神社からの眺めと優しい瞳 3
「もちろん勝矢くんのことを心配してなかったわけじゃないのよ。ただ師匠は、想いを残すことを自分に許してあげられなかったのね」
「まあ、確かに……。自分には厳しい人だったし」
なにか含みのある言い方だ、
祖父との長いつき合いの中で、美代さんには祖父の信念のようなものを知る機会でもあったのかもしれない。
己に厳しく人にはとても優しかった祖父を思い出しながら、俺はそれ以上深く聞かずに頷いた。
「心配なら生前の祖父ちゃんに散々してもらったし、俺への『心残り』がなかったからって拗ねたりしないよ」
本当に、生前の祖父には散々心配をかけまくった。
泣き虫弱虫臆病で小心者の孫がしくしく泣く度に、祖父は根気よく慰めて励ましてくれたものだ。
高齢の上、持病を持っていた祖父は、自分の死がそう遠くないことを知っていたのだろう。
自分の死後、俺が困ることがないようにと相続税対策は完璧だったし、もしものときは後ろ盾になってやってくれと源爺達に俺のことを頼んでくれていた。
俺を育てる為であっても事故死だった両親の保険金をまったく使わず、そっくりそのまま残してくれたし、両親の生前に暮らしていたマンションは賃貸物件として貸し出され、その賃料もしっかり積み立ててあった。書道教室を開いていた商店街の土地は、今も百合庵に貸し出しているので、その賃料も月々入ってくる。
そのお陰で俺はひとりになっても無事に大学に進学できたし、無職になった今、もしも病気や怪我で寝たきりになったとしても不自由なく生活できるぐらいの蓄えもある。
祖父は心残りが残るような余地がないぐらいに、俺の先々のことまで心配し、考え抜いていてくれたのだ。
「それに、祖父ちゃんが逝ったときは、まだ祖母ちゃんもいたからな」
「そうね。……でも、京子先生のときは違ったのよねぇ」
「ん?」
「ねえ、勝矢くん。師匠が亡くなった後で、京子先生と喧嘩したこと覚えてる?」
「もちろん。っていっても、あれじゃ喧嘩にもなってないだろ」
祖父が死んだのは高校二年、そろそろ進路先を考えはじめる頃だった。
当時からデザイン関係に興味があった俺は、どうせなら本格的にやってみようと東京の大学に進学することをおぼろげに考えはじめていたが、祖父が死んで考えが変わった。
俺には、祖母をひとり置いていくことがどうしてもできなかったのだ。
幸いなことに、この家からでもぎりぎり通える地元の大学にもデザイン科はあった。
そこでもある程度のことは学べる。だから地元に残るつもりだと祖母に話したのだが、その途端、
――この馬鹿たれ!
祖母に怒鳴りつけられた。
――お前の将来がかかってるんだ。妥協してどうする!
頭ごなしに叱りつけられ、気迫負けした俺はいったん退却。その後、源爺や美代さんに援軍を頼もうとしたが、すでに彼らは祖母の陣営に組み込まれていて、逆にみんなから説教された。
最終的に俺は敗北した。
その当時はまだ大さんがいたから、ひとりになっても祖母も淋しくはないだろうと自分を納得させて。
「みんなしてグルになって俺をやっつけようとして、ホント酷かったよな」
「勝矢くんが地元に残るって言い出すことは予想できていたから、みんなで相談済みだったのよ」
過ぎた日のことを愚痴ると、ほほほと美代さんが笑った。
そして、ふうっと息を吐くと真顔になって、俺を見る。
「あの騒動が一段落した後にね。京子先生が言ってたの」
――今回は大さんがいたからなんとかなった。でも、いま私が死んだら、あの子はどうなるだろうねぇ。……もしものときは、大さん、頼んだよ。
「……祖母ちゃんが死んだ後で、大さんも消えちまったけどな」
「そうね。それで私達も気づいたのよ。それこそが、京子先生が大さんに頼んだことだったんだって」
「どういうこと?」
「最初はね。もしものときは、勝矢くんを慰めてやってくれって言ってるんだと思ったのよ。でも、違ったのね。京子先生は、勝矢くんがこの地に縛られないよう、大さんに姿を消してくれるように頼んでいたんだわ」
「縛られる? なんだよ、それ?」
「ねえ、勝矢くん、想像してみて。あのとき、大さんが姿を消さなかったら、どうしてたと思う?」
どうしてたって、そんなの考えるまでもない。
俺はきっと、ずっと大さんと一緒にいた。
祖父母を失った俺にとって、大さんはたったひとり残った家族だった。
ふっさふさのしましま尻尾、そっと寄り添ってくれる柔らかな毛並みとほのかな温もり。
大さんと一緒にいられるなら、きっとどんなことだってやった。
そう、進路を変えることだって簡単にできた。
