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第3話

 あっという間に期末テストが来て、昨日と今日の二日間で終わった。解いた感触がどの教科も今までより少しずつ良かった。英語のつづりも試験中にeだっけaだっけと迷うことがなくて、これはいけるかもしれないと思った。今度こそ、勝てるかもしれない。

 テストは午前中で終わるから給食がなくて、四時間目のあと、すぐに掃除とホームルームがあった。

 泉先生の間延びした挨拶を合図に、教室からあっという間に人が減っていく。

 掃除したての教室は、机が床の木目に沿ってきちんと並んでいて気持ちがいい。陽の差す明るい教室で、今日はどれをやろうかと迷う。だけどどの授業もテスト範囲で授業が止まっていて、やっぱり英語の予習ぐらいしかやることがない。数学の予習はしない主義だ。お弁当も持ってきていないし、明後日のノートまで作ったら帰ろうと決める。

 シャーペンをノックするたびに鳴るバネの音が、親指にかかる軽い衝撃が、耳に心によく響く。

 定規で線を引いているうちに誰もいなくなって、それから少ししてドアから女の子が顔を出した。気の強そうな目で教室の中を眺めてるから、また明島くん関係かと思った。

 春ちゃんならもう帰ったよ。言おうとしたら、その子の後ろから二人、顔を出した。小さい子と大きい子。見たことのない顔だ。

「あの人?」

「うん」

 彼女たちの小声の会話は筒抜けだ。

 無視して英単語を調べていると、三人が近寄ってきた。私は辞書に指を挟んだまま顔を上げた。大きい子に背中を押されて、一歩前に出た一番小さい子が息を吸い込む。

「テ、テツ先輩のカノジョってほんとですか!?」

 ……は?

 一番小さい子は精一杯な様子で、聞き返してもすぐには答えてくれなさそうだったから、後ろで控えてる大きめの二人に、どういうことかと目で返した。

 返された二人も目を瞠る。私の視線の意味を取り損ねた様子だった。

 両サイド疑問を交わしあったところで、まったく話がわからない。

 調べかけた英単語が気になる。三人が沈黙している間にページをめくった。見つけだした単語の、熟語の項をたどる。for example……たとえば。

 小さい子がキッと目を上げたのが、視界の端に映った。私はまた顔を上げる。シャーペンを持って、ノートに書き込む準備を完了させた。

「一緒に帰ってるってウワサ、ほんとですかっ」

 しばし思考が止まる。

 えっと。

 一緒に帰ってるって、心当たり、一人しかいないんだけど。

 テツって名前なの、あの人?

 小さいって言っても私座ってるし相手立ってるし、見下ろされてちょっと嫌。

 シャーペンを回したら、その子は怯えるような反応をした。ああ、上履きが青い。一年生だ。

 ……なんかこの状況、見たことあるぞ。

 キッパリハッキリ言わないと泥沼になる、例のあれ。

 きっぱり。頭の中でセリフを復唱して、よしこれならと声にだす。

「クラスの男子の名前なんかいちいち知らないんだけど。桃井くんのこと?」

 親しくないことを強調しつつ確認したら、三人同時に頷いた。後ろの二人が、この人やっぱりちがうんじゃないの、という目をしている。そりゃ、彼氏の名前知らない彼女なんかいないわな。作戦成功、わかってくれたか。

 小さい子、じっと私を見た。

「私、見たんですけど。偶然一緒に帰っただけですか。毎日一緒ってデマですか」

 デマ……じゃない、けど、別に待ち合わせもしていない。私、何度も無断で先に帰ったし。ここ一ヶ月ぐらい、一緒で……テスト前も大会近いからって桃井くん部活してたから一緒で……、偶然、でもないけど……。

 なんて言ったらいいんだろうこれ。

 なんで一緒に帰ってたんだっけ?

