馬鹿の終わり 3
ポケットの中で携帯が震えた。緩慢な動きでのろのろと手に取り、眺める。震え続ける携帯を数拍見つめてああ出なきゃいけないなかと思い立つ。フリップを開いた。
ディスプレイを見て微かに疑問が浮かぶ。公衆電話からだった。
「…もしもし」
『ああ、ともり』
あの女だった。何か言おうとして何も浮かばず、中途半端に口を閉じる。
『今どこにいるの?』
「…外」
辺りを見回す。どれだけこうしていたのか、辺りは夕暮れに染まっていた。
『そう。丁度いいわ。入院したんだけど来てくれない?』
「は?」
『いいから』
女は病院名を言った。
『じゃあ早くね。よろしく』
「ちょ、」
切られた。今日は勝手に切られてばかりだ。
事態がよく分からないまま言われた病院に足を運んだ。受付で名前を言い病室を告げられる。個室のようだった。
エレベーターで最上階まで上がり、嫌味なほどきれいに造られた廊下を歩く。辿り着いたドアをノックもせずに入った。
「あら遅かったわね」
広い個室、大きなベッドを少し起こし横たわっていた女はこちらを見てふふんと笑った。いつもと変わらない嫌味な笑顔なのに青白い顔色とこの女が絶対に選ばないようなセンスの簡素な入院着と腕に繋がる点滴のチューブがそれを異質なものとして演出する。
「いきなりなに」
「妊娠したの」
「あっそ」
「あなたの子よ」
「ゴムしてたろ」
「穴開けてたのよ」
「あっそ」
「…つまんないわね。全然動揺しない。嘘よ」
「あっそ」
「…ほんとつまんないわね」
ふんと鼻で笑われる。ベッドサイドに立った。
「なにこれ」
「盲腸よ。運ばれたの」
体調が悪いとは思ってたけど、まさか盲腸とはねーーーと、おもしろくもなさそうに女が言った。その状態でよくヤれてたな。そういうもんなのか?
「旦那が今こっちに向かってる」
「ふうん」
「…焦らないのね」
「うん」
はじめて、この女の前で素直に答えた。
「なんかもう疲れた。言うならさっさとひと呼んで」
「…言うわけないでしょ、私の方が罪重いんだから」
馬鹿にするように笑われた。座れば? と言われ、サイドにあった椅子に腰掛ける。
「まだ着かないわよ。明日到着するわ。飛行機にさっき乗ったって」
「ふうん」
「私、子供出来ないのよね。子宮取っちゃったから」
「え?」
「妊娠してたんだけど、いきなり出血して流れてしまったの。その時子宮も摘出した。…傷跡だってあるわよ、気付かなかったの?」
「全然」
首を横に振る。あっそうと女は呆れた。
「旦那は子供を望んでいたの。なのに私は二度と望めないからだになってしまって。…散々姑にも言われたわ。別れろって。差別用語満載の嫌味な言い方してたのに最後の方はもう涙を流しながら土下座するの。お願いですから、後生ですから息子を開放してください、何でもしますからって」
旦那の母親に会うのを嫌がっていたことを思い出す。あんな風に、軽く貶すようにしか、この女は言わなかった。
「私ももう嫌になって、旦那に何度も言ったの。別れてくださいって。周りには私がおかしくなったとか浮気したとか何言ってもいいからって。でも旦那はうなずかなかった。絶対に別れなかった。私も申し訳なかったのよ。旦那の願いを叶えられない自分が許せなかった。…別れてほしいのか、一緒にいてほしいのか。分からなくなったのよ。だから逃げるみたいに外を回ってーーー自分から旦那を遠ざけた。旦那は転勤する時付いてきてほしいって言ってくれたのにね」
「…それでも旦那は別れないんだろ」
くすりと女が笑った。思わず溢れ出したような、はじめて見た癖のない素直な笑顔。
