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馬鹿は笑う 6


身体の芯まで濡れた身体が酷く動きにくい。身体は震えていたが寒さは何故か感じず、ただ身体がぎこちなくしか動かないのがただひたすらに不快だった。

緩慢に歩いてーーー辿り着いたのは、見慣れた家。

慣れている。親しんでいる。

「……」

うつむいて。鍵を開けた。

しんとした室内。靴はない。出かけているのか。濡れたりしていないだろうか。雨が降っているのにーーー寒いはずなのに。

びたびたと床を濡らしながらリビングに進む。誰もいないーーー主人のいない、空っぽの家。

ともりくん

呼ばれた気がして顔を上げる。やわらかい声は幻聴の中でもやさしく響き、そして、夢のように消えた。

「……」

その時。固定電話が鳴った。のろのろと視線を巡らせると、親機のディスプレイに明かりが灯り、コール音を鳴らしている。数回でそれは止み、留守番電話になった。

メッセージをどうぞ…プログラムされた女の声がそう言い、ざわざわとしたどこかの空気へと繋がる。

『もしもし、ミユキ。僕だ』

低い男の声。少しだけアクセントが不安定な日本語。御影の父親では恐らくない。アメリカ育ちなだけで、両親は日本人と言っていたし声がまだ若い。

そして何より。

ーーーミユキ?

『携帯に電話してもメールしても返事をくれないだろう。だからこっちに電話した。…返事をくれ、僕が君に言うべきだったし、後悔はしていないけれどーーー酷いことを言ったのは、分かってるんだ』

切々とした声音。誠実そうな、真っ直ぐな言葉。

『僕もミユキのことを愛している。君が辛いならその辛さを僕も背負いたい。僕らはーーー一緒にいると辛いかもしれないけれど、でも、離れるのは違う。君を大切にしたい』

連絡をくれ。

その言葉を最後に、電話が切れた。

彼女を包み込むことだけしか込められていない、やさしい言葉。

分かる。この男が、どれだけ彼女のことを想っているのかーーーどれほど彼女を愛おしく想っているのかが。分かる。ーーー分かって、しまう。

ーーーそして

『僕もミユキのことを愛している』

『僕も』

『愛している』

『ミユキ』

ミユキ。

「ーーー」

外に出る。郵便受けを開けて、中にあった郵便物全てを引っ掴んで閉めた。リビングに戻る。

指先が震えていた。上手く動かない指を必死に手繰り、ダイレクトメッセージの宛名を見る。

『御影 幸』

みかげ みゆき

ぐしゃりと、湿った手が手紙を握り潰した。震える。震えが止まらない。

苗字を隠した自分と、

名前を隠した彼女。

『ミカゲ…みんなはユキって呼びます』

そう。呼んでいた。三木でさえ、そう。

どうして? ーーー呼ばれたく、なかったから?

私だって嫌だよ。あのひとと同じ呼び方じゃん。

綾瀬の言葉が、ふいにくっきりと脳裏に蘇った。

そう呼ばれたくなかった?

ーーーそう呼ぶ人間は、たったひとりがよかった?