 あ。

「変質者」

 とっさに単語で言ったら三人の顔が引きつった。

 あー、人見知りするからいきなりしゃべろうとしたって上手く言葉なんか出てこないんだよ。下級生なぶんだけ心に余裕が、ってそんな卑屈なことをあっさり認識してる時点でちょっとアガッてて。

 だからえっと。

「……変質者、出て。ちょっと前に。それで、危ないから近所の友達と帰れって泉先生がね?」

 言ったそばから後悔した。この言い方じゃ桃井くんに送ってもらってたみたいだ。

 小さい子が口を開く前に慌てて付け加えた。

「襲われたの男子だったから桃井くん怖いらしくて一緒に帰ってよって頼まれて、それで。私、下校時間まで勉強してるし」

 あ、なんか、言えたなぁ。これでどうですか。

 三人を見上げたら、小さい子が声を震わせた。

「頼まれて、ですか」

 そう真っ直ぐじっと見られると自信ないけど。頼まれた、と思う。だって私から帰ろうって言うわけないし。帰ろうって、ちょっとやそっと言われたって断るし。

 おもしろい話できない。人と話すの苦手。

 改めて認識すると落ち込むけど、そう考えると、よく一緒に帰れたものだ。

 桃井くん、アルファベットのnとm、lとrの区別も付いてなくて、各県の名産なんて知らなくて。英単語とか顕微鏡各部の名称とか違いとか、こんこんと教えてるうちに家についた。私の家の前の通りまできて、オレの家もうちょいだから、って別れた。教えることたくさんあって、話題を探さなくてよかった。たまに私が黙ってても、桃井くん勝手に一人で部活のこととかしゃべってたし。

 後ろの二人が教室の時計を気にしていた。

 小さい子も時計を見て、それでも諦めきれないみたいに私を睨んだ。

「テツ先輩は! みんなに優しいんですっ! 変な人いて女の子一人だったら送りますっ! それくらいで自惚れるなっ!」

 捨てゼリフは、タメ語で。走って教室から出ていった。

 いや、だから……。送ってもらった覚えないし。

 そもそも桃井くんのどこらへんを指して優しいと言っているのか、わからずに首を傾げた。

 英語の予習を済ませ、今日中にやっておくべきことはもうないことを確認して、教科書ノート、全部机に突っ込む。筆箱も使わないから置いていく。

 席替えをしたせいで座ったままじゃプール裏が見えない。立ち上がって、確認した。誰もいない。

 木下さんと別れてから、明島くんはしばらく誰ともつき合っていなかった。

 ここ最近、教室の窓から、女の子たちの告白を断る明島くんを三度見た。明島くんにしては珍しく断ってばっかりで、いつも、女の子の去ったプール裏でフェンス越しに何かを投げていた。厄よけしてるのかなぁという考えぐらいしか浮かばない。葬式帰りに塩撒く、みたいな。でもそれってひどすぎるよね……。

 春ちゃんは知らないと言うし、明島くんに直接聞けるほど接点もない。五円玉を貸して以来、明島くんは私を見かけると挨拶してくれるけど、それだけだ。共通の話題もなく、話はできずにいた。会釈だけの関係。消費税のつながり。

 何も入ってない軽いカバンを肩に掛ける。

 桃井くんの制服が、うしろの机に丸めて置いてあった。いつだったか、三年生が多くて部室に入りきれないのだと言っていた。桃井くんの口調だと、そんな話も愚痴にならない。いつも、嫌なことなんかないんじゃないかと思うくらい脳天気だ。今だって、シワが定着しつつあるシャツのことなんか考えちゃいないんだろう。ズボンのシワはタチが悪いと思うけど、ここで手を出したら変態になるから畳んでやらない。

