第2話
水曜日の四時間目、社会の答案が返ってきて、中間テストの結果が出そろった。
うん……、だめだなこれは。
ザラ紙の答案用紙をきっちり折り曲げる。
クラス中、相手の点数を聞き出す声と自分の点の悪さを主張する声でうるさい。
悪い点を逆に自慢して開き直るのも、人よりいい点を運のせいにして謙遜するのも、醜い。
「鈴本さん総合いくつ?」
斜め後ろの席の男子が聞いてきた。
こういうことを聞いてくるのはたいていあんまり成績の良くない人で、私が答えたら答えたで、たいていヒガミとかねたみとか、一言捨てぜりふが返ってくる。
けど。
「……四百七十六」
目を伏せてそれだけ言った。
これじゃ勝てない。だから私には、あんまり良い点数じゃない。
空笑いした男子は、引きつった表情でご丁寧にも教えてくれた。
「鈴本さん二位だね。明島が四百八十一だからさぁ」
「……ふぅん」
わかってたけど。
そうか今回もだめか。
それだけ確認できれば充分。自分の点数を売った甲斐もあるってものだ。
答案用紙の端に指先を滑らせて、もう一度きっちり折り目をつける。
どうすればいいんだろう。
あと数点、どうしても追いつけない。同じクラスだった一年のころからずっと。
うーん……。
悶々としていたら授業が終わって、次の授業の教科書とノートを出したらもうすることがなかった。
後ろでは、わいわいがやがやみんなしゃっべている。
前は黒板、左は窓。角っこの席で、前を向いている限り私は人と話さない。
プールを眺めてぼんやりしているからって、友達がいないことにはならない。けど。
春ちゃんの楽しそうな声が聞こえてきて、空しくなる。
人気のある子のところには人が集まる。座ってたって、人が来る。
春ちゃんはきっと、休み時間どう過ごそうかなんて憂鬱になったことはないだろう。
この差はどこからくるのだろう。性格か、生まれつきか。
知ったところで、今更、変わらない。無駄に考えるより予習をしていた方がいい。
頬杖をついて教科書をめくった。英文を目で追っていたら肩を叩かれた。
「鈴ちゃんいくつ?」
春ちゃんだった。話しかけてくれたことにほっとする一方で、そんな自分が嫌だった。人目なんて気にしないようにしてるのに、気にせずにいようとする分、意識してる。
「四百七十六」
答えると子ザルはしばらく時間をおいて、ぱっと顔を輝かせた。
「アメみっつ!」
「ほんと? がんばったね」
三十点のハンデで、勝った点数の分だけアメ玉をもらえるという賭をしていたのだ。
ポケットからミルキーを出して、子ザルの掌に転がしてやる。持ち物検査は一昨日あったばかりだから、今日は安全だ。
「さんきゅうっ」
受け取ってしゃがみ、子ザルは私の机に突っ伏した。
「でもアキに負けたんだよぅ」
ミルキーを握りしめて、泣きまね。
「明島くんとも賭けてたの?」
「うん。二十点ハンデ」
「それは……きついね」
だって明島くん、私よりいいのに。
「あいつ全然ゆずらなくってさぁ。ケチぃんだよ」
子ザルは口をとがらせる。
悔しいのはわかったから、その手のミルキーを早くしまってほしい。
私の視線で気づいたのか、子ザルはスカートのポケットにミルキーを突っ込んで、手にしたノートを広げた。
「それで、あのね、ここの訳おしえて?」
「うん」
ノートを数ページめくり、先週予習しておいたところを開く。
春ちゃんは床に膝をついて、私の机にノートを広げて、ひとつひとつ頷きながら訳を書き込んでいく。ペンギンのイラストがプリントされたプラスチックのシャーペンが、芯の足りなさそうな軋んだ音を立てても、気にしてない。私はさりげなく訊いた。
「何、賭けてたの? 明島くんと」
「あたしが勝ったら映画オゴリで、負けたらカバン持ち一週間! せっかくタダで行けると思ったのにさぁ、もーやだー」
春ちゃんが嘆くその賭、どっちにころんでも明島くんにいい条件だ。
一瞬のデートと一週間一緒に帰る権利、天秤に掛けたら。
どっちでもいいけど、どっちかといえば後者。
ああ、明島くん、テストがいつにも増してよかったの、そのせいか。
