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ケツとお尻とヒップと俺と

 チックのアトリエに戻って事の顛末を二人に話した。


「そりゃあ運が悪かったな。誰にだって失敗はあるさ」


「そうそう、僕だって作品を作るときは何度も失敗作を書いてから一つの完成品を仕上げるんだから」


 二人とも親身になってまるで自分の失敗のように慰めてくれる。


 だがそんな言葉が今は欲しいんじゃない。俺は唯一誇れることだった痴漢でこれだけ失敗をしてしまった情けなさで自分に腹が立っている。


 今何をしゃべっても、それはきっと自分への苛立ちを隠せずに二人に強く当たってしまうだろう。だから俺はひたすら無言で返すしかなかった。


 欲に忠実で最低なのはいいクズだ。むしろ誇らしい。


 だけど二人に対してそんな自分の我がままでちっぽけなプライドを振りかざす最低さはクズというよりただの人でなしだ。


     * * *


 化粧を溶かしてもらって、もとの服装に戻って街へ繰り出した。


 俺が住んでいた現代の日本の街に比べれば人は少なく感じるが、それより文化水準の低いこの街でこれだけ人がいるのだからきっと大きな街なのだろう。


 そして行き交う人とその尻、人と尻、人、尻、人、尻、尻。


 いつの間にかうつむき加減だった俺の目線は歩く女の尻に集中していた。


 欲望があったところでその欲望を飼いならしてやらなければ、さらなる欲望を叶えるのは難しい。


 今の俺は度重なる失敗でどこか頭のネジが一本飛んで行ってしまっているらしい。全部の尻を無差別に揉みたい。そんな欲望が俺を徐々に蝕んでいった。


 俺の少し前を歩いている女。生地の薄い赤茶色のワンピースを着ていて身体の凹凸が強調されている。片手に果物の入ったバスケットを持って、ご機嫌なのか鼻歌なんて歌っている。


