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第1話

「あの点数でしょ、ちょっと下がったって惜しくないのよ」

 教室のうしろから、露骨な嫉妬が飛んでくる。

「なんかムカツクぅ」

 冗談に紛らせた男子の声が、背中に張り付く。

 振り返ったりはしない。教卓の前に立ったまま、聞こえないフリを通した。

「鈴本は正直だなぁ」

 クラス担当、英語の泉先生が、赤ペンで答案用紙にバツを入れた。

 スペルミスしたところ、まちがってマルにしてあったから、申し出た。

 それだけのこと。

 三点、惜しくないわけじゃない。



 給食委員の「ごちそうさまでした」を合図に、机はすべて教室の後ろに下げられた。

 この中学では、昼休みの後に掃除があるのだ。前半にぽっかり空いたスペースには女子が集まって、恋と友情の境界は何か、なんて永遠のテーマについて飽きもせず騒いでいる。チャイムが鳴り、掃除開始の音楽が流れ出しても、彼女たちのおしゃべりは止む気配がない。私は文庫本を閉じて席を立ち、邪魔な机を押しのけて掃除用具入れを開けた。集団はまだ騒いでいる。ホウキを手に人のいないすみっこから掃きはじめると、女子の輪を抜け出した春ちゃんがこっそり話しかけてきた。

 雑巾を持ったのと逆の手で、私のセーラー服の裾を引っ張って、

「鈴ちゃん、あたしね」

 言葉を切り、どこか納得いかないというような難しい顔をする。

「あたし、好きな人できたかもしんない」

 恋愛関係の話じゃいつも聞き手に回ってた春ちゃんの言葉に私は最初驚いて、それから、とうとう私の恋も終わりだなと目を伏せた。

 床に転がっていた牛乳用ストローを一本、ホウキで跳ねとばす。

 あぁ、こんなことなら言っときゃ良かった。明島アキシマくんのことだから、まぁいいよって少しの間だけでもつき合ってくれたかもしれないのに。……なんて、そんなに世間も明島くんのカノジョ基準も甘くない。告白どころか話しかけたことさえない私には、明島くんと春ちゃんがくっついたって遠い話だ。むしろ、春ちゃんの近くにいるだけ話せる機会が増えるかもしれない。考えただけで悲しい。

 静かに息を吐き、胸に溜まった重い気分を教室の空気に溶かす。失恋の痛みに耐えて、訊いた。

「よかったね。それで、誰? その相手」

 聞かなくてもわかってるんだけど、ねぇ。

 窓を拭く春ちゃんの向こう、遠い空に目をやる。雲はあるけどそれなりに快晴で、グラウンドからの照り返しで教室は暑くて、ああセミも鳴いてる。

 春ちゃんは雑巾を持ったまま器用に腕を組んで、首を傾げた。

「でもねぇ、恋かなぁ。わかんないなぁ」

 目がくりくりしてて可愛い。子ザルみたい。

 私は春ちゃんの頭に手を置いて、ゆっくり左右に動かした。短く切りそろえられた髪が、てのひらの中でさらさら流れる。

「幼馴染みだし、恋とか好きとか、最初はわかりにくいかもね」

 人間メトロノームになった春ちゃんは不思議そうな顔をする。

「幼馴染みって、鈴ちゃん知ってたんだ?」

 私は苦笑した。春ちゃんと明島くんの仲良しぶりは有名だ。

 春ちゃんは悩ましげな息を吐き出した。

「もうね、ちょーカッコイーんだよ。鈴ちゃんも見たら絶対惚れるよ」

 うん。

 学年に数人は運動神経、成績、見目、三拍子そろった生徒がいるものだけど、五組の明島くんはその一人だ。帰宅部だけど合気道しててもやしっ子にはほど遠いし、頭いいし顔いいし、なにより紳士。これはポイントが高い。女子をからかって遊ぶような、そんじょそこらのガキとはちがうのだ。