ほんとに春ちゃんばっかり見てるんだなぁってそう思ったら、嫌な考えが浮かんだ。
もしかして、木下さんと別れたのも、そのせいなのかな。
勝つの見越して、春ちゃんと一緒に帰るのに、カノジョ、邪魔だから。
だったら最初から他の子とつき合ったりしなきゃいいのに。
思わずため息が出た、そこへ。
右のドアから入ってきた人影が視界の端っこに引っかかった。
なんで、わかっちゃうんだろう。
背がずば抜けて高いわけでもないのに。
明島くんだってわかる。遠くからでもわかる。
入り口付近でかたまってる男子の中に桃井くんを見つけて、おー桃井、おーアキシマ、って挨拶を交わしてた。ふたり、知り合い、なんだ。
仲良さそうに桃井くんと叩き合った後、明島くんがこっちに来るから動揺した。けど、目標は春ちゃんだから意味はない。
「ハル吉」
春ちゃんの頭に手を置いて、明島くんが呼ぶ。低くて優しい声。
「なに?」
子ザルは振り向きもしない。
「あたし忙しいんだよ今」
「予習してないの?」
「したけどわかんなかったの。あたし今日当たる日だからね」
二行分写すと、子ザルは明島くんの手を載せたまま上向いた。
そしたら明島くんに押さえつけられて、髪の毛がぐしゃってなって、怒ってた。
そういうじゃれあいをしてるから周りの人に誤解されるんだけど、春ちゃんはそんなの気にしてない。明島くんはわかっててやってる、たぶん。
「ハイハイごめんなさいね」
明島くんは春ちゃんの髪を手ぐしで整え、胸ポケットから出したピンクのピンで春ちゃんの前髪を留めて、笑った。
「おぉカワイイ」
冗談めかした、心からの褒め言葉。
明島くんから春ちゃんに向けられる言葉は、いつだって、私には少し痛い。
「は? ちょっと、え?」
ピンを触ってよくわかっていない春ちゃんに、私はカバンから鏡を出して渡す。春ちゃんはピンを見て、おでこにしわを寄せた。
「どうしたのこれ?」
「筒井さんがくれた」
「あー、またカワイイねとか適当なこと言ったんでしょ」
「…………」
どうやら図星らしい。
「女たらし」
冷たく決めつけた春ちゃんに、さすがの明島くんも嫌そうな顔をする。
「春ちゃん……」
小声で諫めた。だって明島くん、春ちゃんに似合うと思ってもらってきたんだろうに。
春ちゃんは少し弱気な顔になって、
「言い過ぎた。アキごめん、これありがたくもらうー」
謝るついでに机に頭をぶつけた。明島くんは大人のため息をつく。
「いいけどね。それより、五円玉借りに来たんだよ。売店でノート買うのに消費税分たりなくて」
机から頭あげた春ちゃんは首を傾げた。
「あたしお財布もってきてないよ」
「おばさん持たせてなかったっけ?」
「生徒手帳に千円あるけど。予備に」
「あー……、そか。んじゃいいわ」
背を向ける明島くんのシャツを、春ちゃんが引っ張った。
「鈴ちゃん持ってる? 貸したら倍になって返ってくるよ」
え。
振り返った明島くんと目が合った。
明島くんは、平手で子ザルの頭を張り飛ばして、苦笑いした。
「ごめんね」
何に謝ってるのかよくわからない、けど。
こっちを向いてるのが。
心臓に悪くて。
「あぁぁ、あの」
机の横に掛けたカバンに手を伸ばした。
指、震えてる。顔が上がらない。
お財布を引っぱり出してがま口を開けた。
五円玉、あった。
「あの、返さなくていい、から」
手渡せなくて机に置いたら、明島くんはびっくりした顔をして、それから笑った。
「ありがとう。今度返すね」
あとはただ背を向けて、行ってしまった。
次の週の、金曜日。放課後の教室。
今日は数学の復習。角の席で、ノートとワークと教科書を広げていた。
いつもと違うのは、春ちゃんと四組の木下さんがいること。木下さん、明島くんと付き合ってただけあってカワイイ。ちっさくて華奢で目がぱっちりしてて、いかにも女の子。スカート短め。
木下さんは私に聞かれたくないみたいだけど、ここは二組の教室だし私はここの生徒だから譲らない。
「だからぁ」
苛立った口調で、春ちゃんがいつもと同じセリフを口にする。
