3年懐いた犬/鈴side
--鈴side--
アイツは、飼犬みたいな、ものなのだ。
私をみつけて、ぶんぶん振ってくる手は、尻尾みたい。
すげーな、って私を尊敬する目は、キラキラしてて。
犬が飼い主を見るような、そんな雰囲気だ。
中学のとき、好きだって言われて、嬉しくて。
だけど日に日に、疑問が増してった。
国語のできないアイツが、言葉の意味を、正しく理解しているのか。
アイツのいう『好き』は、親愛や友情や尊敬の『好き』じゃないのか。
そしてそれを指摘できない私は、怖がりだ。
「スズモトー!」
廊下の窓から、思い切り叫ばないでほしい。
高校二年、始業式の終わった後。
クラス替えのせいで、クラス中が仲間作りに浮き立っている、そんなときに。
わざわざ違うクラスの生徒を呼びにくるな。頼むから。
進学校の我が校は、始業式が終われば、即、授業だ。授業が始まるまでのわずかな時間、私はノートと教科書を出したところで、一人ぽつんと席に座っていた。
いくつかできつつある女子グループの自己紹介の輪の、どれにも入れずに、ひっそり教室で息を殺していたのに。
アイツの叫びで、ざわざわしていたクラスが、すっと静かになる。スズモトって誰だって視線が宙を舞ったのは一瞬だけだけど。
すぐに復活した「ざわざわ」は、微妙に変質している。
話しながらも、耳を澄ませているような。
ああ、このまま無視したら、輪をかけて大きい声で呼ばれるな。それでアイツはここまで来るんだろう。
クラスの境界線なんて、ひょいと越えて。
立ち上がって、トイレに行くフリをして、廊下に出て対処するのが最善だ。そう思っているのに体が動かない。
このタイミングで立ったら目立つ、なんて、自意識過剰だ。
だれも私に注目はしない。わかっているのに怖くて立てない。
行くから。行くからもう呼ぶな。
ぎこちなく顔を上げて、廊下のほうを見た。教室を覗き込んでいるアイツと、視線が合う、その前に。
「桃井よぉ、叫ぶな」
苦笑いの声が代わりに応じてくれた。去年も同じクラスの、竹居くん。
教室のまんなか、男子の輪からひょっこり抜け出て、廊下の窓に向かって歩きながら。
「なんか、忘れ物かぁ?」
なぁんだ、ていう風に、教室の「ざわざわ」が元に戻る。
うるさい男子が仲いい男子を呼んだだけか、って納得した雰囲気になる。
ほ、とひと息ついて、私は静かに席を立った。この隙に廊下に出てしまったほうがいい。
「あ? お前なんか呼んでねぇよ」
廊下で、桃井が顔をしかめてる。私が動き出したのを目で追いながら、窓越しに竹居くんの肩を小突いた。
「っつうか、やっぱクラス代われ。スズモトと同じとか、ズルすぎる。あと手ぇ出すな」
「正直すぎるだろ、お前」
くく、と竹居くんが笑う。
開いたままの教室のドアを通って、私は廊下に出る。
教室から見えないよう、ドアと窓の間の壁に背を預けた。ぶんぶん、嬉しそうに手を振って近づいてくる桃井に、できるだけ低い声で、たずねる。
「なに」
桃井は、高校に入って背が伸びた。ちょっと首をかしげて、高い位置から、言った。
「元気?」
「は?」
「スズモト元気かなぁ、って思って」
にぱぁ、と幸せそうに笑う。
ああ、馬鹿なのだ、こいつは。廊下から堂々と、私の名前を叫ぶほどに。
「あんたの顔見たら、へこんだわ」
「へっ?」
桃井は本当にびっくりした顔をする。私は早口で釘をさす。
「廊下から呼ばないで。あと教室にも入ってこないで」
「なんで?」
「嫌だから」
あんたといると目立つから。へんな誤解を受けて、下手したら嫌がらせを受けるから。
このままでは去年の再来だ。最悪だ。涙が出そうだ。
「絶対やめて」
むぅ、とむくれる桃井に、「絶対」なんてあいまいな言い回しが効いたためしは無い。犬には犬用の、具体的な、しつけがいるのだ。
「これ、約束よ。破ったら、あんた置いて先に帰るから」
「ええー?」
桃井が目を丸くして、それひどい、と呟いた。
「でもさぁ、教科書忘れたときとか、困るじゃん」
「私のじゃなくていいでしょ」