「内緒だからね、まだ誰も知らないんだよ。鈴ちゃん、耳かして」

 春ちゃんは嬉しいことを言う。私は春ちゃんと体を寄せて内緒話の体勢を作った。耳に息が触れてくすぐったい。

 聞きたいのと聞きたくないの、半々だ。

 春ちゃんのことは大好きだから、うまくいってほしい。

 恋を知らない無垢な春ちゃんが大人になるのを見るのも楽しみだ。

 春ちゃんがその気なら、明島くんは断ったりしないだろうし。

 だけど、二人がますますくっついていくのを見るは、切ないなぁ。

 チョークの粉で汚れた教卓を見つめて待っていたのだけど、春ちゃんはなかなか相手の名前を言わない。

 あんまり掃除をさぼるわけにもいかない。控えめに促した。

「春ちゃん?」

「う……、えっと、あの、ね」

 ためらってるってことは、本気、なんだ。耳を澄まして待つ。

 春ちゃんが息を吸う音が聞こえた。耳元で叫ばないでよと焦って、それでも親友の大告白なんだからと覚悟を決めた。

 そしたら、数秒間をおいたあと、

夏樹ナツキさん!」

 予想以上の音量が頭に響いて、くらくらした。

 えっと。

「……夏樹さん?」

 まさか、知らない名前が出てくるとは思ってなかった。明島くんの下の名前はハジメだ。

 春ちゃんはあわてて私の口を塞ぐ。

「内緒! 鈴ちゃん!」

「あ、ごめん。……で、それ、誰?」

 とりあえずホウキを動かす。

 子ザルははにかんで、それからひまわりのような笑顔を浮かべた。

「合気道の先輩!」



 放課後の教室にひとりきり、この時間が好きだ。

 セミの鳴きやむ一瞬にシャーペンを走らせれば、文字を書くかすかな音まではっきり聞こえる。

 ノートの線に定規を合わせ、単語と本文、訳の境界線を引いていく。紙一枚はさんで、下敷きが私の力を受け止める。シャーペンの先に確かな手応えが返ってくる。

 きちんと分けて中身を書き込んで、英語の予習。

 教科書見開き一ページ分を終わって、伸びをした。

 四ページやらないと今日のノルマは終わらない。

 いつもの癖で窓の外を眺めたら、見つけてしまった。

 プールを囲うフェンスのそばに、二つの人影。何か言っている女の子と、黙ってじっと聞いている男の子。

 夏になると、告白場所のメッカは草と蚊の育つ体育館裏から草刈りの行き届いたプール裏に移動する。裏だけあって人目につかないと言いたいところだけど、校舎の最上階、端っこにあるこの教室からは丸見えだ。特にこの席からは、座っていても見える。

 メガネの奥で目を凝らした。

 明島くん、かな。

 顔までははっきり見えないけど。

 背格好や立ち方で、わかるようになってしまった。

 一昨日、四組の木下さんと別れたと聞いた。たぶん、二ヶ月も続いてない。

 とっかえひっかえしている人なのに、もてる。

 三拍子に加えて、出入り口でかち合ったら先に通してくれたり、ドアを押さえてくれたり、プリント配るの手伝ってくれたり、そういうことをさりげなくやってしまう人だから。

 優しくされて、女の子はみんな誤解する。

 手を止めて眺めていると、春ちゃんが委員会から戻ってきた。

「鈴ちゃん、どしたの?」

 プリントの束を教卓に置いて、近寄ってくる。

 私はプールを指さした。視力のいい春ちゃんは、一目見て呆れた声を上げる。

「またか。もてるねぇ、アキは」

 明島くんと春ちゃんは幼馴染みで、お互いハル、アキと呼び合う仲だ。

 告白の結果に興味はないのか、窓に背を向けて、春ちゃんは帰りの準備を始める。

 セミが鳴いている。西日がさしこんで、古びた木の床に、斜めの影を落としている。

 この組み合わせを、いつも見ている。西日と影。明島くんと、誰か。

「昨日も告白されてたよ。明島くん」

「そうなんだ? あれのどこがいいのかね」

 春ちゃんの口調にトゲはない。明島くんにとって春ちゃんが特別でも、春ちゃんにとっては違うのだ。

 あんまりのぞき見するのも気が引けて、私は英語のノートに視線を戻す。春ちゃんはナップサック型の紺色カバンを背負うと、また明日ねと手を振って帰っていった。

 ノートに英単語を書き込んで、やっぱり気になって、窓の外を眺める。

 女の子の告白は失敗に終わったらしい。

 明島くんは駆けていく女の子を見送って、そのあと、プールを見てた。

 フェンスに頭をぶつけて、反省のポーズ。

 それから、ポケットからなにか取り出すと、キャッチボールするときみたいに振りかぶって、プールに投げた。ここからは何の音も聞こえない。プールに落ちたのなら波面も見えるのだろうけど、あいにくそれがみえるほど視力も良くない。

 それから明島くんは移動して死角に隠れてしまった。もう教室に戻るのかもしれない。しばらく待って諦めて、私は本文を写しにかかった。



 ……カッチャカチャ、スパイクの音が駆け込んできて、もうそんな時間かと数学のワークを閉じた。暑さを残して、西日は消えている。窓の外では、沈みかけの太陽が雲を染めていた。