「あたしとアキはただの友達なんだって」
「だったらなんで一緒に帰ってるの」
「家近いんだよ。偶然」
その言い訳は余計誤解されるのでは。
案の定、木下さんは突っかかった。
「待ち合わせして帰ってるじゃない」
だよね。昨日まで、一週間ずっと。その理由を私は知っているけど。
「あれはねぇ」
春ちゃんがため息をついた。
「あれはちょっと……ワケありで」
「わけ、って?」
「ちょっと、いろいろあって」
言葉を濁す。
ちょっと、いろいろ。
本当に言葉通りなのに、木下さんは違う意味にとったらしかった。
「……どういう、こと?」
「言いたくないから」
春ちゃんの声が怒っている。木下さん、泣くかも。
もともと気の強い子じゃない。
「……アキくんのことどう思ってるの」
「友達」
春ちゃん、どうしたんだろ。
いつもはこんな、突っつけどんに答えるような子じゃないのに。
「……塚方さん、他に好きな人いるの?」
「関係ないでしょ」
無愛想の権化。
木下さんは黙ってしまって、睨み合ってるのか俯いて泣きそうなのか、背中向けてる私には見えない、けど、たぶん後者。
「友達……なら、やめてよ」
細い声。
「私は本気で好きなんだから、そういうの、やめてよ」
涙声で、必死。
それでも、苛立った春ちゃんには効かない。
「だからさ。そんなのはアキとあなたの問題でしょ。あたしに言わないでよ。だいたいあなたがしっかり捕まえとけば済むハナシじゃないの、ちがうの?」
春ちゃんのあんまりな言いぐさに、木下さんがとうとう泣き出した。
やってらんないって様子で、春ちゃんはすたすた教室を出ていく。その手に持った荷物がいつもより一つ多い。
ああ。金曜日だから。そっか。
合気道の日、なんだ。
例の、好きな人に会える時間が減ったから、だから、怒ったのか。
簡単な因数分解を一つ完成させて、くるりとシャーペンを回した。
なんだかなぁ。
春ちゃんも必死なんだって、そういうこと、なのかなぁ。
私の後ろで木下さんはずっと泣いていて、それは人ごとじゃなかった。
明島くんを好きな子、は、たくさんいて。
中にはつき合ってもらえる子もいるけど。
たいして保たない。振られる。
そういうの、わかってるのに。どうしてだろう。
明島くんには春ちゃんじゃないとだめなんだって、私はわかってる。
それなのに。
どうして好き、かなぁ。
教室の後ろで泣いている木下さんを置いて、席を立った。
廊下を走って、怒りのオーラ満開の春ちゃんに追いついて、腕を、掴んだ。
「謝りなよ」
好き、なのは一緒で。
一時期捕まえて、それでも捕まえていられないからみんな泣いてるのに。
元凶からそんな言いかたされたんじゃあんまりで。
自覚がないって言ったって、春ちゃんの責任じゃなくったって、ひどい。
ひどいと思う。
「あたし悪くないよ」
ぶすっとした春ちゃんは不機嫌で。
苛々と廊下の窓から教室の時計を見て、床を睨んでた。
だからそういう気持ちが。
木下さんも同じなんだって、いうことが。
わかってない。
「悪く、なくても。だめだよ」
わかってよ。
私も一緒なんだって、わかって、よ。
「なんで? アキのカバン持たされてただけじゃん、なんでみんな誤解すんの? バカだよ!」
「誤解じゃないよ」
すくなくとも、明島くんには。
「理由知らない人が見たらそう思うよ。だからちゃんと、言ってあげてよ」
つき合ってるんじゃないんだって。
友達としか思ってないんだ、って。
「言ったよ。言ったじゃんあたしは!」
ああ。
言った、ね。
何回も言った。
「……うん」
何度言っても足りない。
木下さんは信じない。
……春ちゃんのせいじゃない。
「そう、だね」
気づいたら涙が出た。
春ちゃんのせいじゃない、それは、余計に、どうしようもない。
力及ばず。
どうしようも、ない。
「……あの、鈴ちゃん」
子ザルがうろたえている。
「泣かないで、あの、あの、ね、あの」
しょぼんとした子ザルは消えるような声で、
「ごめん……。さっきの子に謝ってくる、ね」
教室に引き返していく。
