どこまでも馬鹿な男 8
―――どこか遠くから、声がした。震える女の声。
今にも泣き出しそうなのに、涙を流さない。
こんなにも絶望しきっているのに、誰にも頼らない。
ぶるぶると震える女の背中が、酷く遠かった。何故だか声をかけようとして、どうしてだか手をのばそうとして、怠さと節々の痛みが全身と意識を浸す中、のろのろと眼を開ける―――
視界に入ったのは、自分の腕とシーツだった。
それをぼんやりと見つめて―――数拍。はっと意識が舞い戻り、がばりと身を起こした。見知らぬ天井。見知らぬ部屋。見知らぬベッド。
(なんだ……どこだ、ここ)
ホテルではない。どこかの家の一室、という感じだった。あまり使われていないのかこざっぱりとしていて、生活感はあまりない。白い壁と白い木目の扉、家具は色の濃い木目のもので統一してあって、センスはよく穏やかな部屋に見えた。
自分の体を見下ろす。服は着ていた。が、着ていたはずの制服ではない。やわらかい綿の白いシャツを着ていた。少しサイズが大きいのか首元がだるっとしている。ズボンも厚手のスウェットになっていた。やったの誰だ。俺の制服はどこだ。
(いや……親切心なんだろうけど)
きちんとしたベッドに清潔な服。ありがたいことこの上ないが、何も情報がない今は恐怖でしかない。どうなるんだ俺。
とりあえず、部屋から出てみるしかないと諦め、ぶるりと震えた。布団から身を起こした今、シャツ一枚では肌寒い。何かないかと目で探すと、枕元に厚手のカーディガンが畳まれているのに気付いた。それから靴下も。……至れり尽くせりとはこのことか。とりあえずそれに袖を通し、靴下も履いてベッドから出た。スリッパも用意されていたが、もし万が一走って逃げる時のことを考えてとりあえず無視する。靴下も厚手なので寒くはない。
そっと、ドアを開ける。当たり前だが目の前は廊下だった。左を見るとどこかに続いているのかドアがあり、それは部屋のドア同じく白い木目のものだったが、真ん中だけガラス張りになっていた。そろそろと近付き、そのガラス越しに向こう側を伺う。
ソファーとローテーブル、テレビが見えた。リビングだろうか。それ以外は角度的に何も見えない。ひとの姿は見えなかったが、気配は確かにあったし何か作業をしているのか音も聞こえていた。瞬時し、諦め、ドアノブを握る。がさがさになっている唇を舐めた。
押し開ける。―――一歩、踏み入る。
廊下より明るい空間だった。思った通り、リビングで―――左を見る。キッチンと繋がっている形のリビングダイニングだった。
調理をしていたのか、コンロに向き合っていた女が振り返る―――黒目がちな大きな瞳が自分を真っ直ぐに見据えた。その、今は赤くなっている眼で。
「ああ、起きたんだね。おはようございます。体調は、どうですか?」
通る声ではない。甲高い声でも。だがやわらかいその声は、鋭敏になっていた聴覚にふわりと馴染んだ。
「……あんた……誰」
わざとではない。だが疑問の方が先に頭を突き、答えずに問うと、女は首を小さく傾げ、……少しだけ、笑った。痛みをほんの少し感じさせるような、それ。
「御影です。ミカゲ……みんなはユキって呼びます。……はじめまして」