陽気で人懐こい桃井には、そこらじゅうに友達がいる。ふと気づけば、同じクラスでも中学出身でも部活でもない、接点のなさそうな誰かと楽しそうに騒いだりしていたりする。去年同じクラスだったとき、友達の友達、をその場で自分の友達にしてしまうその様に呆れた。天性の明るさで、桃井は私には到底できない芸当をさらりとやってのける。
だから、教科書なんて、誰からでも手に入る。それこそ、ここにいる竹居くんにでも借りればいいのだ。
「でもさぁ、スズモトのノートとかさぁ」
けれど桃井は、中学のときからひどく私に懐いている。犬のように。
「えーと、あと、ワークとか課題とか? とにかく、スズモトのがいいんだってば」
私の冷めた視線を真っ向に受けながら、うだうだと、犬はしつこく食い下がる。
ああもう、無視、無視。
呼び止める声をほんとに無視して、教室に戻ったのに。
ドアをくぐったとたん、クラス中から好奇の視線が集まっていて、息が詰まった。
ああトイレに行くフリは通用しなかったんだな。と嘆息した。
教室の中、廊下側の窓際にもたれかかって成り行きを見ていた竹居くんが、
「全然フォローにならんかったな。悪いな、鈴本さん」
と、苦笑いしてくれた。
桃井は、私を好きだと言う。
言い過ぎて、自己暗示にかかってるんじゃないかというくらい、頻繁に。
帰り道で電車を待っているときも。ノートを返してくるときも。
きっと、刷り込まれてしまったのだ。
パブロフの犬のように。
中学のころ。
私は、成績が底辺近かった桃井に勉強を教えていた。
桃井は成績の良かった私を尊敬していて、
尊敬や、親しみが、「好き」なのだと勘違いをした。
そして、犬が飼主に懐くように、私に懐いている。
私は、懐かれたまま。
いつか他の飼主が現れるだろうと思っていたのに、現れず。
懐かれて、3年が経っていた。
「オレ、約束守ったでしょ?」
放課後、教室に来たのは自慢げな犬。ご褒美がほしそうな犬。
ドアのところで、待っている。
「はいはい」
私はグラウンド側の窓際の席で、そっけなく相槌をうつ。きっと声はドアまで届いていない。無視した格好だ。
机に広げていた勉強道具を片付ける。時計を見れば午後七時。窓の外は薄暗くなっていた。
「ねー、教室入っていい?」
バカかお前は。約束はどうした。
「誰もいないんだし、いいじゃん。ねー、いいでしょ?」
犬はサッカー部だ。中学のときと同じで、キーパーを、している。
私は帰宅部だ。そのかわり、犬の練習が終わるまで、学校で勉強している。
それで、一緒に帰る。
これは中学のときからの習慣だ。犬の散歩のような、ただの習慣だ。
「沈黙はオッケーととります。入りまぁす」
ひょいと境界線を越える犬を、私は呆れてみていた。
「明日、さき帰るからね」
「だめ、今日の分は今日の分」
3年たてば、犬も理屈を言うようになるものだ。
「あっそ」
それならば、と、私はカバンを手に持って、「今日の分」先に帰るべく、犬のそばを早足ですり抜けようとする。
「スズちゃん」
3年たてば、犬の語彙も増えるものだ。
最近になって増えた、呼び方。それだってまだ苗字だけど。
他に人がいるところで、そうやって呼ばないくらいには、犬も賢くなっていて。
「スズちゃん、すき」
足掛け5年もキーパーをやっている犬は、私を捕まえるのなんて簡単で。
私の片手をつかんで動けなくするくらい、力も、強い。
つかまれても痛くない。でも動けない。そんな力加減さえ、覚えるのだ。
3年、懐かれて。
どうしたら、いいんだろう。勘違いしたまま、よそに行こうとしない、この犬を。
「スズちゃんも、好きって、言って?」
あー、好き、なんて、言ったら、喰われそう。
私の本能がそう告げていた。この犬は、今日はおなかを空かせている。
なぜだか、知らないが。
「一緒に、帰ってあげるから。それでいいでしょ」
お散歩してあげるから、いいでしょ。
飼主は、お散歩で犬をごまかそうとして。
とうとう、噛みつかれた。
3年間も、懐いて懐いて、離れない犬に、やさしく、噛み付かれた。
オレの飼主はお前なんだって、こういう「好き」なんだって主張する、
初めてのキスだった。