あたたかい世界/桃side
--桃side--
スズモトを泣かせた。
2年になって早々、クラス分けがあったその日に。
我慢できなくてキスをした。初めてのやわらかい感触に頭は真っ白で、スズモトが動かないのをいいことに、二度、三度とその感触を追いかけたら、オレの頬がぽたりと濡れた。
自分の頬を触って、それからスズモトの頬を触ってみたら、めちゃくちゃに濡れていた。身を引いてみれば、スズモトは泣いていた。
うつむいて、静かに泣いていた。俺につかまれた左手が震えていた。
あ。と、思った。
失敗した、と、思った。
「ごめん」
失敗した。ラインを超えた。
スズモトがオレに許していたラインを超えた。
「ごめん」
スズモトは泣き止まなくて。何にも言わなくて。
オレはハンカチもティッシュも持っていなくて。
謝るしかなかった。
「ごめん、スズモト。もうしない。約束する」
つかんでいた手をそっと離すと、スズモトはスカートのポケットからハンカチを出して、顔に押し当てた。
オレはその場に立ち尽くして、スズモトが泣き止んでくれるのを待った。
どうしたらいいのかわからなかった。
だけど、今まで許されていた位置からは一歩も退きたくなかった。
「スズモト。ごめん。忘れて」
自分の都合を押し付けた。
「今のなし。忘れて。ごめん」
忘れてくれ。そんで、そんで、モトに戻ろう。
オレは今までいたところに戻るから。スズモトは、どうか、どこにもいかないで。
「一緒、帰ろ」
俺がそう言うと、ハンカチを顔に押し当てたまま、スズモトは、小さく頷いた。
みんなに、付き合ってるのか、って聞かれるけど、付き合ってなんかなくて。
中学の時からの習慣で、毎日、一緒に帰る。それだけで。
オレとスズモトの距離は、まわりが思っているより、はるかに遠い。
「モモ、お前、今日当番じゃなかった?」
次の日の休み時間、机に座ってぼんやりしていると、横田が寄ってきて言った。
「……何だっけ、次」
「古典。時間ねーぞ」
横田が黒板を指差す。
古典の授業では、毎回当番が休み時間に教科書の原文を黒板に写しておく、という決まりがあった。
昨日の授業で指名されたのは俺と沢野で、沢野は今日の範囲の前半を、すでに黒板の右半分に埋め終わろうとしていた。
「やべ」
古典の教科書を引っ張り出して、よろよろと黒板まで歩き、沢野の隣に並ぶ。
「モモ、おそいよー」
沢野はオレをモモと呼ぶことにしたらしい。沢野は女子の学級委員をしていて、生徒会もしていて。男子を遠慮なく呼び捨てにしては物怖じせずにクラスを仕切っていく。ほんと、スズモトとは全然違う。
「気づいてんなら呼んでくれ」
「だって、ぼーっとしてるんだもん」
「だったら余計呼んでくれ」
はぁ、とため息をついてオレは原文を写しにかかる。
オレの字はただでさえ汚い。黒板に書くとなるとさらに汚くなる。
2行分写したところで、沢野がオレの書いた一字を消してチョークで書き直した。どうやら間違っていたらしい。
「沢野やさしー。さんきゅー」
3行目にとりかかる。
「なんか元気ないね」
自分の当てられた範囲を書き終えた沢野が、教卓によりかかって言った。
「ない。死にそう」
「スズモトさんに振られた?」
沢野の中では、すでにオレといえばスズモト、という図式が出来上がっているらしい。
「わかんね」
振られたのか、なんなのか。
キスはNG、というラインが明確になったことだけは確かだ。
オレはいつもスズモトとの距離をつかみ損ねる。
一緒に帰ってくれるんだから好かれてるんだろう、と、勝手に思ってたけど。
うぬぼれか?
「沢野って彼氏いんの?」
「ん、いるよ」
平然と答えると、沢野は、よ、っという掛け声とともに飛び上がって教卓に腰掛けた。宙に浮いた足をぶらぶらさせる。
「泣かされたことある?」
「あるよ。付き合う前だけど。カバン投げつけて、土足で蹴ってやったよ」
「沢野こえー」
「怖いよぉ」
ふふん、と沢野は笑う。
「で、モモはスズモトさんを泣かせてへこんでるわけだ」
「オレ、どーしたらいいのか、わっかんねーの」
ラインからはみ出たぶん、とりあえず戻ってみたが。
謝ってはみたが。
これ以上できることは、はたしてあるのか。
この距離が縮むことは、この先、あるのか。
「ていうか、なにしたの?」
沢野が怪訝そうにたずねる。
なんて言えばいいのか。
「……ちょっとさわった?」
「あー、そういうのかー」
ぱたぱた足を振る気配が止んで、振り返ると、沢野は天井を仰いでいた。
「あ。言っとくけど、オレら付き合ってねーから。お前が想像してるよりもっと手前の段階だから。で、すっげー泣かれた」
「それはまた、ご愁傷様ぁ」
沢野が、チョークのついた白い手で合掌する。
なんか、どっかで聞いたセリフ。ご愁傷様ぁ。
ひょっとして、昨日ので、終わったのか。オレらの関係は。
知らず、顔がひきつる。
オレにはスズモトがわからない。
3年も一緒に帰っているというのに、いまだになにを思っているのかわからない。
「なぁ。まじでどーしたらいいと思う?」
「んー」
沢野は、白く汚れた手をパンパンと叩いて、至極まっとうなことを口にした。
「話を聞いたらいいと思う」
「話、ねぇ」
オレはスズモトがほしかったけど、スズモトはそうじゃなかった。
昨日のアレは、そーゆーことだ。
「なんか、聞いたら終わる気がすんだよな」
なぁ。
スズモトはなにがほしかったの。
オレがそばにいるのを許してたのは何だったの。
聞いたらいよいよ終わりが来るような気がした。
「モモさぁ。大丈夫だよ」
沢野が言った。
「モモが退かない限り、大丈夫だよ。むしろ押した方がいいよ。ここらで、ちゃんとしてみなよ」
泣かれて即、退いたオレに。
昨日初対面の沢野は、悟ったような顔で、そう背中を押した。