 教室の前方の窓からはプール、後方からはグラウンドが見える。

 グラウンドでサッカー部が練習しているのは知っていた。仲のいい誰かがいるってわけでもないし、今まで見たことはなかったけど。

 何の気もなしに窓枠に頬杖付いた。

 白く太陽が反射する土の上で、野球部、テニス部、サッカー部、必死。

 暑いのによくやるわと感心したところで、見つけた。

 あんまり目がよくないからイマイチ自信ないんだけど、サッカーゴールの前で跳んでいる小さなキーパー、あれが桃井くんではなかろうか。うーん……、たぶん、桃井くん。

 ゴールの前で、一人がパスを出して一人がシュート。桃井くんがボールを……とれてない。

 一回りサイズの大きい部員たちが蹴るボールはみんなゴールの上の方に集中していて、桃井くんは跳んでも跳んでも届いていなかった。それが数回続き、私がイジメを心配したところで、桃井くんが身振り手振りで抗議した。上の方に蹴った一人が笑って桃井くんの背中を叩く。こう、こう、というようにゴール前で跳んで見せて、桃井くんが真似して跳んで、もうちょい、ってまた跳ばされてる。もうちょい。前に出て。もうちょい。うん。そうそう。

 じゃいくぞってジェスチャをして、教えてた人が離れると、シュートはあちこちに散らばった。左、右、隅……横に来るやつ、ちゃんと取れてた。それでも上だけ取れなくて、何度も跳んでた。もうちょっと、なのに。

 笛が鳴って、桃井くんはゴールから離れる。走った先には女の子がいた。桃井くんよりも小さい、マネージャーらしきその子は、さっきの一年生だった。桃井くんは飲み物を受け取って笑った。三年生らしき人に小突かれて、誰かの背中に逃げ込んで、別の人に体当たりされてやり返し、周りの人から声かけられて、笑ってた。笑ってばっかりだった。

 囲まれて、楽しそうで嬉しそう。

 ああ。

 そうか。

 ずっと心の奥にあって敢えて言わなかったこと、納得した。

 春ちゃんも、そう、なんだけど。

 なんで私にかまうんだろうってたまに思うんだけど。

 かまってるわけじゃないんだ。

 私に笑うわけじゃ、なくて。

 みんなに笑う人だから、私にも、笑うんだ。

 そうじゃなきゃ一緒に帰ったりしない。

 あの子が言ってた優しいって意味が、すとんと胸に落ちた。

 どうでもいいひとともちゃんと話せるって、そういうこと……。



 授業がいつも通りに戻った水曜日、帰りのホームルームで泉先生が、例の変質者が捕まったと言った。

 放課後、社会のノートに赤いシートをかぶせて重要語句を覚えながら、考えていた。

 どうしよう。

 どうしよう……今日も、一緒に帰る気かな。

 変質者、捕まったって。

 そしたらもう、一緒に帰る理由なんかない。

 危ないから、ってそんな風に頼まれたけど、でも、もう危なくないじゃん。

 どうしよう。ノルマが終わらない。数学のワークもしたい。さっさと終わらせて、全部置いて帰りたい。

 気が散る。いつもは車の騒音ぐらいにしか思っていない、グラウンドの掛け声、甲高い笛の音、セミの声、うるさい。

 うるさい。

 手が震えた。

 立ち上がって、窓を、全部閉めた。

 風が通らない。暑い。早く終わらせて帰りたい。

 早く。焦ったら覚えられない。……早く。

 数学のワーク、まだ慣れていない新しい単元の問題を、ハイスピードで解いた。計算ミスが怖い。けど、そんなこと言ってる場合じゃなくて。

 教室の時計を見上げる。六時四十五分。こんな時間に時計を見たことなんかなかった。いつも、駆け込んでくるスパイクの音を合図に帰りの準備してたから。

 なんだっけ、今日中に終わらせないといけないもの、持って帰らないと。

 理科のワークをカバンに突っ込む。ワークするなら教科書とノート、筆箱と下敷きも。

 慌てたら筆箱が下に落ちて、中身が散らばった。しゃがむ。拾う。消しゴム、見つからない。もういい。

 筆箱の口が開いたまま、カバンに放り込んだ。きっと中でぐちゃぐちゃだ。

 消灯はこれから来る人に任せることにして、急いで教室を出た。

 体育の成績、悪い。おとなしく真面目にやってれば点取れる音楽や美術、テストが良ければいい家庭科、先生に気に入られてる技術と違う。走るの遅い。ジャンプ力ない。ボールなんか触りたくない。

