最終話
俊足の子ザルに鈍足の私が追いつけるはずもなく、校庭に出た時点で子ザルはすでにプールの周りに張り巡らされたフェンスをよじ登っていた。
「ちょっ……ハル!」
焦った明島くんが呼ぶ。下駄箱にいたのを、とっさに連れてきたのだ。息を切らせて「春ちゃんが」と言えばこの人には充分だった。
明島くんがスピード上げると間はぐんぐんひろがって、私は私なりに精一杯後ろを追いかけていった。
頂上の有刺鉄線を越えた子ザルは、フェンスの真ん中当たりからムササビみたいに飛び降りてプールサイドに着地した。
「待てってばッ!」
明島くんの怒鳴り声、なんて、一生に一度聞けるかどうかの代物、聞いてしまった。
フェンスの向こう側で仁王立ちになった春ちゃんは、人差し指を明島くんに突きつけ、
「あんたねぇ、わけわかんないガンカケであたしの友達泣かせてんじゃないよ!」
「はぁ!?」
校庭側のフェンスに手をかけた明島くんは、三回足をかけて有刺鉄線を越えた。
捕まるのを避けて子ザルが逆側のプールサイドに移動する。ワンステップで飛び込み台に飛び乗り、追いつかれるのにいささか慌てながら上靴と靴下を脱いで、
「そんなのはっ! あたしが全部拾ってやるっ!」
宣言直後、宙にダイブ。
派手に上がる、水しぶき。
わけわかんねぇお前、とプールサイドで嘆く明島くん。
ようやくプールにたどり着いた私は、フェンスを越えられる自信がなくておろおろしたあと、逆側にある出入り口から入ることに成功した。
「木下とは別れたっつーの……」
着衣潜水でぐったりした春ちゃんを引き上げて、事情を聞いた明島くんがため息をつく。明島くんの恋愛に興味のない春ちゃんには、木下さんとのことも言っていなかったのだろう。木下さんに対する春ちゃんの暴言も、「弱音を吐いているカノジョ」に対するものなら、手荒い励ましだったのか。
陸上げされた子ザルはプールサイドに転がって、「体中塩素臭い」とか「虫食べた」とか、泣き言を言っていた。
「なんて誤解してんの、お前……。オレは二股かけたことなんかないし、そのつもりもないの。鈴本さんも、妙なこと吹き込まないでほしいなぁ」
明島くんは子ザルのそばにしゃがんで、毛繕いみたいに春ちゃんの頭に付いた藻をとってやっていた。赤い上靴もズボンの裾も、濡れている。プールの水は塩素入りだし、あんまり放っておくと脱色するんじゃなかろうか。白のセーラーはいいとして、春ちゃんのえんじのスカーフと紺色スカートが心配だ。
滑り防止の凹凸が利いたプールサイドを歩いて、春ちゃんの上靴と靴下をとってくる。太陽がまぶしい。スカートが熱を持つ。
しゃがんだままの明島くんは日に背を向けて、春ちゃんを自分の影の中に入れてやっている。
春ちゃんは無防備に目を閉じている。髪の毛から生まれた滴が、春ちゃんの頬を伝う。明島くんの指は滴を追おうとして、ためらうように止まった。
ため息さえ許さずに唇を結びなおし、宙に浮いた指先は、春ちゃんの頬に触れそうで触れない。
風が明島くんの前髪を揺らし、春ちゃんを見守る目を、あらわにする。
自制というには痛々しく、優しいという形容では足りない、切ない目。
想いが自分に向かないことを承知で、明島くんは春ちゃんのそばにいる。
「幼なじみ」なんて、簡単にくくれるものじゃない。こんな想い抱えてるの、いつから……?
