春雨
晴雨さんの名前を春雨変換したお詫びに、春雨で短編を一つ
私が田舎に戻ってきた日は、晴れながらにして雨が降っていた。春の陽気が雨で少し冷える。
それをおばあちゃんに何気なく呟いた。するとおばあちゃんは笑ってこう言った。
「狐の嫁入りだねぇ」
太陽が出ているのに雨が降ることをそう呼ぶらしい。
◇
戻ってきた理由は色々あるけど、一言で表すなら疲れてしまった、だろうか。
ここはいいところだ。
山と田んぼばかりで不便だし、農作業は過酷な肉体労働だ。人はやたら話しかけてきて煩わしい。田舎が過疎化する理由もわかろうというものだ。
だけど、不便でキツイから、疲れた日々のことを忘れていられた。
何よりその煩わしさが、暖かくて心地よかった。
「こっちの暮らしにはもう慣れたん?」
台所で筍をゆがいていた私にお母さんが声をかけた。鍋の中でたけのこはぶくぶくと泡を吹いている。
「大丈夫よ、お母さん」
「そう。あんたが都会暮らしなんてやっぱ無理だったんよ」
「失礼ね。事実だったけど」
「あ、今日はタケノコ?」
「うん」
「こっちのはえぐみがなくって甘いんよ。カツオとかすっごくあうからね」
そう言って、おじいちゃんが今朝からとってきたタケノコを覗き込む。
「お母さんは、私が戻ってきたこと、どう思ったの?」
私は洗い物をしながら、お母さんの方を向かないように尋ねた。
なんていうか、そっちを見ていられなくって。
どうなんだろうか。
失望、されちゃったのだろうか。社会の荒波に負けて、逃げ帰ったきたような私に。
それとも元から期待などされていなかったのだろうか。私に会社で働くとかそんなこと無理だって。そんな風に。
「んー、ほっとした、かしら?」
「ほっと?」
「だってね、ここって田舎じゃん? だんだんと人がいなくなっていくの。特に若い人は」
過疎化、高齢化は田舎の深刻な問題だ。
テレビで聞き流していたそれは、決して他人事ではなかったのだ。
暮らしているとよくわかる。
すれ違う人、すれ違う人はおじいちゃんおばあちゃんだ。のんびり、日向ぼっこでもするかのように歩き、私に元気ねぇと話しかける。
私がそれをどこか煩わしいと感じてしまっていたのは、かすかに疎外感を、後ろめたさを覚えてしまっていたからだろう。
余所者だとは思われていないか。
邪魔者だとは扱われていないか。
久しぶりに戻ってきて、いきなりやっぱりこっちで暮らすなんて、と。
だけどお母さんはそんなことを思ってはいなかった。いつだって私のことを待ってくれていたんだと思うと申し訳なくなった。ただの私の被害妄想だったのだ。
隣に置いてあった新玉ねぎを手に取る。それを皮をむいて乱暴にザクザクと切った。
「玉ねぎ、目に沁みるもんね」
お母さんには全部ばれていた。
大丈夫。心の中で呟いたそれは、今度こそ強がりではなかった。
◇
それから半月。
私は朝に晩にと農作業や家事をして生活していた。
お母さんもお父さんも、全然私にお見合いを勧めたりしてこないから気楽だった。
そんな時のこと、ある知らせがきた。
「たっちゃん、帰ってくるってさ」
唐突に夕餉の間に告げられたその名前に、思わず昔を思い出した。
たっちゃんは私の幼馴染である。小さい頃はよく遊んだ。ちょっと髪がツンとして、つり目で、ガサツだったけどまっすぐな男の子だった。
中学の時はサッカーをしていた。周りの子がガキっぽくて、乱暴でバカばっかりだったからだんだんと疎遠になって。
そして高校で離れた。
高校にいったらサッカーはやめてしまったらしい。
他にやりたいことができたとか。
高校で離れる時に一度、私を呼び出したけどなんかしどろもどろに別れを告げられただけだった。
寂しくなるね、というとぶっきらぼうに「そうだな」と言っていた。
あれから約10年。
そのたっちゃんが、帰ってくる。
何が、あったのだろうか。
私みたいに、嫌気がさしたのだろうか。
なぜか無性に心配になった。
「帰ってくるの、明日だってさ」
「そりゃまた急だなぁ」
「懐かしい?」
「たく坊かい……大きくなっとるんじゃろうなぁ……」
目の前に置かれたホタルイカに酢味噌をつけてほおばる。ムグムグと米と一緒に咀嚼すると、お茶をすすってその水面を見ながら呟いた。
小学生の頃はよく遊んだっけ。
あの年頃の男の子からすれば、女の子の遊びなんて楽しくなかっただろうに、わたしに付き合ってくれたことの方が多かった。
ちょっと不満気な顔に、何よ、と私がふてくされるといつも慌ててたっけ。
そんなたっちゃんが、今はもう20を過ぎて半ば、か。わたしと同い年だもんね。もうそんなに経ったんだ……
「なんで、だろうね……」
その言葉は家族には聞こえなかったのか。
それとも、聞こえたけれど聞こえないふりをしてくれているのか。
新たな話題に移った親から視線を宙に彷徨わせて、どこか上の空でご飯を再開した。
◇