 それでも走ったのに。会う前に帰るんだって走ったのに。

 階段を降りる途中で、登ってくる桃井くんと鉢合わせた。三階から二階に変わる途中、階段の壁が邪魔で気づかなかった。今更ルート変更したって無駄だった。私も桃井くんも、立ち止まった。

「お?」

 桃井くんは脳天気に私を見上げて、それから私のカバンに目をやった。

「急ぐの? なんか用事?」

 答えられない。

 なに、今日も一人が怖いの、ってバカにして笑えない。

 変質者捕まって、もう理由ないよ。

 肩に掛けたカバンの、丈夫だけが取り柄のヒモを強く握っていた。

 答えられなくて。

「昨日もいなかったけど……。スズモト?」

 一段下から、顔、のぞき込まれて。

 固まってた。

 戸惑った顔で様子を窺っていた桃井くんが、ジャージのポケットに手を入れた。

「これさ、先輩にもらったんだけど、いる?」

 差し出されたハイチュウ。私が動かなかったら、桃井くんは慌てた。

「あの、もう一個あるけど。ちがう味だと思うけど。こっちはマネージャーからもらったやつで」

 逆側のポケットから、もうひとつ出した。ふたつ、同じ白い紙に包まれて、桃井くんの手の上でどっちがどっちだかわからなくなっていた。

 無視して進むはずの一歩が踏み出せなかった。体中固まってて、無理に階段降りようとしたら踏み外しそうだった。

 桃井くんは困った顔をして、ハイチュウを手すりの上に置いた。

「オレ、急いで着替えてくるから。スズモト、これの見張りしてて?」

 やだよ。

 一緒に帰るのやだよ。

 顔に出そうとして、でもその顔さえ動かなかった。突っ立ってた。

 桃井くんはダッシュで階段を上っていって、がちゃがちゃ、いつもより騒がしいスパイクの音が遠ざかって、私は踊り場でハイチュウを見てた。

 こんなところに、置いてたら。

 見回りの先生が来たときに絶対見つかる。

 誰だって怒られて、学年集会になって、持ち物検査、あるかもしれない。

 それでも……。

 一緒に帰るの、嫌で。

 カノジョじゃない。幼馴染みじゃない。きっと友達でもない。

 おもしろい話なんかできないし適当な相づちしかうてない。

 勉強しかできなくて、その勉強だって一番になれない。

 誰にでも笑う人に笑われたって、そんなの……。

 ゆっくり、階段を下りた。ハイチュウ置き去りにして、階段を下りていった。



 金曜日、テストの結果が出そろった。相変わらず多発する採点ミスにげんなりして、それでも過去最高点だった。春ちゃんにアメ七つ分勝った。自分の点数を売ったら、明島くんに二点勝ったことが判明した。

 きっと、桃井くんを鍛えたおかげだ。帰り道クイズは復習に最適だった。……もう二度と、することはないんだけど。

「あぁちょっと、もう、急ぐのにっ!」

 合気道の胴着袋を小脇に抱えて、子ザルが地団駄踏んでいる。私はノートを広げて、

「ぱぱっと行って来なよ、せめてちゃんと断らないと。ね?」

「だって、鈴ちゃん! なんで今日なのさ!」

 子ザルはキーキー騒がしい。

「ほら、そんなこと言ってる間に行ってくれば済むから」

「うー。うー。アキがきたら先行っとけって伝えてくれる?」

「うん。伝えとく」

 帰り支度の済んだカバンと胴着袋を手近な机に置いて、子ザルは駆けていった。

 子ザルは子ザルで、人気あるからなぁ。

 この席からはプール裏が見えない。

 親友を覗き見するのはやめて、英語のノート作りに集中することにする。六時半に教室を出れば桃井くんに会うことはない。時間が減るぶん、朝早く来て勉強することにしたから大丈夫。