赤い上靴を春ちゃんの足下に置く。ゴム底とコンクリートの反発する小さな音に、明島くんが顔を上げた。
逆光。
ふわりと笑う口元が、光の中に見えた。
「協力、してくれようとしたと思っていいの?」
え。
落ち着いたらこのひと明島くんだって思って、頭真っ白で言葉が出てこない。
協力……。
春ちゃんが明島くんの気持ちに気づけばいいって、思った、けど。
逆に怒らせたよね? かえって明島くんの株を下げた、ような。
うう。
突っ立ってたら、仰向けに寝ころんだ子ザルが私の方に拳を突き出した。
「鈴ちゃーん……」
私は慌ててしゃがむ。子ザルの拳の下に手を出すと、濡れた五円玉が落ちてきた。三枚。
……ほんとに、倍以上になって返ってきた……。
「うぇ。アキぃ、コレで全部だろうね?」
塩素の味がするのか、子ザルは口を変な風に動かしている。明島くんに「さあねぇ」とかわされて繰り出したパンチは、力無くプールサイドに落ちた。
子ザルは再び目を閉じる。日焼け対策をしていない腕や首筋が熱を帯びていく中、明島くんは変わらず、子ザルの日陰を守ってそこにいた。
しばらくして子ザルの息も整ったころ、明島くんは手についた藻を払って立ち上がった。
「ほら、さっさと塩素落として退散するぞ」
子ザルを屋外シャワーの下に追いやって、元栓をひねった。勢いよく落ちてくる冷水に子ザルが悲鳴を上げるけれど、コンクリートに弾ける水音に邪魔されて、何を言っているのか聞こえない。
足踏みしながらシャワーを浴びる子ザルの様子に、明島くんは笑う。
頭上のシャワーを指さして抗議する子ザルに訳知り顔で頷いて、そのくせ、手元のコックを回して水量をふやしていた。
すごく楽しそうな笑顔。春ちゃんといるときだけの顔。
切ないのも嬉しいのも、春ちゃんといるときだけ。
「こいつこんな風だからさ。当分は無理だろうけど」
いろいろ、省略して。隣の私にだけわかるように、言った。
「オレ、夏樹には追いつくつもりでいるから。だから……ごめん、ね」
とっくの昔に決めたんだと、そういう顔で、頭を下げた。
ああ、なんかもう。
見破られてるの、とか。
なにもかも、敵わない。
そう思ったらちょっと泣けて、ちょっと、笑えた。
「夏樹さんって、もしかして、明島くんのお姉さん?」
放課後の教室。プールの一件から一週間が過ぎた、金曜日。子ザルが楽しみにしてる、合気道の日。
聞いてみたら、明島くんはため息をついた。
「鈴本さん、ほんと頭イイよね。あの場でなんで気づくのかな」
明島くんは委員会に呼び出された春ちゃんを待っていて、私は自分の席で英語のノートを広げていた。いつもと違って、ちゃんと顔を上げていた。
だって、なんだか。
カッコイイっていうフィルターを除けば、明島くん、普通の男の子で。近づくとドキドキするのはやっぱりそうなんだけど、指は震えなくなった。まともな会話、できた。
「だって、春ちゃんお下がりって言ったんだよ。スカート、夏樹さんのお下がりじゃないから心配しないで、って」
春ちゃんがお下がりをもらうような人。春ちゃんの幼馴染み。明島くんが呼び捨てにするような人。これだけ揃ったら、ねぇ。女みたいな名前だと思ってたけど、ほんとうに女の人だなんて。ちょーカッコイーんだよ、って嬉しそうに笑った春ちゃんの顔を思い出す。そりゃ、首も傾げるよね。恋なのかよくわかんないよね。……それでも、好きなんだろうな。
私はシャーペンの先を机にぶつけて芯をしまう。
「あー、馬鹿だからねハルは」
苦笑してる明島くんの隣に並んだ。窓際、グラウンドが見える位置。
ほんとうはきっと、全然、馬鹿だなんて思ってない。春ちゃんができるの知ってるからテストのハンデも譲らない。負けるの怖がって譲れないんだ。かわいいな。
私は窓から身を乗り出した。相変わらず届かずに跳んでる小さなキーパー、見ながら。
「夏樹さん、相当、カッコイイ人なんだね。がんばってね」
応援、してみた。
明島くんは頷いた。教室の時計を見上げる、そんな仕草も、よく撮れた写真のように決めてしまう人。……だけど、もう、いいんだ。
「もうっ、帰るッ! 遅れるッ!」
半泣きで子ザルが教室に駆け込んできた。
明島くんは慣れた手つきで春ちゃんに胴着袋を放る。
じゃ、って爽やかに挨拶したその顔で、
「桃井、オレらと同じ西小出身だよ」
ささやいて、駆けてった。春ちゃんのカバンは持ってやったまま。やっぱり紳士だ。
一人残った教室で私はなんのこっちゃと考えこみ、明島くんに褒められたからにはこの頭脳で解かねばなるまいと……、西小?
