マイ・フェア・アクトレス―prologue
「はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁあぁああぁぁぁ?」
閑静な住宅街の奥まった場所にある日本邸宅、時はすでに夕餉の火も落とされたであろう時間。
夜の静けさを破るように、いつもは静かなその屋敷に似つかわしく無い雄叫びが上がった。
台所で夕食後のお茶の采配をしていた家令の仁和は、久方ぶりに聞いたその声に手を止める。
坊ちゃん方が揃うとにぎやかだ、と一瞬懐かしそうな顔を浮かべて止まっていた手を再度動かし始めた。
「失礼いたします。」
仁和がお茶の給仕をする為にこの屋敷には珍しい洋間の広間の扉を開けると、テーブルを挟んで座る雪丸家当主である壮一に、すごい剣幕で詰め寄る三男の晴哉の姿があった。
その周りでは雪丸家の面々がそれぞれの表情を浮かべている。
詰め寄られている雪丸家当主にして三兄弟の長男である壮一はやや眉間に皺を寄せているが泰然と構えて詰め寄る晴哉を見返している。
その横に座る妻の愛弓は、晴哉の剣幕にわずかに壮一に身を寄せていた。
壮一の、愛弓とは反対隣に座る三兄弟の母の美登はすました顔で笑みを浮かべ、少し離れた場所に立って、その様子を楽しそうな顔で見ていた次男の桂樹は目をパチクリとした表情を浮かべる妻のミミに気づくと、その頬にキスを落とす。
「ささ、晴哉坊っちゃん、紅茶でございます。」
湯気の立つカップを素早く給仕する仁和の声に、晴哉はテーブルについていた拳を離し、鼻息も荒く乗り出していた身体を引っ込めた。
「仁和、いつまでも坊っちゃんは止めてくれ。こっちはもうちゃんと自分で稼いで生活してる、一人前の大人なんだからな。」
確かに、晴哉は若くして時代小説の分野でヒット作を発表し、文筆業を生業になかなかの成功を収めている。
なお且つ、晴哉自身もやや身長は低めながら涼やかな目元と凛とした雰囲気のある白皙の美青年である。
晴哉が賞を受賞した時はマスコミはその文才のみならず容姿も話題にした。
鼻息の荒いまま、仁和から受け取ったカップを手に取ろうとした晴哉の言葉尻を、同じくカップを手にした壮一が捕まえる。
「晴哉、いっぱしの大人を気取るんなら、そろそろ身を固めてもええやんな?」
あくまでも冷静な声音で、晴哉に対してとんでも無いことを言ってくる兄に言葉を詰まらせる晴哉に対して、美登は静かに、だがきっぱりと言い渡した。
「この縁談は亡くなったお父様のご遺言の一つです。・・・晴哉はお父様の、ひいてはご先祖様のお願いが聞けないって言うの?」
今夜は正月に帰れなかった次兄の桂樹が妻を伴いフランスから帰国するため、久しぶりに家族で夕食を一緒にどうかと言われて普段は実家から離れて一人で生活している晴哉は雪丸家の本宅に顔を出した。
その夕食後、和やかに近況を報告しあっていると、兄の口からとんでもない爆弾が投下されたのだ。
そう、あずかり知らぬところで決まっていた己の「縁談」という爆弾を。
しかも、『互いの娘息子を結婚させよう』という、曽祖父の口約束からすでに百余年という年月の経った縁談を。
ことの起こりは現在は遥かに遠くなった明治の終わり__当時の雪丸家当主が件の家の当主に命を助けられたのち、身分の差を超えて意気投合し、友情が芽生えた。
雪丸家は遡れば士族の旧家で、相手の家は身分のない平民だった。
その頃は身分の差のある貴賤婚は難しかったため、いつか互いの娘息子を娶わせよう、という何とも言い難い口約束から始まったのだが、雪丸家当主は代々真面目な人柄で、互いに男児・女児しか生まれなかったり、年回りが離れすぎていたり、となかなかうまくいかなかったので、いつしかその婚姻話は代々の当主の遺言に残されてきた悲願なのである。
そして今代____三兄弟の父はついに先祖代々の悲願を達成する前にこの世を去ってしまったが__雪丸家当主となった長男壮一によってその願いは果たされようとしていた。
「ちょっと待ってください!だいたい、そういう家がらみの縁談って長男が対象では?」
晴哉の悪あがきともとれるその言葉に、向かいに座る壮一は鼻で笑うように口の端をぐいっとあげて傍らに座る愛弓の肩を抱き寄せる。
「だって、俺にはもう最愛の妻の愛弓が居るもん。・・・な、あゆ?」
普段はクールな印象を与える壮一は予告もなく甘い雰囲気になる。突然抱き寄せられた愛弓は、家族の目を気にしつつも照れて赤くなった。
高校時代から家を離れ、一人剣道のために関西の高校に通い、そのまま大学を出て就職した壮一は、随分と長く関西で過ごし、父が亡くなった後に門下生として通っていた道場の娘を嫁として連れて帰ってきた。
その長兄夫婦の姿に憮然とした晴哉が傍らに立つ次兄の桂樹を見上げると、一年の半分以上をフランスを本拠地としてヨーロッパで過ごす兄らしく、フランス人のように肩をすくめる。
「オレだって、こんな縁談があるのは初耳だよ?・・・それにオレにはミミがいるし。」
日本の大学を出た後、カメラマンとして渡仏していた桂樹は父親が亡くなる前にミミと結婚して帰ってきた。
悪びれずニヤニヤしながら答える桂樹にしなだれかかっていたミミはソファに座る晴哉に顔を近づけた。
「セイヤ、結婚するの?」
日仏のクオーターであるミミの青い目にのぞき込まれた晴哉は言葉を詰まらせる。
「…とにかく!この雪丸家にあっては約束を守らないなどと言語道断!この上は先様のお嬢さんと一刻も早く顔合わせをしてせめて婚約だけでも結ばなくては…」
こんなチャンスはもうないかもしれない、とつらつらと言い募る母の言葉にソファに沈み込み、恨めしげに兄たちを見上げる晴哉に、壮一からさらなる爆弾が落とされた。
「そうそう。それに、俺や桂樹じゃ完全に犯罪だからな…」
「犯罪…?」
いぶかしげに首をひねる晴哉は、続いた壮一の言葉に固まる。
「相手のお嬢さんはまだ15歳やから。」
再びの絶叫がうららかな春の宵を切り裂いた。
・