馬鹿の終わり 2
時間的に学校はとっくにはじまっていた。お構いなしに携帯を取り出し、発信する。コール音。
『蕪木っ! お前今どこにいんだよッ!」
「っせえ黙れ」
携帯を耳から離した。相変わらずうるさい男だ。
「駅前の公園のベンチ」
『駅前って?』
駅名を告げる。たまたま綾瀬と会った公園だった。
『分かったすぐ行くから待ってろ!』
「行くってお前授業ちゅ」
切れた。相変わらずせっかちな奴。
ホテルの冷蔵庫から持って来た缶コーヒーを開けた。適当に取って来たのだがブラックコーヒーだった。無糖のミルクもなし、絶対に飲めないようなーーー
誰が?
「……」
頭を下げる。
酷く眠い。
ホテルでずっと臥せてはいたが眠ってはいなかったので頭の中も視界もくらくらと歪む。
春のあたたかくなった空気を胸いっぱいに吸い込んで、そして、目を閉じた。
顔を叩かれた。何故か。
目を開けると逆光になった男の顔が自分を覗き込んでいた。顔を歪める。
「きめえ」
「お前なあ!」
さらにもう一発頰に叩き込もうとしていたのか林場が振り上げていた手を下ろす。起こすために頰を叩いていたらしい。
「お前ずっとどこいたんだよ! 御影さんは? お前らずっと何してたんだよ!」
「ホテルで女と寝てた」
「は?」
「あいつは知らない。男のとこにでも行ったんじゃねえの。俺はずっとホテルでヤってた」
残っているコーヒーを煽る。少し生ぬるくなっていた。粘つくような感触になったコーヒーに眉を顰める。
「ーーーお前、何言ってんの?」
「お前が訊いて来たんだろ。というか、綾瀬まで来るとは思わなかった。サボったの?」
視線を向ける。睨むようにこちらを見据えている女が林場の横にいた。
「何やってたの?」
「だから女と」
頰を打たれた。
「女と寝てたんだって」
頰を打たれた。
「ずっとヤってた」
頰を打たれた。
「で、金もらってた。今ならシャー芯なんて余裕で買える」
頰を打たれた。
「ショックでも受けた? お前俺のこと好きなんだっけ。なんなら今からホテルでヤる?」
頰を打たれた。
「ーーーってえな! 何なんだよさっきからッ! どいつもこいつも好き勝手やりやがってッ!」
「謝りなさい、蕪木。あのひとに謝りなさい」
「っは、関係ねえだろ。俺がどこで何しようが誰抱いてようが誰にも、」
「謝りなさい。あんたの時間を、先に進むための準備時間を奪ったことについてあんなに怒ってたあのひとに謝りなさい。自分から棄てたことを謝りなさい。謝ってーーー謝って、謝って、謝りなさい」
「だから関係」
「ある。私は絢香が好きだった。大事だった。でもそれは私にとって唯一の友達だったから好きだったのかもしれない。他にも友達がたくさんいたらそこまで大事に思ってなかったかもしれない。
でも、あのひとは違う。大事なひとが大勢いる。あのひとが大好きであのひとを大好きでいてくれる相思相愛のひとが大勢いる。全員を大事にしてる。大勢いるのに、それでもあなたのことをたったひとりの人間として大事にして、あなたのためにあなたが怒る前に怒って、あなたが痛みを感じるより早くあなたの痛みに気付いて元凶に立ち向かった。形振り構わず戦ってくれた。そんな風にしてくれたひとが無関係なわけない。
考えれば考えるほど、あのひとは私とは違った。私はそういう人間になれなかった。嫌だし、悔しいよ。私はあんな風に、誰かのために怒れない。ーーーそんな風に、あなたはならないで」
ぼろぼろと零れ落ちる涙。
綾瀬の泣き顔を見るのは二度目だと、場違いなほど頭の片隅が冷静に思う。
「さっさとーーーさっさとあのひとのところに帰りなさい。とりくん」
そんな風に呼んで。
綾瀬は身を翻した。
どんどんと遠去かる背中ーーー林場があわてたように自分と綾瀬を交互に見た。
「…お前、さっさと帰れよ」
「…かえれ、って…」
細い声が出た。そんなこと、今さら。
今さら言われたって。
「だって、もう…」
「なんかしたの? 御影さんに」
「…押し倒して…キスした」
「すげえなイケメンやることが違う。じゃなくて。なんでしたんだ?」
「あのひと、を…すごく大事にして、愛してるって言う男がいて、なのに俺はあのひとの名前を呼ぶことも許してもらえなく、て…ずっとずっと、誰かを待ってるって、誰かを求めてるって、知ってたんだ…けどその誰かが急に出て来て、意味が分からなくなって…」
「その男よりもお前は御影さんのことを大事に出来ない? 愛せない? 名前を呼ぶのを許してもらえないからって、そこに愛はない? …あのさあ、何で御影さんがあの時、ゆかりを探すのを手伝ってくれたか知ってるか?」
俺聞いたんだよ、あのあと。林場が続ける。
「『ともりくんの友達だから』だよ。それ以上に理由はなかったんだよ。なのにあのひとはゆかりを突き飛ばして自分が落ちる方をあっさり選んだ。…愛はともかく、お前のことを大事に思ってるから、あんなことが出来るんだろ。…だからさ。ちゃんと、考えろ」
もう一発、と、林場の拳が酷くゆっくり肩口を打つ。
「じゃあな。無理はしろ。今からしろ」
言い置いて、だいぶ遠くなった綾瀬の背中を追って走り出した。
眩しい。
遠い。存在が、こんなにも。
どいつもこいつもーーーどいつもこいつも、勝手なことばかり、言う。
力を失くして、かくんと深く項垂れた。
どうやって顔を上げていたのか、どんな顔をしていたのかーーー何故だか思い出せなかった。