日差しの中を、野球部もサッカー部も遠慮なく横切って、グラウンドを駆けていく二人が見えた。カバン二つと胴着袋持った明島くん、胴着袋一つの春ちゃんと並んで、走ってた。
西小学校の校区はグラウンド側。裏門から帰るのが近道。
桃井くん、西小って、ことは。
「……馬鹿じゃん、ねぇ……」
呟いて、バッタみたいな小さなキーパー眺めて、私は英語の予習に取りかかった。
ふんふん鼻歌歌いながら、単語を調べていった。
カチャカチャ、スパイクの音がして。
体がこわばった。線からはみ出たアルファベットを新しい消しゴムで消した。
ドアを開けた桃井くん、びっくりしてた。ばっちり目が合って心臓がはねた。
筆箱、片付けて。数学のワークをカバンに入れて。
帰りの準備完了させて、待った。
桃井くんが着替え終わるの、待った。着替え見るわけにいかなくて、黒板のほう向いて待ってた、けど。
私に目もくれず、桃井くんは教室から出ていこうとする。
ちょっとは覚悟してたけど。
涙が出そうになって、でもそんな場合じゃないんだと追いかけた。教室を出るとき、パチンと消灯するのは忘れずに。
廊下ですぐに追いついて、でも並べなくて、後ろについて歩いた。
声、かけたくて。かけられなくて。ごめんねって言いたかったのに。
置いて帰ってごめん。ずっと避けててごめん。
……言うんだ、って顔を上げた。そしたら。
「……スズモト、帰りそこねた? 英語の予習、難しくて夢中になった?」
振り向かないまま、桃井くんが言った。
「オレと帰るのヤでしょ?」
馬鹿じゃない口調で。私にアルファベットから教わってた人とは別人の口調で。
歩くの速い。
追いかけて、追いついて、離されて、追いかけて。階段につくまでそんなことを繰り返した。
今まで合わせてくれてたんだって、気づいてなくて。
気づかなくて、なんにも気づかない振りして、理由探して隣にいた。
楽しかったのに。教えるのも話すのも、楽しかったのに、自分から切った。
三階から二階に変わる踊り場で、桃井くんは立ち止まった。振り返って、一段上の私を見上げた。トゲが刺さったときよりも、もっとずっと痛そうな、顔で。
「見張り、戻ってきたらいなくて泣けた」
ごめん、が、言えなくて立ちすくむ。
桃井くんは私を見てもうなんにも言わないで歩き出す。行ってしまう。
背中見送るの、もう嫌で。
いい加減ちゃんと、引き留めたくて。
明島くんのこと応援できたみたいに。
言葉、声に出して、ごめん、って。
言いたいこといつも言えなくて、こんな時にまで、声、出なくなる。
待って。
念じたって無理だって、ちゃんと言わなきゃ無理だって、わかってるのに。
……ミルキー。
テストの賭け、負けたときのために持ってきてた、春ちゃん用のミルキー、たしかそのまま。
カバンの中、探した。
薄暗くて見えなくて、手探りでようやくひとつ見つけた。
走って、正門から出ようとする桃井くんに追いついて、並べなくて、でも。
体育で一番嫌いなリレーの、バトンタッチの時、より。
ずっと緊張して、ずっと必死で、ミルキー、桃井くんの手に押しつけた。
「……ごめ……」
聞こえてないと思った。周り中騒がしくて、モモって呼びかける人がたくさんいて。
桃井くん、呼ばれても笑わなかった。挨拶返さなかった。
ミルキーごと私の手を掴んで、道路を渡った。
ミルキー、そろそろ、溶ける。
一度涙が出たら止まらなくて、右手は桃井くんにつながれたままで、カバンをぶら下げた左手だけで涙を拭ってた。夏、だけど。
「……桃井く」
鼻水が出るからティッシュとりたい。なんて情けないことを言えなくて、名前だけ呼んだ。怖い顔をして振り返った桃井くんは、涙でぐしょぐしょの私を見てようやく手を離した。じっと見てるから、そっぽ向いてスカートのポケットからティッシュを取り出す。鼻、かんだら落ち着いて、だけどどうにもカッコがつかない。
いつかの桃井くんみたいに唸ったら、ようやく少しだけ桃井くんが笑った。
「オレ、ねぇ」
ふらふら、歩きながら。
「二倍になったよ点数。すごくね?」
え。
……それは、すごい。
その、簡単に二倍になるような、以前の点数……いくつだったの一体。
「そこ、過去のことは考えないっ!」
振り向きざま額にチョップをくらってびっくりした。うわ、男の子だ。
「それでも、ぜんぜん、足りないけどさ……。ぜんぜん、追いついてないけど……」
いきなりテンション戻して元気がない様子でそう言って、私の顔を見た。
え、でも、帰り道クイズしたくらいで追いつかれちゃ、私もショック、なんだけど。
それが顔に出たのか、桃井くんは石を蹴って、「わかってないなぁ」と言った。
それきり話す気はないようで、石と遊びながら進んでいく。
何度も、置いて帰ったのに。
ミルキーひとつでまた一緒に帰ってくれるぐらい、桃井くんは優しい。
みんなにかわいがられている人だから、誰にでも優しい。誰にでも笑う。誰のことでも許す、きっと。それとも、逆? 誰にでも優しいからみんなに好かれる?
