馬鹿の終わり 5
あの時がラストカットだったらしい。
離れた場所から水面にライディングするのが彼女の仕事だったらしく、『無事に撮り終えたので撤収するぞ』との電話があるまで、ずっと彼女を縋るようにして抱きしめていた。
「撤収、してくるから。ちょっと時間かかるんだけど」
肩をぽんぽんと宥めるように叩かれて、どっと不安が押し寄せた。何かを言おうと口を開くが、
「それまで待っていられる?」
「っ…う、うん」
最後のひとしずく、こぼれた涙をぐいと拭ってうなずく。
「られる。待ってる」
「うん、じゃあ、ちょっと待ってて」
ゆっくりと、そっと彼女の体を離す。ちょっと笑ってから撤収をはじめた彼女の近くを、少しうろうろしながら見守る。…機材は専門的過ぎて手伝えない。壊したら怖い。
全てバラし終わったあと、カメラ側にいたスタッフたちと合流した。その中には真野もいて、「なんでお前がここに」という顔をしていたが今は説明する言葉も何も持てなかったので目だけであいさつをしてあとは静かにしていた。仲間たちに「このまま帰るね」とさらりと告げて彼女は輪から離脱し、小首を傾げてから一瞬止まって、ふわりと手を差しのばした。これは正解だろうか? という顔付きでこちらを見上げる。
あの時渾身の力で握りしめて押さえ付けた手首。震えの止められない手をゆっくりとのばし、指先が触れて、
彼女の小さな手が、自分の手を握った。
手のひらと手のひらを合わせて。細くあたたかい手が、しっかりと自分の手を握る。
「帰ろう、ともり」
「ーーーうん」
手を引かれる。歩き出す。隣に並んで、二人のペースで。
きゅ、と手に力を込めると、同じようにやさしく握り返され、ふは、と笑い合った。
勝手に出て行って勝手にぼろぼろになって勝手に再登場して泣きついて縋って告白してそのままお手手繋いで家まで帰って深夜のこんな時間に台所に立たせてあたたかくて涙が出るくらいおいしい手料理を振舞わせる。なんて図々しい人間なんだろう。残念なことに自分だった。
(そして厚かましくもその料理を全部平らげてる…いやでもせっかくみーさんが作ってくれた飯を残す訳にはいかねえだろ、うまいしあったかいしうれしいしうれしいしうれしいし)
そう、うれしい。うれしくてうれしくてたまらないーーーそして、恥ずかしくて恥ずかしくて。赤面するのを感じる。
(す、きなひと、に。料理を作ってもらうってこんなにうれしいのか。知らなかった)
その好きなひとが「いっぱいお食べ」とまるでわんぱくな子供の食いっぷりを満足そうに眺めるお母さん的な顔をしているのがなんとも切ないが、現時点ではその通りなのだから仕方がない。男として意識してもらうためにも自分改造計画が必要だった。自分の外見に彼女が大して興味がないのはもう既に分かっている。中身だ。何からはじめるべきだろう。
ふ、と、彼女が隣に立って顔を覗き込んだ。米粒でも付いているだろうかと適当に口元を拭おうとしたが、ぺたりと彼女が頰を触ったので動きを止めた。
「…顔が腫れてる。どうしたの」
「綾瀬に叩かれた」
「え? …一発でこんなになるもの? あの子そんなに力強いの?」
「何発叩かれたか覚えてない」
「あ、ああそう…いろいろあったね…」
困惑したように言う彼女がかわいらしい。小さく笑うと、彼女は悲しそうに表情を翳らせた。
「…こんなに痩せて。明日からもしっかり食べるんだよ。おいしいの作れるように頑張るから」
「みーさんの料理は全部うまいよ」
「そうかな。うーん、まだ精進するよ。でもうれしい、ありがと」
翳りからにこりと微笑んで彼女が手を離す。もっと触っていてほしかったのでその手を握って頰に触れたままにした。
「…絶対、俺の方がうれしいよ」
「…うん?」
「…みーさんは馬鹿だよ」
「うん」
「俺、みーさんのこと壊そうとしたんだよ」
「うん」
「手に入らないなら一瞬でもいいから俺のものにしたいって思ったんだよ」
「そんな大層なものじゃないよ」
「そんなことない。俺にとって絶対に手に入れたいものなんだ。だから…」
もう片方の手が今度は反対側の頬に触れた。気付かないうちに伏目がちになっていたことに気付き顔を上げる。心配そうな色を浮かべた瞳と目が合う。
「…ともり?」
「え、ぁ、」
彼女の方が自分より先に気付いていた。ぼろり、と、涙が伝った。
「み、みーさ…みーさん、ど、どこにもいかないで」
ぼろぼろと涙が伝う。格好付けの男子高校生がひとり、情けなく泣きじゃくる。格好悪い。それでも彼女の手を離さない。離せない。
「遠くに、いか、ないで。お願いだから。俺、がんばるから」
勝手に遠ざかって二度と会わないつもりだっのは自分なのに、彼女にそう言って縋る。
だって、このひとは。ひとり遠くを見ていて。その手を引くひとと分かち合っていて、自分が繋ぎ止めるために持っているものは何もなくてーーー
いつか、ふらりと
歩き出して、もう二度と帰ってこないような。
「い、今は。今はどこにもいかないで。俺、頑張って…頑張って、みーさんがどこに行っても見付けられるにんげんになるから」
彼女が目を見開いた。ぎゅうっと、思いを込めて握る手に力を込める。
「どれだけみーさんが遠くに行っても、どんな場所に立っても、俺、隣に立ってられるにんげんに、なるから。絶対に、なるから…だから、それまで、それまでは、お願い、」
「…だから、そんな大層なものじゃないんだってば」
やわらかく言って、彼女は少し笑った。その微笑みが今の自分には近くて、あたたかくて、心が溶ける。
「でも。どこにでも行けるにんげんになってほしいな、ともりには…。それで、自分が選んだ場所で笑っていてくれれば、わたしはうれしい」
少しだけ答えで、少しだけ逸らされた言葉。
それでも自分の言葉は、意思は否定されない。
いつか彼女が去った場所に自分も往く。
その場所を自分が選ぶ。ーーーだから。
そっと彼女の手を離し、立ち上がる。
ずっとずっと、そのままであったのだろうーーーあれから何度も、彼女が見つめていたのであろう、真鍮のホイッスル。
リビングの床に落ちたままのそれを拾い上げた。
「みーさん」
彼女がこちらを見た。はっと息を飲み、口許を抑える。
立ち尽くしたまま動かない彼女に歩み寄り、そっと、その革紐を首に通す。丁寧に髪をどけ、その胸元少し下に真鍮のホイッスルをぶら下げた。とても自然な、はじめからそう在ったもののように馴染んで見えた。
「大事なものなの?」
ホイッスルに視線を落としーーー彼女が首を振る。子供のように素直に首を横に振って、
「分からない。けど、これしかないんだ」
どう言ったらいいのか分からないような、どうしようもなく幼い迷子みたいな彼女。
特別に彼女に触れたい。でも今はいい。あの階段を見て後悔した。心が痛かった。だからもう二度と、自分勝手にあんな真似はしない。でも堪らなく、彼女に触れたい。
ふわりと手をさらい、再び自分の頰に押し付けた。彼女が自分を見上げて、それからゆっくりと笑う。もう片方の手が頰をなぞって髪を梳き、やさしく頭を引き寄せる。
「おかえりなさい」
自分の大好きな手がやさしく頭を撫でてくれるのを感じながら目を閉じ、小さく笑った。
〈 馬鹿が終わり、馬鹿は終わる 〉