おじいちゃんの軽トラに一緒に乗って、野菜を積んで家に戻る途中のことだった。
長い道の向こうに、明らかに小洒落た格好の大きなカバンを持った男性が歩いてきていた。
その見慣れない姿に、地域の人が密接に関わり合う田舎のおじいちゃんは敏感に反応した。
ガタガタと揺られながらその男性の近くまでいったところで、その男性がはっきりと見えてきた。
背が高く、がっちりしている。顔は精悍で筋肉が程よくついていた。
何よりその顔には見覚えがあった。正確にはその顔にある人物の面影を感じた、というべきか。
「おおい、お前さん」
「もしかして、たっちゃん!?」
窓から顔を出して驚いた私に、その男性もまた驚いた。
「お前……えみだよな!?」
「やっぱりたっちゃん!」
その様子を見ておじいちゃんがわかったとばかりに頷いた。
「そうかぁ、たく坊かぁ……大きゅうなったのう。じゃああとは若いもん同士でな。先帰っとるぞ」
「うん」
私は久しぶりの幼馴染にはしゃいで、軽トラを降りていた。
おじいちゃんの軽トラがゆっくりと遠ざかる。
私たちはそのまま、のどかな畦道を歩き続けた。
田んぼを抜けると小川が見えてきて、その向こうには小さいな山がある。山のふもとにぽっかりと木々の間に隙間のあいた場所がある。
そこから入ると、山の中腹まで10分もかからずに辿り着く。
「なっつかしいなあ」
「高校入学決まったときも、ここで会ったよね」
「そうだな」
「あの時、たっちゃんは私に何か言おうとしてたよね」
また、柔らかな小雨が降ってきた。
足元の落ち葉の柔からさとどちらが柔らかいだろうか。
「ねえ」
「あのさ」
声が重なる。
「いや、そっちからでいいよ」
「う、うん。ありがとう。……なんで、帰ってきたの?」
「俺さ、建築家になりたかったんだよな」
「そうなの?」
「ああ」
そう言うと、すごく悲しげに自分の掌を見た。
「でもダメになったんだ」
「どうしてよ」
「手がな……震えて描けないんだよ。細かな作業とか無理になっちまってな……半年前、だったかな」
「それは……なんか、ゴメン」
「日常生活には支障はねえんだよ。ただ、ミリ単位の細かい作業がな……」
「そう、だったんだ」
ひどく、息が苦しい。
爽やかで清涼なはずの山の空気さえ、肺の中で重く沈んでいるようだ。
たっちゃんは私に全部話してくれた。
大学を卒業して、無事になりたかった職業に就けたこと。そこでの生活は楽なことばかりではなかったけれど、楽しかったこと。
そして半年前、事故にあったこと。
ただの交通事故で、命にはまるで別状がなかった。けれどその後遺症が残ってしまったという。
仕事場ではそんな彼のことを悪く言う人はいなかったという。無理なら他の仕事をまわすか、と気遣ってもらえてさえいたと。
だけどその優しさに、耐え切れなかったのだという。
まるでどこか遠い場所の話のように聞こえた。
いや、違う。目の前のたっちゃんがまさに経験してきたことだ。
「こんな俺を笑うか?」
そう言って私に自嘲した彼の目は、すごく見覚えがあった。
そう、これはここに帰ってきた時の私と同じだ。
敗北感、後ろめたさ、そういうものがないまぜになった、そんな目だった。
「そんなこと、ないよ」
私は震えるその両の手を包み込んで励ました。じわり、と触れる手のひらから温度が交わりあう。
私は、過去の私に言ってあげなければいけない。私がお母さんに励まされたように。
「私もね、ここに来た時なんだか楽しいのに後ろめたかった。でもね、そんなこと気にしなくていいんだよ。お母さんは私のこと、帰ってきてくれて嬉しい、って言ってたの」
一息で言い切ると、再び息を吸う。
それに合わせてたっちゃんは息を呑んだ。
「私のお母さんはたっちゃんのお母さんとは別だから、違うかもしれない。でもきっとたっちゃんの帰りを喜んでくれるって思うんだ。大丈夫。たっちゃんのこと、待っててくれる人はいるよ」
たっちゃんは「ほんとお前って……」と少し鼻声で言った。
「お前はさ、どうなんだよ?」
「へ?」
「俺が帰ってきて」
「なんか、昔に戻ったみたいで、嬉しかったっていうか、懐かしかった、かな」
そして軽く笑って「戻れやしないのにね」と付け足す。
「そうだな……あの時には戻れない」
「たっちゃん……」
「でも、進むことはできる」
そう言ってポケットから何かを出した。
しわくちゃの小さな紙で、何度も書き直した跡があった。
「俺はあの時、お前にし損ねたことがある」
さすがにここまでくればわかる。
「今も昔も、ほんといい女だよ。最高の」
私に紙を渡した。
「俺はお前のことが――」
どうして、だろう。
手渡された紙は春雨で滲んで全然読めないはずなのに、一言一句、何が書いてあるのかわかってしまった。
頬を春雨が流れている。そう、これは雨なのだ。柔らかくて、あったかくて、ポタポタと頬を伝うこれは――
――春雨、なんだから。




