馬鹿共の行進 7
小さなあたたかい手が、自分の手の中にあった。
ずんずんと進んでいく彼女。自分の方がリーチがあるはずなのに、どうしてだか追い付けない。手を引かれ、後を追うようにして小さな薄っぺらい背中を追い続ける。
「みー、さん」
「なあに?」
「…ありが、とう」
「ううん、何にもしてないよ」
ディーに全部投げただけだし…と呟く彼女は、漸く足を止め、そして、振り返らなかった。手を繋いだままどこでもない前を見据える。
「…? みー、さん?」
「…怒ってないの?」
「え?」
「光くんのこと」
唐突な声だった。
「こんなにぼろぼろにされて、こんなに損なわれて奪われて。…それでも光くんのことを怒らないの?」
「…うん」
小さくうなずいた。
「一歩間違えれば俺がああなってたかもしれない。―――そう思うと、怒れない」
「そう」
「…みーさん?」
「ねえ」
「なに?」
「嘘を吐くなとは言わない。好きな時に好きなだけ吐けばいい。でも、君に嘘は向いてない」
「は…」
「一生嘘にするのなら、それは詐欺だ。嘘吐きじゃない、詐欺師なんだ。ーーーひとりで成るのは、きついよ」
分かっているような。知っているような、声で。
ゆっくりと、彼女が振り返る。はじめて会った時、あまりの色に驚いたーーーあの深い深い眼をこちらに向けて。
「だからね、止めておきなさい。ここで終わりにしておきなさい。光くん」
繋いだ手は離さない。握りしめたまま、彼女が離さない。握手をするように向き合ったまま、自分の目線より大分低い彼女の眼を見つめる。
「…俺は、灯だよ。みーさん」
「光くん。君に害を加えていたのが灯くんだ。君を虐げてきたのが灯くんだ。ずっとずっと、灯くんだ」
彼女は言葉を緩めない。徐々に震え出したこちらを見つめたまま、何も飾らずに言葉を紡ぐ。
「君は光くんだ。そう呼ばれるひとだ。ひとだった、んだ」
「…どうして、そう思う…の」
「だって」
彼女は笑った。ふわり、と、薄いけれどとてもやわらかい笑みだった。
「最初、君のそれは呪縛かと思った。上手くいかない兄弟に対する愛情により縛られたそれかと思っていた。…けど、話す度、知っていく度、何かが引っかかった。あんなに喫茶店で怯えていたのに、君は自分から相手を突き放したり逃げ出したりは絶対にしないんだ。だから君のそれは呪縛じゃない。君の選択だ。…君は必死だけれど、ちっとも不幸には見えなかった。…これだけの状況で、我が身を省みずに必死になるだけの人間なんて、どんないいひとだよ。自分のため、だけじゃないんだ…なかったんだ。だから不幸だと感じていなかった。不幸になる暇がなかった。君は…光くんは、弟を守る為に必死だったんだ」
光と灯
血肉を分けた双子
生まれる前は同等で、そして、生まれてしまったばかりに、別々だった。
光はどこまでも尊重され、灯はどこまでも損なわれた。そうしなければ、あの家族は成り立たなかった。
お前でいいなら 俺でもいいだろ
そう、理由はなかった。ただ兄だからという理由だけで光は与えられ、灯はなにも、与えられなかった。ーーーあの時までは。
「俺、俺、はっ…灯がそんな目に遭うのが、許せなくて、」
許せなくて理解出来なくて。
理由もなく何度も殴られる弟を守りたくて
ずっと二人笑いあっていたくて
「庇っても庇っても意味がなくてーーーだから、俺は、」
灯、俺になれよ。
大丈夫、父さんと母さんは気付かない。
時々交代しよう。俺たちは、兄弟なんだから。
その約束は半分だけ守られ、半分は反故された。
あの時から灯は光になり、
あの時から光は灯になった。永遠に。
『灯』は、『光』を返さなかったーーー。
「私には弟がいる。血の繋がりも何もないけど、でもあの子は私の弟だ。誰にも譲らない、私はあの子の姉だ。あの子に何かあるのなら、私は何にだって立ち向かう。ーーーだって
私はあの子のお姉ちゃんなんだから」
ずっとずっと、隠してきた秘密をーーー残酷なほどやさしく、彼女が暴いた。
それだけ。ただ、それだけ。
ひとが聞いたら笑ってしまうような、その吐息で吹き飛んでしまいそうなほどくだらない理由。
「…おかしいと、思う?」
「なにを? 蔑ろにされて、心を潰されて、未来を暗く染められて、それでも君が必死に足掻いていたことを?」
…どうかな。彼女が困ったように笑った。本当に困ったように微笑み、考えるように言葉を紡ぐ。
「…分からない。でも」
彼女が手をのばし、空気が動いた。こめかみに触れ、髪に触れ、頭をそっと抱き寄せる。耳元で彼女がささやいた。
「でもね、もう二度と、やめなさい。…酷いことを言うようだけれど。君が愛しているのと同じくらい、或いはそれ以上のものが返ってくることはーーー恐らく、ないよ。
悲しすぎる。人を理不尽に傷付けて、それで構わないと思っているなんて…
そんなひとを、選んじゃ駄目。ーーー選んで、掴み取りなさい。君の痛みに君より早く気付くひとを。君の幸せを自分のことのようによろこんでくれるひとを。ーーーそうして、ほしいよ。光くん」
ーーーもう二度と間違いたくない、と思った。
ありったけの想いを飲み込んで。
ありったけの正論を押し殺して。
散々嘘を暴いて。秘密を共有して。
それでも彼女は俺を、否定しなかった。
だからこそ。
もう二度と、彼女をかなしませるような選択は、したくなかった。
「…不幸、なんて、誰にも決められたくない」
「うん」
「でも、でも、誰かが自分を大事にしてくれてたら、そのひとが、俺を不幸だと思って、俺が不幸であることが痛くて、悲しくて、嫌だって言うから」
「うん」
「言ってくれるから」
あなたが必死に俺を呼ぶから
何度でも、何度でも俺を呼ぶから
ーーー俺を棄てるのか
弟が叫んだ、あの激痛。
ごめん、俺は、もう二度とお前を選べない。
「俺は…俺は灯、だよ」
「うん」
「もう何年も前からーーー灯だった」
「うん」
だからーーー
「光」
耳元でそっとささやく。
「君に嘘は向いてない。でも私は知ってるからーーーもうこれは嘘じゃない」
「…うん」
「もうこれが最後。二度と呼ばない。…だから大丈夫。これだけを覚えておいて」
少しだけ身を引いて、彼女が笑った。大好きで大好きで仕方がない、心から愛おしいあの笑顔で。
「おかえりなさい、光」
何度でも、何度でも、あなたが俺を呼ぶ。
「た…だい…ま…」
これでいい。これがいい。もう二度と、この名前は何処にも行かない。秘密は彼女の胸にそっと仕舞われその腕に抱き込まれて、もう二度と、ひとりぼっちにはならない。
大丈夫、あなたがその名前を後生大事にしていてくれるのならーーー俺は絶対、もう不幸になんて、なれない。
腕いっぱいに、彼女を抱きしめた。
「…ねえ、みーさん」
「なあに、ともり」
「どうして俺じゃないって分かったの」
「自分のことを心の底から好きでいてくれるひとくらい、分かるよ」
顔を見合わせる。ふは、と、同時に笑い合った。
〈 馬鹿共の行進 馬鹿共の進んだ、路 〉




