あたたかい世界/鈴side
放課後、勉強道具を抱えて図書室の扉を開けると、貸し出しカウンターの中に座っている人物がにっこり笑って手を振ってきた。
なに、このどんぴしゃなタイミング。
貸し出しカウンターに入って、カウンターに張られている当番表に目をやる。今日、組むはずだったのは案の定、この人ではなかった。
「代わってもらっちゃった」
ああ、そうでしょうねぇ。その笑顔と元・委員長権限があれば、当番を代わるのなんて簡単でしょうねぇ。
よっぽど嫌な顔をしていたに違いない。
私が無言で貸し出しカウンターの椅子に腰掛けると同時に、元・図書委員長の真野先輩は爆弾を落としてきた。
「犬に噛みつかれたそうで。どう? ご気分は」
昨日の今日で、なぜもう知っているのか。
相手にすまい、と決めていたのに、教科書を開きかけた手を止めて、思わずその顔を見てしまう。
カウンターに頬杖をついてにこやかな笑みを浮かべた真野先輩は、こちらの気を知っての上だろう、さらなる追い討ちをかける。
「うまくいくと思ってたのになぁ。こんがらがるなんて、オモシロイなぁ」
ああ。
この人にオモシロイと思われたら終わりなのだ。元・図書委員長は表の顔。裏の顔は、この高校の情報屋だ。無駄だと分かっているのにささやかな抵抗を試みる。
「別に面白くないです」
「俺ね、からまった糸ほぐすの、好きなんだよね。きれいに分けて、あるべきトコロに戻すわけ」
「別にからまってないです」
「またまたぁ」
ゴシップ好きの真野先輩は、わくわく、キラキラした視線をこちらに向けてくる。
「ね、どうすんの」
「知りませんよ」
「自分のことなのに」
観客に非難めいた口調で言われる筋合いはないのだ。
というか、観客が多すぎる。
今までのイザコザを思い出す。
―――鈴本さんって、桃井君のことどう思ってるの。
―――付き合ってないんだよね? だったら近づかないでほしいんだけど。
―――だいたい、鈴本さんと桃井くんなんか、全然釣り合ってないよ。
云々、云々。中学のころから、年々、頻度が増えている。
アレの陽気な性格が目立ちすぎるせいか。
背が伸びたせいか。かっこよくなったせいか。
あまりにも長く、そばに、置きすぎたせいか。
「あの犬、誰か、引き取ってくれませんかね」
「無理でしょ」
間髪いれず、否定される。
「先輩の情報網の中に、有力候補いませんか」
「いないねぇ」
この人がそう言うなら、そうなんだろう。
はぁ。心の片隅で、嬉しいと思ってしまう。面倒だ、この気持ちが。
「ねぇ。なんで素直に好きって言わないの?」
心底不思議そうに、真野先輩は問う。私は憮然として返す。
「あっちがそういう『好き』じゃないからですよ」
「それが昨日覆ったんでしょ。恋愛の好きでしょ。向こうは」
「手近なところにたまたま手を出したんでしょうよ」
そういうことにしてしまいたい。
「違うでしょ。わかってるでしょ。なんでそんなに意地張ってるの」
今日の真野先輩は手加減なしだ。
本を借りに来てくれる人もいないし。
ああもう、嫌だ。
からまった糸なんか断ち切ってしまいたい。
なついた犬なんか、車で置き去りにしてしまいたい。
アイツの明るい世界をこれ以上見たくない。
「住む世界が違うんですよ。先輩にはわかんないでしょうけど」
人に囲まれた、あたたかい世界。休み時間のつぶし方を気にしなくていい世界。
クラス替え後の教室で、あっというまに友達が出来てしまう世界。
桃井を慕う子達に言われるまでもなく、わかっていた。
人懐っこくて、友達のたくさんいるアイツと、自分が釣り合うとは、思わなかった。
「私、暗いし友達いないから。だから無理です。釣り合わないです」
あの暖かい世界に、私は入れない。
認めてしまえば簡単だ。
悲しくて惨めで、憧れて。
懐かれて嬉しかったのはこっちのほうだ。
好かれて嬉しい気持ちは本物だ。
だから昨日、これで終わりだと思った。
違う世界のひとと、手はつなげない。
これ以上一緒にいられない。
「鈴本さんさぁ。世界が違うなんてことはないよ」
真野先輩はそう言った。
きれいにアイロンがけされたハンカチをぽんとこちらに渡して。
「俺とね、こんだけしゃべれる人を暗いって言わないよ」
もつれた糸をほぐすように。
「それでも世界が違うって思うんだったらね。憧れてないで、旅行気分でちょっと入ってみればいいよ。きっとわかることがたくさんあるよ」
ぐちゃぐちゃになったまま隠していた感情を、好きと、憧れと、惨めにきれいに整理して。
「大丈夫だよ。案内は犬がしてくれるでしょ。そのくらい任せてみなよ」
涙でにじむ私の世界を励ますように。
ぽんぽん、と、頭の上で、大きな手が跳ねた。