プロローグ-とある痴漢の最後
「この人、痴漢です!!」
誰もがうつむき気味な満員電車の一車両で、二つの手が上がった。
一つは袖がすり切れ気味のスーツを着た太い俺の手。
もう一つはほっそりとした生腕にシンプルな銀のブレスレットをはめた女の手。
女の手は俺の手首のあたりをしっかりとつかんで離さないでいる。
一時の気の迷いか、今日はちょっと気の強そうな女に手を出そうと思った。まあそもそも痴漢なんて行為自体が気の迷いみたいなものだが、俺の場合痴漢という卑劣な行為をかれこれ十年は続けている。危なかったことはあっても、一度も捕まったことがないのだけが心の中にしまってあった人生で唯一の自慢だった。
これといって趣味のない三十五歳。彼女いない歴=年齢。独身。童貞。デブ。汗かき。自慢できる趣味ナシの会社員。それが俺、明珍幸助である。
「ち、ちがいますよ」
一応、反論はしてみた。この道のプロともなると、走行中の車内で手を掴まれての摘発となれば逃れられるすべなどないことくらいはわかっているのに。
俺が何度もちがうと言い、女がこの人にちがいないという言い争いを続ける。
口論のうちにどんどん周りを巻き込んで騒ぎは大きくなる。そして彼女の周りには味方がつきはじめた「私見ました」とか「彼女のいうことに間違いはない」とか、最終的に近くにいた正義感の強い青年が俺の肩を掴んで逃げられないようにしてきた。
そもそも上記の俺の容姿。いかにもって感じの中年をかばう人がどこにいようか。
終わった。
俺の人生はここまでだ。
容姿も悪いし頭も悪い。そんな俺が唯一頑張れたのが女の尻を撫でることだったのだ。そんな人生で最悪で反社会的でゴミみたいな趣味であっても俺の唯一の楽しみだった。
それが絶たれてしまえばもう俺には何もない。
まあベリーハードモードで始まった人生、よく三五年も続けられたと思う。その中で俺が挑んできたことは誰に尋ねても最低と答えられるだろうが、少なくとも俺にとっては誇りだった。
次の停車駅に到着し、気が抜ける様な音をたてて扉が開くと青年に強く背中を押されて下された。女ともう一人、この駅で降車すると言っていたサラリーマンが駅員を呼びに行った。
もう抵抗する気力はない。
周りの喧騒が遠く聞こえる。
すれ違う人が皆俺の顔を見て、嫌悪感をあらわにする。
もうこの場で、いやこの世界で俺に味方してくれる人物はいないだろう。
俺から痴漢を奪ったら俺の人生に何が残るというのか。痴漢じゃない明珍幸助は明珍幸助ではない。
ただのデブだ。
──だから、ホームに流れる急行電車通過のアナウンスを聞いたとき、これからしようと思っているのは多分人間で一番愚かなことなのに幸運だと思ってしまった。
はっと顔をあげて右を見る。遥か彼方陽炎揺らめく線路の向こうから死期を悟ったサラリーマンの命を刈り取る死神が近づいていた。
青年に連れられてホームを歩いていると、前方からさっき尻を撫でた女とサラリーマン、そして駅員の三人が小走りで近づいてきた。十数メートル先の女がこちらを指さして駅員が帽子をかぶりなおす。
いよいよホームに差し掛かろうとしたとき、電車が鳴いた。
その瞬間、俺は何も考えずに持てる力のすべてを込めて肩を掴む手を振り払った。高校の50m走が10.02秒だった鈍足で駆ける。
俺の必死の形相を見たからか、はたまた振りまく汗が嫌だからか群衆は俺を避けて反対側ホームへ道ができた。
後ろで青年が叫んだ。それを無視して全身の肉を揺らしながら出来た道を必死に走る。
黄色い線を越えて、
一歩踏み込んで、
俺は、
飛んだ。
いや、きっと他人から見れば「豚だ」と思われるような無様な姿だっただろう。
脇腹の肉が風を受けてはばたく。
電車が向かってくる右側はなるべく見ないようにした。
終わらせるにしても最後は恐怖を感じずイキたい。
最後に俺が耳にしたのは、ホームから聞こえてくる悲鳴と怒号と通過する急行電車が鳴らすけたたましいブレーキの音。
美女の尻を思う存分撫でたかったと思いながら、俺の人生は幕を閉じた。