 いつの間にか無意識にその女との距離を詰めていた。


 あとは手を少し強めに振れば尻に手が当たる距離。


 いくら人が多いとは言っても、両手を広げても誰にも当たらないくらい人と人との距離は離れている。こんなところで尻を撫でれば多分一発で捕まるだろう。


 俺はズッさんのようなアフターケア能力は持ってない。触れば終わり。


 また失敗するだけだ。


 欲望の向け方を間違っている。


 満足と更なる満足を手に入れるための、高尚な欲ではない。


 ──ただ欲しい物の代替品で満足しようとしているただの変態だ。


「……っ……!」


 すんでのところで俺は右手を反対の手で制した。


 いつも俺の武器だった右手が震えている。


「……はあ、はあ」


 俺は一体何をしているんだろうか。


    * * *


 日が傾くまで街の外れの人気のない桟橋でぼーっと川面を眺めていた。


 そうでもしなければ今度こそ本当に欲を制御できなくなってしまうかもしれない。


 街の人々は帰路に付く支度をし始める頃で、皆あわただしそうにしている。


 前の俺だったらこの後は、帰りの電車で手ごろな獲物を探して跡をつけてわざわざ満員電車に乗り込んで尻を撫でてそれを肴に酒を飲んで……


「はあ……」


 あの人ごみが恋しい。


 市場や街の主要な施設がある城下の方から帰ってくる人が多いのか、時間帯にして今朝のパレードほどではないが道が混みあっている。


 そんなとき一層人が集まっている……というか人の動きが滞っている場所を見つけた。


「あれは……」


 誰もが首をとある店に向けている。


 店員が店の日よけをたたんだり木製のバケツの水をまいたりと、ただそれだけなのに視線がそちらへ向かって自然と歩みが遅くなっている。


 さらに気付いたのは、視線を向ける人々が全員「男」だということ。


 そしてその店員の姿を再び見たときその理由がわかり、同時に心臓が跳ね上がった。


 ディッカーだ。


 彼女の働く花屋はこんなところにあったのか。


 話から想像するにどうやらチックのアトリエから真反対まで歩いてきてしまっていたらしい。


 なんという偶然。


 いや、これも俺の痴漢運が強いおかげだろうか。


 だが彼女を見たところで、どうしようもない。


 あれだけ周到に用意した格好でさえ俺は文字通り手も足も出なかった。


 彼女は今も重たそうなバケツを両手で掴んで、店の近くを歩く人に飛沫がかからないような配慮か店側にゆっくりと水を撒いている。


 そしてこちら側に向けられた──尻。


 再び心臓が強く動いた。


 それは恐怖や不安の類じゃなく、俺の根っこの部分の欲が動いた音だ。


 これだけ打ちのめされて本能はまだ彼女を欲していることに少し驚いた。


 だが、どれだけ身体が、心が欲そうが今の俺は理性が止めにかかる。


 最初から無理だったんだ。


 そう、あの王女どころか俺は町娘にも手を出せない。


 かつての卑劣かつ勇敢な戦士の姿はもうない。


 ──俺はただの性欲を持て余したクズだ。


 戻ろう。


 せめて二人に礼くらいは言っておかねば。


 そして伝えよう。


 彼女は諦めたと。


 彼女から目を背けて、きた道を戻ろうとしたそのときだった


「オウオウネエチャンよぉ! イイ身体してんじゃン?」


「そうだそうだ! まるで絵画のごとく美しい曲線ジャン?」


 聞き覚えのある声が店の近くから聞こえてきた。


 逆立てた髪の毛に顔の上半分を隠す木製のお面をつけた大男と、虹色に着色されたアバンギャルドな髪の毛で同じく木の面をした痩身の男。


 その二人が店に近づき、自分に向けられた言葉だと気付いた彼女が顔をあげた。


「えっと……その、お店はもうおしまいで……」


「いやいや、花なんかにゃ興味ねえんだよ。いや、興味あるか……嬢ちゃんの股にある花にな! はっはっは」


 あの大男の朗らかで嫌味のない笑い方、そしてオヤジ的セクハラ。間違いないズッさんだ。


「そうそう花なんかで飾ったキミには興味ないんだよ。そう飾りを取っ払った……全裸に、キミの全裸に興味があるんだよ!」


 あの異常なまでの裸へのこだわり、あっちはきっとチックだ。


 彼女が不安そうに空になったバケツを抱いていると、すぐさま通行人たちが近づく。


「オウオウ、テメエらディッカーちゃんに何とんでもねえこと言ってんだ? あ?」


「死にたくなかったらとっとと失せな」


 ズッさんよりもはるかに体格のいい男が持っていた荷物を下ろして拳を鳴らす。


「はーん、おたくら彼女の……何? 彼氏?」


「はあ? 違うけど?」


「じゃあなんで止めるんだよ。俺は彼女をナンパしてんの。わかるでしょ? 邪魔しないでくれる?」


 ズッさんの後ろに隠れてチックが小声で「そうだそうだ」と言っている。


 一触即発の雰囲気だ。


 それに加えて喧嘩を止めようみたいな好意的な感じじゃない、むしろ大男二人に加勢しようとしている男たちがぞろぞろと集まってくる。


 何をやってるんだあの二人は。


「だいたいよお、テメエら話しかける度胸もねえやつがしゃしゃりでてんじゃねえぞ! どうせ彼女の良いケツを遠目に眺めてそれを使って夜な夜な慰めてるだけの童貞なんだろ!?」


