はじめての恋―早春―
「優美、伯父さんがいらしたわよ〜」
階下から母の呼ぶ声に、引越しの為に片付いた部屋を見渡していた優美は弾かれたように物想いから抜け出した。
「今行きます。」
最後に残していた少し大きめのボストンバッグを持って部屋を出ると、拗ねた顔をした妹のみちるが廊下で待っていた。
「そんな顔しないの。」
みちるの下唇を突き出すようにしたその顔に笑った優美は膨らませたその頬を軽くつつくとその手を引いて階段を降りた。
「伯父さん、お待たせしました。」
階段を降りきると、父の兄でこれから優美が一緒に暮らす伯父の陽が玄関先に待っていた。
「優美ちゃん、これからよろしくね。」
髭を蓄えた端正な陽の顔にやさし気な笑みが浮かぶ。これから家を離れるという緊張を感じていた優美はその笑みに力を抜き、つられるように微笑み返した。
先日、中学校を卒業した優美はこれから伯父の家に下宿して憧れの菫花高校に進学するのだ。
菫花高校は優美の住む街から少し遠い街にある私立高校だ。優美は伯父の家に遊びに行ったとき、ちょうどコンクールで上演されていたその高校の演劇部の芝居を観てどうしても菫花高校に進学したいと両親を説得した。
優美は一見、頼りなさそうな実年齢よりも幼くみられる容姿でいながら、芯はしっかりとしていて、おっとりした話し方からは想像できないくらい頑固で負けず嫌いの性格をしている。
その後、両親と、なぜか伯父の三人で何度も話し合った結果、母親による家事全般の手ほどきを受けて家事全般ができるようになることと受験勉強を両立できるなら、という条件の下で優美の第一志望校は菫花高校になった。
卒業式前に合格結果を受けた優美は伯父の家に下宿させてもらうことになり、今日はいよいよ家を一人離れるのだ。
「……おねえちゃ~ん…」
優美の服の裾をつかんで離さないみちるの半べそをかいた情けない声に陽は声をあげて笑うと、みちるの頭を撫でた。
「学校が休みななったら、遊びにおいで。」
伯父の優しい声にようやく優美の服の裾をはなしたみちるの手をギュッと握ると、優美は敢えて微笑んだ。
「いってきます。」
******
引っ越してきてから高校への通学路をはじめとした新しい街の探索が優美の日課になっていた。
そして、その日課を終えると伯父の店を手伝うのだ。
伯父の陽は菫花高校の近くで喫茶店を営んでいた。
陽は妻を早くに亡くすとそれまで勤めていた会社を辞め、喫茶店を開いたのだった。
「Mr. Bee」というその店は、ゆったりとした曲が流れ、飴色に磨かれた床とカウンターにビロード張りのソファというクラシカルな内装で、蝶ネクタイを結んだ伯父が毎日カウンターの中でコーヒーを淹れている。
その店で、優美は伯父が用意したクラシカルなワンピースに白いフリルのエプロンという姿で手伝っていた。
ここ数日、優美の姿を見た常連たちがマスターの隠し子疑惑に沸いていたのを二人は知らない。
そして、その日は突然訪れた――
伯父の家に越してきてからしばらくたち入学式ももう目前に迫って来たある日。
「伯父さん、ただいま戻りました。」
いつものように着替えた優美が店に出ると、カウンターの中でコーヒーを淹れていた伯父が出迎えた。
「おかえり。」
優美が手に取ったお盆にカップを載せるとふわりとコーヒーの香気が広がる。
「奥のお客さんに運んでくれるかい?静かにね。」
ここ数日の手伝いで慣れてきた優美だったが、伯父の言葉に固まると、その様子に笑いをかみ殺した陽は口元に人差し指をあてて「しーっ」っとおどけて見せた。
「お仕事してるお客さんだからね。邪魔にならないようなところに置いて来ればいいよ。」
その言葉に優美は足音さえも立てないように慎重にコーヒーを運ぶ。
奥行きのある店内の、最奥のボックス席にその人はいた。
白皙の美貌、とはまさにこのような顔をいうのだろう。
テーブルの上のノートに走らせるペンを握る細目だが筋張った男らしい長い指を持つ手。
ノートに視線を向けているために伏し目がちになっているその目は切れ長で涼し気な目元は凛とした、まるで剣士のような空気をまとっていた。
「…し、失礼します。コーヒー…お持ちしました…」
静かに、とは言われたものの、テーブルいっぱいに広げられた本やノートにコーヒーを置く場はなく、困った優美はほぼささやき声で声をかけた。
そして、その瞬間がついに訪れた。
顔を上げたその人の思いがけない強いまなざしに、優美の周りから音が消える――
「?・・・ありがとう。」
硬直した優美をいぶかし気に見ながら、その人は動かない優美のお盆からコーヒーを取ると自らテーブルに置き、そのまま再び手にペンを持つと手元のノートに何やら書き付け始めた。
視線を外されて硬直が解けた優美は伯父の邪魔してはいけない、という言葉を思い出し、小さく頭を下げるとカウンターに戻っていった。
「・・・優美ちゃん?」
フワフワした感覚に陥った優美を陽の声が引き戻す。
「大丈夫かい?疲れたなら家のほうに戻ってもいいんだよ?」
常々、伯父からは店の手伝いは気にしなくていいとは言われていても、高校に入学したら部活動に励みたいと思っている優美は店の手伝いをすることを譲らなかった。
首を振ると、両手でペチペチと頬を叩いて気持ちを切り替える。
「だ、大丈夫です。お。お鍋洗ってきますぅ・・・」
なんだかわからない湧き上がる気持ちを何かにぶつけたかった優美は、裏のキッチンに引っ込んだ。
その様子を見送った陽は、ふむ、とうなずくと振り返って店の奥の席を見やる。
背もたれ越しに頭を抱えているいつもの姿が目に入り、考えるようにあごに蓄えた髭をひと撫でするとニヤリと笑った。
その頃、裏のキッチンで鍋の汚れと戦っていた優美は手は忙しくしていたが、心の中では先ほどの美貌の人のことが浮かんでは離れなかった。
鍋を一生懸命こすっているから熱いんだ、と思っている優美だが、頬を染めさせる熱がそれだけではない――
桜のつぼみがほころび始めたように、優美の心も色づき始めていた。