トワの大いなる学習帳:「歯ブラシ」
またこの夢か、と慣れてきてしまっている自分が怖い。
今日は歯を磨いている最中に眠ってしまったようで、手には歯ブラシが握られていた。どういう仕組みなのかは皆目見当がつかないが、寝る直前に身につけていたものや行っていた動作がこの殺風景な白塗りの世界にそのまま反映されるらしく、従って今回は口に咥えていた歯ブラシを持ちこむことが出来たようだった。ちなみに夢の世界を離れ目を覚ます際、手荷物を身体から離すとその物はそのまま夢の世界に置き去りになってしまう。新しい手法の詐欺なのかもしれない。
「それ」といつの間にか目の前に現れた少女が言う。
「それ、何?」
視線の先を追うに、どうやら歯ブラシのことを尋ねているらしい。本当に何も知らない子だ。
「何って、歯ブラシだよ。分かんない?」
少女がプルプルと動物のような動きで首を横に振る。妹と同じぐらいの背格好なので歳は中学生ぐらいだろうか。あまり想像したくないが、彼女は歯を磨かないのだろうか?この年になるまで?いやしかし、それにしては白く健全な歯が疑問符のついた唇の向こうに覗いている。何か宗教的な事情によって特殊な方法で、あるいはもっと古典的な方法で歯を研磨しているのかもしれない。いや、あの美しい歯並びからして、もしかしたら逆に普段もっと技術的に高められた革新的歯磨きをしているため、前時代的な歯ブラシというものを見たことがないのかもしれないな。
疑問はつきない。彼女も同じく疑問はつきないようだった。
「何故、歯?」
「?・・・あぁ、歯以外も磨けるんじゃないって疑問?」
少女はコクリと頷いた。
「まぁ、確かに使い古した歯ブラシなんかは捨てる前に別の汚れを落とすのに使い回されたりすることもあるけど、他には他のブラシがあるからね。このブラシは歯を磨くために合った素材や形を考えられて作られてるんだよ。他もそう。適材適所ってやつだ」
「・・・歯ブラシのような他の、何かは?」
これは意図を読むのが難しい質問が来たぞ。少女は「言葉が苦手、ごめんなさい」と大して表情を変えずに平時からの口癖を続けた。
「それは“歯ブラシ的何か”ってことか?“歯ブラシ的愛”とか“歯ブラシ的民主主義”みたいな」
「アイ」
「いや、意図と違うっぽいな。ゴメン」
自分で言っておいてなんだけど、“歯ブラシ的愛”とはどんな愛だろう?歯ブラシのように先が適度に尖って真っ直ぐに伸び、しかし撫でると意外に柔らかくしなり、過度に押しつけ合った挙句時間と共にバラけていく、そんな愛だろうか。意外にもお手本のような愛の形に思えてきた。
「ミンシュシュギ」
「お、お前はスベったボケをいつまでも引き合いに出すタイプだな・・・」
「スベったボケ」
「あ、分かったぞ!つまり“歯ブラシに類似する用途のブラシは他にあるか”ってことだな?」
少女はうんうんと頷いた。なるほど。俺も二度頷いた。
「あるよ。人の体を磨くブラシは他にもある。一番近いところだと、舌ブラシだな。舌を磨くんだ」
「何故?」
「ほら、人と会う時口臭が気になったりするだろ。舌って結構食べ物の汚れが溜まるもんだから、それをブラシで落とそうという寸法なんだよ」
「コウシュウ」
「にんにく料理とかでよく引き合いに出されるよな」
「私は何も食べない」
ややこしくなるので聞かなかったことにしよう。別の話を振る。
「個人的には指の間ブラシとか欲しいなぁ」
「何故?」
「足の指の間とか、結構敏感だから気持ち良さそうじゃないか?なんだかんだで汚れが溜まる所って敏感だから掃除する時少なからず快感があるだろ、歯も、耳なんかもさ。指の間もいざやってみたら気持ちいいんじゃないかなぁ」
少女は屈みこみ、自分の足の指の間を暫く繰り返しそっと撫でたり掻いたりしていた後、心なしか勢いのある立ちあがり方をして「欲しい」と言った。
そろそろ起きる時間のようだ。目覚ましのくぐもった音が部屋のどこからか響き始める。少女もそれを察したようだった。少女は俺の右手に握られた歯ブラシをじっと見ている。彼女が何かをじっと見つめる時は「ちょうだい」の無言の催促である。
「いや、さすがに使い古しはマズいと思うからさ、今度来る時新しいの買って持ってくるよ」
歯ブラシぐらいなら買ってやろう。枕元に置き、羊の代わりに歯ブラシを数えながら寝れば持って来ることが出来るだろう。以前その方法で自転車を持ち込むことに成功している。
「足の指の間ブラシも」
「・・・一応探しておくよ」
今日学んだこと
歯ブラシ・・・歯を研磨するために特殊加工された清掃器具。
・使用者はコウシュウへ対抗する術を得る。武器の可能性アリ。
・類似物にシタブラシ、アイ、ミンシュシュシュギ等。
・足の指の間ブラシは現在開発中。完成を待望す。