どこまでも馬鹿な男 7
春休みの講習といえども、土日は休みだ。明日が土曜日。明後日が日曜日。月曜日からまた講習開始。
迷った末職員室に寄り、出た課題のプリントだけ受け取った。担当教師は既に帰宅していた。机の上にあった『蕪木』と書かれた封筒だけもらい、『プリントもらいました。月曜からまた来ます、すみません』とメモを残して退出する。
ふらふらと外を歩き、迷って、何度も迷って、屈辱を飲み込んだ。がさがさに乾いた唇をきつく噛む。じわり、と血の味が広がり乾いた口内をべたべたに潤していった。
脚を止める。フリップを開く。かかってくることはあっても一度もかけたことのない番号。あの女。
繋がらないでくれ。お願いだから、これ以上惨めな思いにさせないでくれ―――虚しい祈りは数回で終わったコール音で呆気なく霧散した。こちらの覚悟なんて気にもせずに。
『なに? 変な時にかけてこないでよ』
義母がトイレ行ってるだけだから。言外に、すぐ切るわよ、と含まれる。
「ちょっと待って。あのさ。……金が、ないんだけど」
『そんなの知らないわよ。前あげたのもう使っちゃったの? 私が暫く帰らないから足りないって?』
呆れたような声が聴覚を撫でた。悔しくて虚しくて惨めで、心臓がずきずきと血を吹き出す。……痛い。苦しい。息が出来ない。
『私あなたの母親じゃないんだけど? やめてよね、おばさん扱いなんて。……じゃーね、また戻ったら連絡するわ』
それまではかけてこないでね。そう言い残し、ぶつりと切られる。
無意識に止めていた息を吐き、
空を仰いだ。真っ白な曇り空だった。太陽がすぐ近くまであるような明るい曇り空の下、ぎりぎり保っている意識にしがみ付くようにして歩き出す。
口の中がからからに乾いている。罅割れた唇を舐めた舌先もがさがさに乾いていて、感触の悪いそれが皮膚を撫でただけだった。
気持ちが悪い。体が動かない。塀に手を付けるようにし、ずりずりと擦り付けるようにしながらなんとか進む。
……すすむ? 行く当てはない。けれど、止まってしまったら、そこで自分が死んでしまう気がして。
……死ぬ? 大袈裟な。ただの栄養失調で、ただの熱で、体が禄に動かないだけで、臓物を全て吐き出したいくらい気分が悪く、視界が霞んでいるだけで?
なんでこんなに必死なんだっけ。意味があることなんだっけ。その必死が上手く行った
ところで―――この先、今よりよくなる保証はあるんだっけ。
何も見えないのに。
何もないかもしれないのに。
なんでこんなに必死なんだっけ。
踏み出したはずの脚が泳ぐ。ばしゃん、と、水溜りを跳ねた時、はじめて雨が降っていることに気付いた―――明るい曇り空の中降る、雲さえなければまるで狐の嫁入りのような明るさの雨。もういいか、と意識の端が呟いて、そのまま脚を前に出すのを止めた。
傾く―――視界。
打ち付ける―――体。
冷たい水滴が、きらきらきらきらと輝いて自分に降り注ぎ、
天を見たくても眩しすぎてろくに目も向けられず、けれど、
これが最期なら―――悪くないなと自嘲する。
結局自分は何にも成れなかったけれど。
自分が誰かなのすらわからなくなったけれど。でも。
これで終わりなら―――これはこれで、
……それでも、どうしてだか世界はそのまま眠らせてはくれなかった。誰にも手をのばしてくれない癖に、自分の役にも立ってくれない癖に、嫌がらせだけは酷く得意な世界は。やっと訪れた泥沼のような眠りから自分を引っ張り上げようとする。やめろよ。もうやめたんだから。
ぱたりと、雨よりも微かなあたたかいものが頬をなぞる。
いつの間にかに閉じていた目を開けた―――ぱたぱたと落ちてくる、あたたかい水滴。
ひとりの女が、自分を覗き込んでいた。
息を吞む。殺される。黒目勝ちの大きな眼がじっとこちらを見つめていた。深く深い、どこまでも続くようなその不思議な色。
空の白い光を背負っている女―――眩しくて、目を細める。
ぽた、と、またあたたかいものが落ちてきた。―――その時はじめて、これは涙だということに気付いた。
目の前にいる女が泣いている。
真っ赤な目をして泣いていた。
どうして泣いているんだろう。ぼんやりとして意識で考えていると、女の指が頬に触れた。触るな、と鳥肌が立つかと思ったが、自分でも意外なほど抵抗なくその指を自分の肌は受け入れた。そっと雨と涙を拭ってくれるその手のやわらかさにのろのろと目を閉じる。
「大丈夫―――ですか」
耳元で、静かに女がささやいた。涙が滲んだ湿った声。やわらかい声が微かに震えていた。
「―――…… 」
自分が何を答えたのか、自分の耳にも届かなかった。がさがさに乾いた自分の唇は、ろくな音ですら伝えてくれなかった。
けれども、女には聞こえたらしい―――届いたらしい。
瞼の向こう側で女がうなずくのがわかった。また涙がぽたりと頬に落ちる。
それが何故か心地よく感じた。そのあたたかさにほっとした。―――だから眼を閉じたまま深く深く息を吐き、そのままそっと、意識を手放した。