そういう春ちゃんだから、明島くんが惚れる。
そう思ったら余計涙が出て、止まらなかった。
「スズモト!」
次の週の火曜日。ドアを開けたところで呼ばれて、このごろ馴染んできたパターン、そのまま実行した。
桃井くんはようやく学習したようで。
私の強力なシャットアウトに、カバンを使って抵抗するようになっていた。
ぶつくさ文句を言いながら潰れたカバンをはたいて、いつの間にか隣に並ぶ。背が私とあんまり変わらない。私は冷静に釘を差す。
「電気消したの?」
最近消灯ができてないから最後に教室出る人は気を付けるようになぁ。って泉先生が言っていた。消し忘れは桃井くんの責任だけど、最近って言ったら桃井くんが私を追いかけてくるころだし、私も共犯のような気がした。
「やべ」
桃井くんが隣から消える。と思ったら走って戻ってきて、階段にたどり着く前に追いつかれた。さすがサッカー部、たいして息も切らせずに、
「昨日、どうした?」
「どう、って」
「先帰ってたじゃん」
昨日は予習も復習も全部終わってやることなくなったからさっさと帰ったんだけど。
なんか、桃井くんの言い方、変。「先に」って。いや先は先、だけど。
「待ち合わせなんかしてないでしょ」
「だけどほら、ルーチンワーク? 狂うじゃん?」
泉先生の口癖、ルーチンワーク。君たち、あいさつって言うのはね、ただのルーチンワークじゃないんだよ。心込めて言わなきゃぁ。
だけど桃井くんの使い方、変。
いや、言葉通りなら、私と帰るのは日々何となくやってる惰性の習慣ってことなんだけど。桃井くん、違う意味で使ってるような気がした。
「英語苦手?」
訊いたらば、桃井くんはきょとんとした。今日の私はどうも凶暴な気分で、得意だとでも言う気かこの私の前で、と井の中の蛙丸出しの付け加えをしたくなった。もちろん実際にはしない。冷静に淡々と、桃井くんのバカ面のワケを質した。
「なに?」
「いや、なんか……普通に会話してる感じがして」
「は?」
我ながら声が冷たい。ちょっとひるんだ桃井くんはカバンを背負い直し、
「だっていっつもスズモト、うんとかすんとかしか、言わないし」
あー……、これは。
「……国語もダメなの?」
「あの。バカにしてる?」
「そう思ったから聞いただけ、だけど」
否定はせずに言ってみる。桃井くんはしかめっ面になって、
「あのねぇ、それねぇ、冗談だよあはは、って流さなきゃ友情が死ぬよ」
ああ、そう。
「死んだね、今。バイバイさよなら」
投げやりに言ったら、桃井くんはぽかんとしてそれから爆笑した。
「なに、実はそういうキャラ?」
げはげは笑いながら後ろからついてきて、
「ああそうだオレね、今日すっげーイイ動きしたんだって! 相手、川野先輩でさぁ、でもちゃんとコース読めたんだぜ! タイミングばっちりで飛んだのにあと一歩で手が届かなくってさぁ」
なんて、いつも通り自分の話をしている。
そう、とか、ふぅん、とか、私はいい加減な相づちしか打たないのに。
なんだかな。
そんなにニコニコ話されると妙な罪悪感を感じる。
ちょっともう、黙らないかなこの人。
それか、せめて私がついていけるハナシ、して欲しいんだけど。
「でね、浜名先輩が」
ひらめいて、とっさに口を挟んだ。
「浜名湖は何県」
「……けん?」
桃井くんの身振り手振りが止まる。私は割り込みが成功したことに自分でも驚きながら、平静を装って答えを促した。
「都道府県」
「え? 社会?」
「そう。今日やったところ。ウナギが名産。お茶でも有名」
「……えっと。うん、その、えっとね」
さんざんうろたえ末に、桃井くんは小さくなって「ワカリマセン」と降参した。往生際悪いなぁ。
「静岡県。お茶って出たらそこ。イグサは熊本。みかんは愛媛。パイナップルは沖縄」
有名なものを並べてみたら、桃井くんは古代の呪文を唱えるみたいに復唱して、感心してた。
その日の帰り道はずっとそんな問題を出して、桃井くんは十個に一個ぐらいしか答えられなくて、この人は授業で何を聞いていたんだろうと不思議に思った。