 ノートに境界線を引いたところで、明島くんが顔を出した。

 違うクラスに入るのに、ためらいなんかなくて。

 受け入れられてるって思うから、なのかな。私にはとうていできない。ノートから顔を上げられない。

「春ちゃん用あるから先に行ってって」

 早口になる。明島くんは放り出された春ちゃんのカバンをはたいた。いつも春ちゃんにするのと同じように、軽く、優しく。

 明島くんが椅子を引く音に、全神経が反応する。視界が動かない。私の前にはノートだけ。私には勉強だけ。

 明島くんは、机に座ったりしない。机いくつか隔てて、椅子に座って……どこを、見てるだろう。わからない。目を上げられない。

「用事って、委員会じゃないよね?」

 息が詰まる。

 気にしてるの、そんな風に、目の当たりにしたら。

 こわばった手を動かして、もう一つ境界線を引こうとノートの上で定規を滑らせた。椅子が動く音。

 明島くんの赤い上靴が近づいてくる。近い距離で止まる。見下ろされて、指先が震える。

「用って、なに?」

 訊いてくる声、優しくない。

「委員会じゃなくて金曜日にハルがいないってのは、よっぽど……馬鹿な女子に呼び出されたか馬鹿な男に呼び出されたか、ぐらいだし」

 冷めた調子。

 シャーペンの芯を定規に当てた。歪まないように一気に、線を引く。

 ねぇ。

 私、四百八十二だったんだよ。勝ったんだよ。

 そのこと知ってる? 人の点数なんか気にしたことある?

 春ちゃん以外の人のこと、こんな風に訊いたこと、ある?

「鈴本さん?」

 訊かれて、何も言えない。言いたいこと、何一つ。

 言えなくて。

「プール裏、に……相手は、知らない……」

 答えた。

「そう」

 頷いたきり、明島くんは黙った。

 不機嫌な空気。赤い上靴は動かない。

 ただ、見下ろされていた。

 教室には、見慣れた光景。西日と影。明島くんと、誰か。

 明島くんの前に現れては消える、誰か。それが今は、私。

 嫌だった。嫌で嫌で、嫌で……。

 私のこと、見て欲しくて。

 ちゃんと私のこと……。

 どうして、だって、春ちゃん、好きな人いるのに。

 明島くんじゃ、ないんだよ。

「……無理、だよね」

呟いた。立ち上がって窓際に寄って、そこから見えるプール裏を指さした。

 小さく見える人影、春ちゃんと、誰か。

「春ちゃん好きな人いるのに告白なんて、無駄だよね」

 明島くんが隣に並ぶ。私の目線で見えるのは白いシャツ。背、高い。

「六組の……、坪井か」

 窓から身を乗り出して、明島くんが確認した。

 私は繰り返す。

「春ちゃんに告白したって無駄だよ」

 明島くんだって、無理なんだよ。

 だから春ちゃん見るのやめてよ。諦めてよ。

「ああ、鈴本さん、知ってるんだ?」

 振り返った明島くんが柔らかい目をした。私のこと、信用した。春ちゃんが恋心打ち明ける親友って、そんな風に。

「ハルさぁ……、うん……、夏樹のこと本気だから」

 上の窓枠に手をかけて、こつんと頭をぶつけて、無表情。

「無理なんだよね、オレが……どれだけ、かまっても……」

 春ちゃん、誰も知らないんだよって、言ってた。

 好きな人のこと、内緒だよって。

 ……明島くんには、言ってた?