玄関のドアが開く音がした。一瞬だけ雨音が強くなり、また小さくなる。

ばたん、と、閉まった音がしてからーーー足音が、近づいて来る。

聞き慣れた軽い音が廊下を歩いてーーーリビングに。

御影の黒い眼が、自分を見つめた。

「ーーー…どうし、たの」

全身ずぶ濡れ、髪から雫が滴っている状態で立ち尽くすこちらを見て、御影は眼を開いた。

「なにがあったの。こんなに濡れてーーー」

近寄り、真正面からこちらを見上げる。少し焦ったようにポケットからハンカチを取り出し、顔を拭こうと手をのばす。

「留守電」

「え?」

「留守電」

「……」

今自分は、どんな顔をしているのだろう。

今自分は、どんな眼で見ているのだろう。

視線を巡らせた御影がーーー電話機に歩み寄り、点滅しているボタンを押した。

もしもし、ミユキ。僕だ

音もなく息を殺される彼女の鼓動が、ここまで聞こえた気がした。清潔な男が紡ぐ、彼女への想いと彼女の名前。痛いほど静まり返った室内に、その言葉が積もっていく。

全て聞き終えてーーー沈黙が、戻る。

何も言わない。自分も彼女も。

だから自分が、口を開いた。

「幸、っていうんだな」

知らなかったよ、と。ゆっくりと、彼女が振り返った。黒目がちな大きな眼が再び自分見る。こんな時なのに、彼女の視界にまだ自分がいることに安堵し、そしてそれ以上にーーー苛立つ。

酷く傷付いた眼だった。

今にも泣き出しそうな貌だった。それなのに、絶対にそれが出来なさそうな貌だった。

彼女がはじめて自分に曝け出したーーー押し殺して隠していた、貌だった。

「…ごめん。その名前で呼ばないで」

何に対しての謝罪なのか。何がそんなに彼女をそうさせるのか。

彼女が自分の横をすり抜けた。足早に、階段に向かって。

「ちょっと頭冷やして来る。ちゃんとシャワー浴びて」

「幸」

ぴたりと、彼女が立ち止まった。

その背中が震える。

「…呼ばないで。お願いだから」

階段へ向かって駆け出した背中を目で追ってーーー手に入らないなら、

誘われるように手をのばした。

「幸」

ーーー例え一瞬でもいいから、

「幸」

「ーーーっ呼ばないでって、言ってるでしょッ!」

振り返った彼女に一瞬で身体を寄せた。近付いて手をのばして彼女が眼を見開くのも構わず両手を強引に掴んで力の限り握りしめそのまま階段に押し付けるようにして押し倒した。

驚きに乱れた彼女の呼吸が、酷く近くで聞こえた。

髪から滴った水滴がぽたぽたと彼女の頰に落ち、すうっと涙のように伝って落ちる。

「…呼べば、いいだろ。呼べばいいだろ。そんな貌するくらいなら、そんなに好きなら言えばいいだろ、愛してるなら叫べばいいだろ!」

「うるさい!」

「あっちだってあんたを想ってるじゃねえか、あんたを呼んでるじゃねえか! あんただって呼べよ! 呼んだら応えてくれるひとがいるなら、最初からそうしろよ!」

「うるさい! うるさい、うるさい…!」

押さえた身体の下で彼女がもがく。非力で、頼りなくて、小さくて、華奢でーーーあまりにも取るに足らない存在で。目眩がした。

「何にも知らない癖に! 私は、わたしはもう何も返せない! 何もあげられない! 心をくれたのに、全部わたしにくれたのに、なのに、わたしは…! わたしはもう、何も…!」

「知るかよ! あんたが言わないんだろ、何にも言わずにひとばっか構って、踏み込んで来た癖に自分は何も云わないで! 知ってたらーーー識ってたら俺だって、」

俺だって、何だ?

知っていたら、最初からその存在をはっきりと認識していたら?

そうだったら今と何かが違った?

自分は今ーーー他の男を求める彼女のこと、を?

熱さにも似た目眩が弾けて

「黙って。お願いだからもう黙って…! はなし」

ぶつけるように顔を寄せた。がちっと音がするくらい強く触れて僅かに開いていた隙間から強引にねじ込む。

反射的にぎゅっと眼を瞑った御影が、かっと眼を見開いた。小さな身体が自分の下で弾かれたように暴れ自分から顔を寄せるように近付け触れている唇を噛んだ。

「っ、てえーーー」

身を引く。片手を解放し反射的に口の端を手で押さえた。ざまあみろ。

ざまあみろ。

再び手を掴もうとのばしたが彼女はそれを避けた。跳ね上がるようにして上体を起こし、

「ーーー目覚めよ!」

頰を殴られた。

拳で。

ーーーこの女、最高だ。


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