「そうね。倒れた時社員が近くにいたから旦那に連絡が行って、さっき私も少し話したわ。…みっともなく取り乱して、すぐに帰るって騒いでた。声は裏返ってて聞き取り辛くて、早口で捲し立てていて本当もう必死過ぎて馬鹿みたいだった」
女が顔を上げる。伏せていた目を上げ、真っ直ぐに見つめてくる。
「あんなに取り乱してる旦那を感じてね。こんなにも自分に対して必死になってくれるひとにーーーみっともなく取り乱して喚いて、自分の声の届くところに引き戻そうとしてくれるひとに。愛されてるんだって思ったら、なんか気が抜けちゃった」
だってともり、全く焦ってもくれないんだものーーーまたつまらなさそうな顔をする。その顔はもうわざとにしか見えなかった。
「…旦那の母親に何言われたか旦那に言ったことあるの?」
「いいえ」
「言えばよかったろ。言ったなら旦那は他の手を打ったんじゃないの」
「そんなの自分にしか分からないから周りにはどうしようもないんだけどね。一度もう大丈夫だって決めたら、そのひと本人が壊れてしまうまで、何があったかなんて聞かないでほしいのよ。壊れかけていても終わりじゃない。泣いていても敗けじゃない。だからその時どれほどそのひとが辛そうでも、黙っていてほしいのよ」
「そんなの勝手だし我が儘だ。見てるだけで何もしないなんて我慢出来ない」
「勝手だしわがままよ。だから可能な限り隠していたんじゃない?」
出会った時は仕方ない。けれどあのひとはーーーそうだ。可能な限り隠していた。
誰もいない家の中、何度、どれだけの時間ーーー冷たい床に横たわりあの鈍い輝きを見つめていたのだろう。
「あなたが誰かに対して必死になってるのかと思ったら悔しかった。またひとりになるのかと思って許せなかった。だから邪魔した」
「ひとりじゃねえじゃん。はじめからひとりなんかじゃなかったじゃん」
「さっき気付いたんだからしょうがないでしょ。うるさいわね」
この女。
「だからもういいわ。いろいろ分かったし。あなたが必死になって、あなたのために必死になる女の子がいるっていうならもう若くて力のある二人は見てて腹立つだけ」
「は、オバサン」
「まだまだいけるわよ知ってるでしょう。…そうだ、感謝してるって言われてうれしかったからもうひとつ」
「少しは、だ」
「それでも、よ。これあげる」
「なにこれ」
差し出されたものを見た。白いUSB。
「あの笑顔のおっかない女の子が所望してたもの。渡してあげて。有効に使うでしょうから」
「え…」
「ほら、ちょっと言っただけでその顔。さっきまでぴくりとも変えなかった癖に。…すごいわよ、あの子。形振り構わず使える手段全部使って私まで辿り着いたんでしょうね。流石にびっくりしたわ。…ちょっと意地悪しても全然怯まないの。女の覚悟ってやっぱ怖いわね」
「あのひとになにした!」
「大丈夫よ。あなたが心配するようなことはない。さっさと持ってって。あの子に渡すまで見ちゃ駄目よ。まああの子はあなたに見せないでしょうけど」
飄々と言ってUSBをぱっと離すのであわててキャッチした。ふふんと女が笑うのでじろりと睨んでやる。
「じゃあもうすぐ看護師くるから出てって。じゃーね、もう二度と連絡しないで」
しっしっとうざったいものを追い払うかのように女が手を振った。非常に納得のいかないまま立ち上がり、ドアに手をかける。
スライドを開けて一歩廊下に出たその時、背後で女が言った。
「ばいばい、ともり。傷だらけの顔だけど格好いいわよ」
何発も叩かれて腫れているのであろう顔。思い出したかのようにひりつく痛みが頰に広がる。それでいい。これでよかった。
振り返らないままUSBを持った手を後ろ手に適当に振る。恐らく、それで十分だった。