「んなっ……なんだとテメエ!」


「いわせておけば……!」


「やっちまえ!」


 周りの男たちが同時に襲い掛かる。


 見てらえない、助けにいかなきゃ……。


 そのときズッさんは確かにこちらを見た。


 木の面越でもその口元は笑っていた。


 そして男たちに囲まれて姿が見えなくなって、手だけが上に向かって伸びた。


 その手は親指だけを天に向かって立てていた。


 俺はそれを見て彼らが何を意図していたのか理解した。


 全く、俺はあの二人に申し訳ない。


 失敗が怖くて自分の欲を抑え込んで、逃げて。


 そんな俺にチャンスをくれたんだ。


 男たちの意識が喧嘩の渦中のディッカーにセクハラ発言をした二人に向けられている今、彼女を監視する者はいなくなった。


 誰もかれも二人をとっちめて、彼女を守った英雄になろうと躍起になっている。


 ──今しかない。


     * * *


 店の横を通る細い路地に彼女はいた。


 きっと自分一人の力ではどうにもできないと思い、家か離れにいる店主か他の店員を呼びにいこうとしているのだろう


「はあ、はあ……伝えないと」


 そんな独り言が聞こえた。


 彼女はまだ俺に気付いていない。


 今の俺はいわば「無」だ。


 気配を殺すなんていうのは生ぬるい。


 いくら気配を殺したところで、俺の中で蠢く性欲は波のように彼女に押し寄せる。


 だから、()()()殺すんだ。


 それは満員電車で十年という月日をかけて磨いた俺の技。


 今は、今だけは欲まで殺して俺という存在を完全に消す。


 そして彼女が次の曲がり角を曲がる前。


 街を照らす夕日が落ちて完全な闇が訪れる直前。


「動かないで」


「ひっ……」


 俺は彼女の尻に手を当てた。


 今度は尻尾ではない。


 体温とほのかに汗ばんだ布越しの臀部。


「顔をこっちに向けたらもっとひどいことをするよ? わかった?」


 尻越しに彼女が体を小刻みに震わせているのがわかる。


「返事は?」


 彼女は無言で首を何回も縦に振った。


 俺はその様子を見て目を細めだ。


 そして、大きく息を吸って、


 彼女の耳元に口を近づけて、


 まるで恋人に愛の言葉を囁くように、


 優しく、


 傷付けないように、


 内側から、


 ゆっくりと、


 壊すように、


 ──指先に全神経を集中させて


 ──そこにあるすべてを零すことなく愛でるように撫でながら


「キミを最初に見たときから思ってたんだ。ああ、良いお尻だねって。何を食べてどういう風に育ったらこんな良いお尻になるんだろうって。そうだね、きっと小さいころから何不自由なく育って、箱入り娘で、男なんて知らなくてきっと世の中がまだ清浄で輝いているものだって信じてやまないお尻をしてるね。お尻の始まりから終わりまで全部が全部君のその無垢な心が現れてるみたいだよ。ああ、愛おしいね。今撫でてるだけなのがもったいないよ。本当はさ、俺の舌を這わせてキミが知らないような快楽を与えてあげたいともおもってるんだ。お尻を見て思ったんだよ。キミは俺にそのお尻のすべてをささげるために生まれてきたんだねって。直感で、一目見ただけですぐにわかったよ。ごめんね? そんな俺のために生まれてきたお尻をずっとこうやって愛でないで放置しててさ。今だけは、この時間だけは、俺が君のお尻のすべてを感じてあげる。キミのすべてがここに詰まってるんだと俺は思ってる。そんなキミのすべてを、俺は一生忘れないように脳に刻み付けてずっとこの感触を糧に生きていこうと思うよ。あ、そうしたら手を洗っちゃいけないね。今日この日から死ぬまで俺はずっとこの右手を洗わないであげる。全部キミとキミのお尻のためなんだよ? それだけキミのお尻を愛してるんだ。だからキミのお尻を大事にしてあげてね? 俺との約束だよ? 忘れないでね?」


 そう囁きながら俺は彼女の尻を、堪能した。


 ゆっくり、壊さないように手を尻から離す。


 完全に日の光がなくなった今、彼女は闇に溶けそうなくらい青ざめているに違いない。


 後ろからで表情まではわからないが、うつむいて足元には星のようにきらめく涙が輝いていた。


「じゃあね。またどこかで会おう。そのお尻がある限り必ずどこかで会えるよ。ああ、振り返っちゃだめだよ。俺とキミとの会話はお尻でしなきゃだめだからね」



「絶対に、振り返らないでね」



     * * *


 大通りに戻ると、ボロ雑巾のようになった男二人が倒れていた。


「ったく……立てるか?」


 二人に手を差し伸べる。


「ん……おお、ワリイな」


「ててて……僕、暴力とか苦手なんだけどなあ」


 二人はゆっくりと立ち上がって面を外して服の埃を払った。


「ははっ、礼を言うのはこっちさ」


「……その股間……どうやら目標は達成できたらしいな」


 俺は気づかないうちに屹立していたモノを手で隠す。


「ああ」


「感想……なんて、言葉で表現できるもんじゃあねえよな」


「まあな」


「いいもんだな、女の尻ってのは」


 ズッさんが夜の帳が降りた空を見上げた。


「僕は裸ならなんでいいけどね! だけどお尻の曲線は確かに形容しがたい美があるよ」


「そうだな、尻に貴賤なしだ。裸でも着衣でもなんでもいいモンだ」






 空に浮かぶ、今日初めて俺が見た異世界の月は、少し楕円で真ん中に割れ目がある、大きくふくよかな形をしていた。

 


 



 


 



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