「……縛られるとかじゃなく、ただ一緒にいたかっただけだ。それって、悪いことなのか?」
「京子先生はそう思ったんでしょうね。勝矢くんの将来のことを考えて、大さんに頼んだんでしょう」
「姿を消してくれって? あのとき……俺がどんなに……」
姿を消した大さんを探して探して……。
探し回っていたときの不安と焦り、探すのを諦めたときの悲しさと後悔が一気に胸をよぎって言葉につまる。
「なー」
そこにいるのを確かめるように大さんの大きな頭を撫でると、大さんはすりっと自分から頭を押しつけてきた。
「勝矢くんがどんなに苦しんでたか、側で見ていたからわかるわ。きっとね、生前の京子先生も、勝矢くんがどんなに苦しむことになるかわかってたんだと思うの。だから京子先生の『心残り』もまだ消えずにいるんだわ」
通常、『心残り』は数ヶ月、長くても一年程度で消えるものらしい。
魂そのものとはちがって、長く自我を保っていられないせいだ。
「京子先生の『心残り』が消えずにいるのは、きっとその『心残り』に大さんも関わっていたからだと思うの。勝矢くんから大さんを奪ってしまうことが良いことなのかどうか、きっと京子先生にも確信がなかったのね。最後まで迷っていたんでしょう。――でも、もうそれも終わり、もうじき消えるわ。力を使い果たしたせいだけじゃなく、大さんが戻ってきたことで安心したみたいだから」
「そっか。……なんか、祖母ちゃんの『心残り』を無駄に悩ませて悪いことしたな」
「無駄?」
「だって、そうだろ。わざわざ大さんに消えてもらってまで上京したのに、俺は結局むこうで手に入れたもの全部なくしてこっちに戻ってきちゃったんだからさ」
愛した女も、やり甲斐のある仕事も、俺は全て失った。
これじゃあ、なんのために上京したのかわからない。
ただ無駄に時間を使ったようなものだ。
俺はそう思ったのだが、美代さんは違ったようだ。
「いやぁね、やさぐれちゃって……。楽しいことだって沢山あったでしょうに……」
「そりゃ、あったけどさ。でも、もうなんも残ってないし」
「馬鹿ね。ここに残ってるでしょう?」
あ、美代さんにまで馬鹿っていわれた。
ちょっとショックな俺を見つめながら、美代さんは自分の胸に手を当てた。
「形としてなにも残らなくても、楽しさや幸せを感じた瞬間の気持ちはちゃんとここに残ってる。それが積み重なってあなたの魂を形作って深みを与えていくのよ。京子先生の『心残り』だって、生前の京子先生が積み重ねた想いの固まりのようなものなんですからね。触れられないものだからといって、否定しないであげて。――向こうで過ごしたことを、……夏美ちゃんとのことを後悔してるわけじゃないんでしょう?」
「……後悔はしてないよ」
うん、後悔はしてない。
――愛だね、カッチ!
記憶の中のナッチが明るく笑う。
そうだな、ナッチ。これは、愛だ。
ナッチと出会ったこと、ナッチを愛したことは、今でも俺の一番の幸せだ。
俺は、今もまだナッチを愛してる。
だからこそ、ひとりになってしまったことが余計に辛いし、淋しい。
過去じゃないから、『心残り』があるから、まだまだ忘れるなんて無理だろう。
我ながらしつこいなぁ。
「ところで、大さんは消えてから今まで、どっちの家に世話になってたんだ? ここ? それとも源爺のところ?」
ナッチのことから話題を逸らしたくて違うことを質問してみたら、美代さんはちょっと困った顔になる。
「どっちにもいなかったわ」
「えっ? じゃあ、戻ってくるまで、どこにいたんだ?」
「どこにも。強いて言うなら、あの丘の上の家にずっといたってことになるんでしょうけど……」
「いや、いなかっただろ?」
いきなり姿を消したときから、いきなり姿を現したときまで、大さんはあの家にはいなかった。
それは俺が一番よく知っている。
「いたのよ。ずっと、あの家に……。さすがに私にも大さんの姿までは見えなかったけれど、気配だけは感じていたもの」
「気配って……」
大さんのふかふかの毛並みを撫でつつ、俺は首を傾げる。
気配はすれども姿は見えず。
大さんは、透明人間ならぬ透明猫になってたってことか?
凄い特技だな。
ははっと思わず笑った後で、ふうっと大きく息を吐いて冷静になった。
「大さんって、なんなのかな? 美代さんは知ってるんだよね?」
普通の猫じゃないのはわかってる。
それどころか、普通の生物でもないんだろう。
妖怪か、神獣か、UMAか。
とにかく、その手のオカルトっぽい存在の一種に違いない。
どんな返事が返ってきても決してびびったりしない。
俺は覚悟を決めてそう聞いた。