私、は……。
カバンのヒモを握った。バカの一つ覚えみたいに、勉強しか取り柄なくて。
走れなくて笑えない。
「……同情、した?」
数学のワークと同じ。あらかじめ決まった答えを、確認した。
聞こえないならいい。答えなくていい。
わかってるから、いい。
桃井くんが蹴り飛ばした石は、歩道橋にぶつかって跳ね返った。
カバンをしょった背中が振り返る。
問いかける目に、心臓が痛んだ。
静かに吸い込んだ空気までもが、鋭く胸を刺す。
期待するな自惚れるなと言い聞かせて、目を伏せた。
「一人で残って勉強してるのかわいそうだって思った? だから一緒に帰ろうって言った?」
休み時間に一人でいるのもかわいそうだって思った?
春ちゃんとぐらいしかしゃべんなくて暗くて、思ったこと言えない、そういうのかわいそうだって思った?
「……なに、そんなヒクツんなってんの」
びっくりした顔。そういう素直な反応、私にはできない。
背、変わらない。
同じぐらいしか生きてない。
それなのに、なんでこんなにちがう?
どこでこんなに差がついた?
誰にでも好かれるのと、誰かを好きになるしかないの。
放っておいても手にはいるのと、自分からじゃなきゃ何もつかめないの。
どうしてこんな。
「同情って、意味わかんねぇよ。なんで同情……お前、頭イイじゃんか。なんでオレが同情すんだよ」
だって。
だって、桃井くんは。
「……誰に、でも、優しいじゃん。私にも、どうせ」
どうせ、ただちょっと、声かけただけで。
おさまってた涙がまたでてくる。
「……泣くなよ」
情けない顔をして、桃井くんがポケットを探す。
うぅハンカチないゴメン、って謝ったあと、
「お前それ……誰にでも優しいのは、アキシマだろ」
言いたくない、って風にぼそっと。
「スズモト、アキシマ好きじゃんか。……オレ、あんな成績いいやつになんか、ぜんぜん、追いつけない。スズモトにももちろん、だけど、その前にアキシマ、追いこさなきゃって、思う、けど、そんなの無理だし。……だけどオレ、だれとでも一緒に帰ったりしない」
あーもう、って、さっき跳ね返った石をまた蹴った。ぶつかって、今度は届かないところにとんでいった。
「……だいいち、オレ、サッカー部だぞ」
ゆっくり、歩道橋を登る。私が後ろから付いてくるのを時々確認しながら、桃井くんは前を歩いていく。私はまだ、並べない。
「……知ってる」
答えたら、桃井くんは、うん知っといて、って頷いて、
「キーパー、だけど、ランニングはみんなと一緒にあるし。雨の日は階段のぼりあるし、キツイんだからな練習」
「……うん」
相づち、うつだけで。気の利いたこと言えない。
桃井くんは歩道橋についてる明かりを見上げて、それから少しだけ、振り向いて。
「腹、減るんだよ。帰り。だから、だれにでもホイホイやれないの食糧は。スズモトだから、あげたの。わかる?」
まじめな顔でそう言って、「わかって」って自信なさそうに付け加えた。
桃井くんがあんまりにも歩調を落とすから、歩道橋の上でとうとう並んだ。
「……でも」
でも。
何で私、なんだろう。ハンカチを握った。
今までろくに話したこともなくて、見かけがいいわけでもない。自信なんかない。
「……なんで」
訊いたら、桃井くんはそっぽ向いてしまった。歩道橋の階段を下りるところまで歩いて、ぼそっと、
「……カッコ良かったんだよ」
え。
「……私、体育ダメだけど。五十メートル、九秒……」
「ちがくて! テストの後っ!」