 私は聞けなかった。それでも、明島くんは私を見て苦笑した。

「見てれば、わかるよ。……夏樹はカッコイイからな」

 浅い息を吐いて、プール裏に目をやって、

「ここから、ほんとよく見えるね」

 春ちゃんが突っ立ってるのも、相手がしどろもどろ身振り手振りしてるのも。

「オレは今すぐ出てって坪井ぶっ飛ばしてやりたいって思うけど。ハルは笑ってたろ?」

「……う、ん」

 ここから明島くんの姿見ても、アキはもてるねぇって、いっつも笑ってた。それだけだった。

「そっか。わかってたけど……やっぱ痛いな」

 明島くんは目を伏せる。窓から離れて、カバンから財布をとりだした。

「五円借りてたよね?」

 てのひらに五円玉を載せて、私の方に差し出す。

「返さなくて、いい、よ」

 それだけやっと言えた、のに。

「でもほら、借りたものは。ね?」

 差し出されて、逆らえなくて。

 受け取るしか、なかった。

 明島くんの手から、こっちに移ってきて。

 それで終わり。

 たった五円の繋がり、なんて……。

「下駄箱にいるって、ハルに伝えてくれる?」

 そんな一言、残して。行ってしまった。

 ……行ってしまった。



 意外に時間がかかった春ちゃん、戻ってきた。

 私は書きかけの英語のノートを前に、一ページも進めずにいた。

 伝言、伝えなきゃ。

 明島くんが待ってる。

 春ちゃんのこと、待ってる。

「春ちゃん……、」

 呼んだら、涙が出た。

「鈴ちゃん?」

 春ちゃんは慌ててしゃがんで、私と目線を合わせた。

「なんかヤなこと、あった?」

 心配、してくれる。

「……ううん、なにも」

 英語の五線譜の上に、いくつも涙がおちた。ああ、書きづらくなる。

 ああ、伝言。

 言わなきゃ。

 めがねを外して目頭を押さえたら、てのひらに張りついてた五円玉が床に転がった。それを拾った春ちゃんは、険しい顔をした。

「アキだね? あのバカ……!」

 本気で吐き捨てて、私の顔をのぞき込む。

「鈴ちゃん、なにされた? 嫌なこと言われた?」

 声にならなくて、私は首を振る。

 なにもなかった。

 なにもなくて泣いた。ハンカチ、ポケットか、カバンか。

 机に置かれた黄銅。

 ……明島くん、五円玉、借りに来てた。わざわざ春ちゃんに。

 何に? 何に使った?

 告白されたプール裏で。

「……願掛け……して、た……?」

 お賽銭みたいに、トレビの泉みたいに、プールに五円玉投げて、願い事、してた?

 女の子からの告白、断るたびに。

 次はハル来ますようにって、そう祈ってた?

「がんかけ?」

 漢字変換できていない口調で、子ザルが繰り返す。おろおろハンカチを差し出されて、ありがたく受け取った。

 私、じゃました。明島くんにはきっと、春ちゃんの五円以外いらなかっただろうに。

 じゃましてひどいこと言って傷つけて、勝手に泣いてる。

 こんなの、だめだ。

 ハンカチを目に押し当てた。

「明島くん、好きな子、いるの。その子からの告白、待ってる」

 気づいてあげて春ちゃん。

「五円玉、よく、プールに投げてたの。きっと、想いが叶いますように、って」

 涙を拭いてもまだ泣けた。それでもハンカチをどけて、きちんと春ちゃんの顔を見た。

「けど、あいつ……つき合ってる子、いるのに」

 戸惑いながらそう言って、しばらく黙ると春ちゃんは私の手をとった。

「鈴ちゃん」

 怖いくらいの真顔。

「明日学校休みだし今日のスカートは夏樹さんのお下がりじゃないから」

 ぐぐ、と手に力が入る。

「心配しないで」

 カバンと私を置き去りにして、春ちゃんはダッシュで教室を出ていった。

 え……。

 春ちゃんの言葉を反芻する。

 明島くん、木下さんと別れてからはフリー、よ、ね?

 夏樹さん……、お下がり?

 なんだかいろいろごちゃごちゃで、それでもやばいんじゃ、と思った。

 突っ走った子ザル、とめないといけない気がした。

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