 ノルマの終わった英語と、切羽詰まってない他の教科を机の中に置いていく。

 筆箱と下敷きと、机に入りきれないノートを二冊、カバンに入れた。

 教室の後ろの方で、着替える音がしている。

 消灯はいつも、その人に任せている。席を立った。

 黒板の前を通る。明日の日直は深野さんと原田くん。

「鈴本」

 呼ばれた……のは気のせいだ。たぶん。スライド式のドアに手をかけた。

 ぼろい木の音を響かせて開けたのに、それに負けない音量がもう一度、

「スズモト!」

 まだ着替えてるんじゃないの。

 振り返るのをためらった。

 背を向けたまま立ち止まるのも嫌で、気づかぬフリを決め込む。速度そのままで教室と廊下の境目を越え、後ろ手にドアを閉めてシャットアウトしようとした、けれど。

 力を込めればちゃんと閉まるはずのドアは、閉まりきらなかった。途中で止まる衝撃と一緒に、おわ、って非難の声。

 気づかなくて、の言い訳も白々しすぎる。仕方なく振り返った。

 素手でシャットアウトに抵抗した桃井くんが、顔をしかめてそこにいた。

 男子の集団にいて、よく騒いでいる人だ。サッカー部だということぐらいしか知らない。下の名前も知らない。

 桃井くんは、ドアの隙間を片手で広げて廊下に出てきながら、

「一緒帰んねぇ?」

 やだ。と思ったのが顔に出たらしい。桃井くんは口ごもった。

「だ、だって、近所の友達と帰れって、泉ちゃん言ってたじゃん」

 桃井くんの友達の定義は広いとみた。

 ピンポンパンポン下校時間です。雑音混じりの放送がかかる。七時を過ぎると先生たちのチェックに引っかかって面倒だ。答えずに歩き出した。

 桃井くんはしきりに右手を振りながら追いかけてくる。

「泉ちゃんの話、聞いてなかったの?」

 帰りのホームルームで、泉先生は、変質者が出たから気を付けるようにと言っていた。中年の担任教師、はげてるのに妙に愛嬌があるから、うちのクラスではちゃん付けで呼ばれている。

「……襲われたの、男子でしょ」

 だからって女子が危なくないとは思わないけど、話を聞いてたことを示すために答える。

 桃井くんは二度うなずいて、

「オレ危機じゃん? だから一緒帰って」

 にぱー、と笑った。



 正門を目指して、生徒でごったがえしてるアスファルトの上を歩いていった。

 じゃーねーとかバイバイとか笑い声が飛び交って、うるさい。

「あ、ちょっと待ってスズモト」

 桃井くんにカバンのはしを掴まれて、仕方なく立ち止まった。

 後ろで、ぎゃははと声が上がる。モモにもとうとう彼女かぁとかなんとかからかわれて、桃井くんはちがいますよぅと笑ってる。私は振り返らない。気にしない。

「君たち帰りなさーい」

 当番なのか、正門で泉先生が呼びかけている。私も帰りたいんです先生。

 桃井くん、どうせ止まるなら門出てからにしてよ。

 早く帰って、ごはん食べてお風呂に入って寝たい。

 おつかれさまでーす、と結んで、ようやく桃井くんがカバンを離した。反動でちょっと前に押し出される。

「ごめんなー」

 言いながら、桃井くんが隣に並ぶ。あちこちからモモと呼ばれて、その度に手を振り返してた。

 正門を出て道路一本渡り、細い道にはいる。他の生徒たちと離れると桃井くんの口も閉じた。

 あー、やっぱりやめとけばよかった。空気が重い。

 人と帰るの苦手なんだ。おもしろい話とかできないし。

 そう言おうとして言えなくて、私は黙ったままだった。一人で帰るのより何倍も、きっちり前を向いて歩いていた。

 桃井くんは歩きながら右手を振って、

「なぁ、ケータイ持ってる?」

 唐突な。

「……ないよ」

 会話終了。いつもと同じ場所にあるはずの歩道橋が遠い。

 桃井くんは右手の甲を目の高さに上げて、よろよろ歩きながら、

「トゲ、ささってるっぽい。痛いわー」

 ああ。それでさっきから手振ってたわけ。

「暗いしよく見えん。明かりが必要ー」

 トゲがあるらしき箇所を触っては、痛ってぇと顔をしかめていた。その表情が教室出るときのと一緒だったから、もしかして。

「……教室のドア?」

「うー、スズモトのせいで死ぬかも」

「え……。ごめん」

 線路にかかってる歩道橋をのぼる。桃井くんは右手を眺めていて、危なっかしい。

 これで階段踏み外したら、それも私のせいか。

「あやまんなくていーんだけどさぁ」

 触った分だけ刺さって余計取れなくなったみたいで、桃井くんはしかめっ面のままカバンを漁った。はい、と渡されたのはハイチュウ。学校はお菓子禁止だ。もらっておいてなんだけど。

「……だめじゃん、持って来ちゃ」

「トゲが痛いから! 甘い物で気ぃそらす!」

 桃井くんはハイチュウを口に入れて、半透明の包み紙をポケットに突っ込もうとする。

 それ、ゴミ箱に捨て忘れたら、持ち物検査のとき困るんじゃないの。

 右手を出した。

「もう一個?」

 きょとんとして、桃井くんがハイチュウをもうひとつもぎ取る。仕方ないなぁって顔で渡されても、私はまださっきのも食べてない。

「そうじゃ、なくて。ゴミ」

 あんまりうまく言葉が出てこない。

 桃井くんと話したことなんてない。緊張する。

 ところどころ塗装の剥げた歩道橋の階段を下りながら、言葉を探す。桃井くん、バカ面してたら落ちるよ。

「ゴミ、回収。証拠隠滅」

 なんとか単語を並べたら、桃井くんは感心して手を鳴らし、トゲの痛みに唸り、おぬしもワルよのぅとかなんとか、時代劇のセリフを言った。

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