」

「なーう」


 大さんが嬉しそうに目を細める。

 正直、正体の分からない土地神様はちょっと怖いが、でも、大さん絡みなら大丈夫なんじゃないかと思える。

 最悪、なにかがあったとしても大さんが守ってくれるだろうしな。信じてるぞ、相棒。


 たまに酒をつぎ足しながら、月を見上げて静かな夜を楽しんだ。

 東京の明るい夜空とはまったく違う。周囲を田んぼと畑に囲まれたこの丘の上から見る月は、冴え冴えと明るく輝いていて、縁側にくっきりと影すら映るほどだ。

 ふと、この綺麗な月をナッチに見せてあげたいと思った。


――ナッチ、ほら、月が綺麗だろ?


 心の中で話しかける。


――うん、カッチ。でもね、ふたりで見るから余計に綺麗に見えるんだよ。


 月が綺麗ですね、は、かつて夏目漱石が" I love you "を翻訳したときの言葉だと思い出したせいか、記憶の中のナッチが嬉しくなるような返事をくれた。


 我ながら、まったくしょうがない。


 ちょっと切ない気分で月を見上げていると、傍らの大さんが「な」と小さく鳴いた。

 見ると、大さんは目を細め、耳をピクピク動かしている。その姿は、まるで誰かから頭を撫でられているように見えた。


「……大さん、もしかして、そこに祖母ちゃんがいるのか?」

「なー」

「そっか」


 残念ながら、目をこらしても俺には見えない。

 だから、大さんの視線を辿って、たぶんここにいるんだろうと思える場所に目線を向けた。


「祖母ちゃん、いっぱい心配かけてごめんな。俺は、もう大丈夫だ。大さんもこうして側に戻ってきたしひとりでも充分やっていける。夜ひとりでも泣いたりしないしさ」


 誰もいない場所に、ひとりで語りかけるのは気恥ずかしい。

 でも、声に出して話さなければ、伝わらない気がした。

 幽霊とか『心残り』とか、ちょっと変わった存在になったからと言って、生きている人間の心が読めるとは思えない。

 伝えようとしなければ、きっとこちらの気持ちは正確には伝わらない。


「大さんがいなくなったときは悲しかったし、後悔もした。でも、必要なことだったんだと思う。……俺さ、東京で一目惚れされたんだ。俺が一目惚れしたんじゃないぞ。向こうから一目惚れされたんだ。凄いだろ。けっこう美人で、しょっちゅう突拍子もないことする女で、でも情が深くて、俺を本気で愛してくれる女に出会ったんだ」


 そこは疑ってない。

 捨てられはしたけど、それでも本気で愛されていたんだと信じてる。


「まあ、最終的に捨てられたけどさ。それでも、俺はあいつのこと愛してる。……心から愛してるって思える相手に会えて、よかったと思ってる」


 捨てられて辛いし、淋しいけどな。

 失うぐらいなら出会わなければよかっただなんて思えない。

 人生に別れはつきものだ。

 子供の頃に両親を亡くし、成長途中で祖父母を亡くした俺は誰よりもよくそのことを理解している。

 失っても別れても、残るものはある。

 共に積み重ねた日々で得た経験や感情は記憶として残るし、そうした日々を越えて成長したからこそ俺は今の自分になったのだ。

 別れることを恐れるなら、そもそも出会いすら拒絶しなきゃならなくなる。

 そんなことを言っていたら、揺りかごから棺桶まで誰とも関わらず、ひとりで生きていかなきゃならなくなる。

 それでは、人間は生きていけない。

 

「だから、大さんに姿を消してくれって頼んだ祖母ちゃんの判断は間違ってなかったと今では思えるようになったよ。――ばあちゃん、ありがとな」


 俺は見えない祖母に頭を下げた。


「大さんもありがとな。祖母ちゃんにお礼を言う機会をくれて……」


 いくつかの出会いと別れを経験した今だからこそ、大さんとの別れが必要だと判断した祖母の考えも理解できる。

 死の間際の祖母が、どれだけ俺を想い、案じてくれていたか知ることができて嬉しいとも思う。


 だからこそ、もういい。 


 ここに存在しているものが、祖母本人じゃないことはわかっている。だが、どんなに小さな欠片であっても祖母は祖母だ。

 一瞬とはいえ、また会えたことは嬉しいが、『心残り』という名の悔いを残していたのだと知ればやはり辛い。

 祖母には心安らかでいて欲しかった。


「なあ、祖母ちゃん。もう『心残り』を消して、これからはただ俺を見守っててくれよ。祖母ちゃんの目から見たら、まだまだ危なっかしいかもしれないけどさ。俺ももういい大人だ。痛い目にあってもなんとか立ち直れるだけの力はあるからさ」

「なー」


 大さんの耳がぴくぴくっと動く。じっと見ていると、うっすらとその頭を撫でる手が見えた。

 その手を辿るようにして、大さんが見つめている先に視線を向けると、ぼんやりと祖母の姿が見えてきた。

 もしかしたら、大さんが力を貸してくれているのかもしれない。

 祖母は口を動かしなにか言っているようだが、残念ながら声は聞こえなかった。


「ごめん、祖母ちゃん。俺には聞こえないよ」


 そう言うと、祖母は潔く口を閉じ、ただ黙って俺を見つめた。

 祖父が優しい分だけ、祖母は厳しかった。たぶん、ふたりで飴と鞭を使い分けていたんだろう。

 厳しかったし、叱られてばかりだったけど、俺は祖母が大好きだった。

 どんなに怒っているときでも、祖母の俺を見る目はとても優しく、愛情に満ちていたから。

 今もそうだ。

 黙って見つめるその瞳だけで、充分に祖母の思いが伝わってくる。


 じっと見つめ合っているうちに、徐々に祖母の姿が薄れていく。

 完全に見えなくなったとき、ふと額に手の平で触れられたような感触があった。


 この感触は知っている。

 俺が熱を出していないかどうか、確かめるときの祖母の手の平の感触だ。

 風が冷たくなってきたから、心配してくれたのだろうか?


「大丈夫だよ。 もう昔みたいに簡単に熱を出したりしないから」


――そうかい? だが油断は禁物だ。


 幻聴のように、耳の中で祖母の厳しい声がかすかに響く。


 きっと祖母の『心残り』は、俺の中に還ったのだろう。

 そう確信した。


 その考えを肯定するかのように、祖母を見ていたはずの大さんの視線がいつの間にか俺に向いていた。


「大さん、ありがとな」


 お礼を言うと、大さんはぐるるっと喉を鳴らしながら、俺の手をザリザリと舐めてくれた。

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