吠えられる。
「成績、上のやつらはさぁ……。ほんの何点かの差で勝負してるじゃん」
それは……そう、だけど。あと五点もあれば一位だったのにって、そんなことばっかりだったけど。
「スズモトがコレ間違いですって先生に言うの、点が惜しくないからだって言うヤツも、いるけど。そんなわけないじゃん。オレらよりよっぽど、三点とか大事なはずなのに、普通に、ちゃんと自分から訂正行ってるだろ。そういうの、カッコイイ、と、思うっ」
言ったそばから自分で照れて、桃井くん、逃亡。いや待て。念じたら、歩道橋の下で待ってた。犬みたい……。
「だったら、あの、ね」
歩道橋、最後の一段を降りて、言ってみる。
たった一言で、世界は明るくて。
かかえてるいろんなこと、あっという間に払いのけるそんな力が、あるんだって。
知った。
「今度、夏休み明けの実力テスト、勝負、しようよ」
「だからそういうの無理。まだ、無理」
桃井くんは顔をしかめた。
私は頭をフル回転させる。一教科十五……二十点ずつぐらいの差ならまともに張り合えるだろうか。私が九十点ちょいとるとして……。実力テストは範囲が広いから、期末よりキビシイ。帰り道クイズで二倍になったってことは、桃井くん、今で六十点ぐらいだろうから、夏休み中に相当がんばってもらうとして。
「ハンデ、百点あげるから。負けた方が一週間、カバン持ちしよう。どう?」
手だとか頭だとか、いろんなところが震えるのを無視してにっこり笑ってから、この意味がこの人にわかるだろうか伝わるだろうかと、少しだけ、心配になった。
それからしばらく、歩いた。大通りに出て家の明かりが見えたところで、付け加えてみる。
「さっきの賭け、私が負けたら裏門から帰るよ。えっと、その、ね」
いつもここで別れる。じゃオレもうちょいだからって、桃井くんここで行っちゃう、けど。
ほんとは、桃井くん、もうちょいどころじゃなくて。だから。
「その……、送ってくれてありがとう」
言ったら、桃井くんびっくりしてた。
「……え、オレ……、言った、っけ?」
ほんとは近所じゃないって。西小の校区だから逆方向だって。
「言わないけど、なんとなく……わかるし」
ごまかしたら、桃井くんは目を輝かせた。うわ、って感嘆詞つきで。
「やっぱすげーなスズモト!」
ああ、どうなのかな、こんな単純な人だけど、大丈夫かな。
伝わってるのかな言いたかったこと。
私の心配をよそに、桃井くんは、にこにこして手を振った。
「また明日な!」
それ、今まで使ったことのない、挨拶で。
心臓がはねた。天ぷらにしたいぐらいイキ良く、はねた。
私、なんでも教えるよ。成績、そのうち三倍にしてあげるから。
話すの苦手でも話すよ。相づちうつよ。なんでも言うよ。
正門からでも裏門からでもいいから、一緒に。
明日も明後日も、ずっとずっと。
心臓が痛くてとてもこんな長いセリフ言えなくて、それでも桃井くんが聞こえるところにいるうちに伝えたくて。
ずっとつながる第一歩、それだけでも。
精一杯で、言いたいこと言うのってなんでこんなに苦しいのかなって思いながら。
「また、ね!」
手を振り返した。
照れた桃井くん、嬉しそうに夜道を走っていった。
その背中が角を曲がるまで、ずっと、見てた。見えなくなって泣けた。
最近どうも泣いてばかりで、だけど今回ばかりはうれし涙かもしれなくて。
うん。だから。
また、明日。
今度こそ約束して。待ち合わせして、一緒に。
一緒に、帰ろう。