桜の木
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桜の木の下には死体が埋まっている。
誰だ。そんな悪趣味なことを言い出したのは。
どこかの誰かが言い出したそんな戯言の所為で、一昨年の小学四年生の夏、おれはクラスメイトの一原千子と二人、裏庭の木の下を掘り返す羽目になってしまった。絶対に埋まっている、見つけ出すまでは帰らないと駄々をこねる千子にキレながら、根を張り岩を巻き込んだ木の下を、炎天下にさらされ土塗れになりながら暗くなるまで掘り返したそのつらさを、おれは今でもしっかりと覚えていた。しかも千子の野郎。自分から誘っておいて、隣で汗だらけで掘り続けるおれにかまわず一人でぶっ倒れやがった。
白い肌にほそっこい体。一原千子ってのはやたと虚弱な女で、倒れた奴の後始末は当然ながらおれの役割となってしまった。十七回くらいは舌打ちをしたと思う。千子のほそっこい体を持ち上げて、とりあえず学校の職員室まで運んだ。汗でびしょぬれ、砂塗れになりながらも妙に良い匂いのした千子のやたら長い腰までの髪を、邪魔だ邪魔だといいながら引っ張ってやったことも良く覚えている。やめてだいちゃん。千子は確かにそう言っていた。頬を蒸気させ唇を震わせ、うめくような声で何度も何度も繰り返した。やめてだいちゃん。だいちゃん。助けて。だいちゃん。苦しいよ、だいちゃん。
うるせぇと一喝して保健室に放り込んで、事情を先生に説明してようやく分かった。いくら掘り返しても死体がでないのは無理もない。あれは桜じゃなくて銀杏の木だ。何がお花や木には詳しい千子ちゃんだよ。おれはベッドに倒れた千子にそう言って怒鳴りつけた。びっくりするほど柔らかいほっぺたをつねってやると、千子はなんでか嬉しそうにえへへと微笑んだ。
気に入らない。
そんな気に入らない記憶を、おれは夏と桜の季節には嫌がおうでも思い出す羽目になった。授業中とか休み時間とか放課後とか、ついそのことを思い出すと、教師の叱るのを無視して裏庭へ向かうのだった
人のいない裏庭で。おれはふと腰を下ろしてただ漠然とした時を過ごした。腰を下ろすのはその時の気分によって、本来そこを掘り返すべきだった桜の木の下だったり、間違って掘り返した銀杏の木だったりした。
そして考える。
おれはどうして、あんな奴と一緒に遊んでやったのだろう。と。
小学生も六年の三学期ともなると妙にマセた態度をとる奴が出て来て、教室で妙な組織を築いたりし始めた。この場合の組織というのは子供の良くやる秘密基地とかなんたら正義団のグループではなくて、群れを成して同じ漫画を読んだり同じアクセサリーを身に付けたり、同じ相手を敵視したりするような奴ばらだった。
三月の頭。卒業式の練習とやらに主役待遇で参加するようになった頃。教室の扉が開かれるなり、教室の一角が妙な失笑に支配された。失笑を浮かべたのは教室の中でも一番大きな規模を誇る女子のグループで、その対象になって不思議そうに首を倒すのは、長い髪に細い体に端正な顔をした一原千子だ。
あれから妙に美人になったよな。とおれは勝手にそう思って勝手にそれを打ち消した。
一原は教室の女子の大半からの失笑を受けながら、恐る恐るといった調子で周囲を見回し、席に付いてから声をあげた。そして机の中に手を入れるとずるずると何やら引っ張り出す。ずたずたになった教科書・ノート・筆記用具。ぼろぼろになったそれらをしばらく漠然と覗き込み、千子はようやく顔をあげて教室を見回した。
一原を取り囲む女子たちはある種の嘲笑めいたものを浮かべたが、千子はただ媚びたような笑みを浮かべて、一通りの顔をうかがうだけだった。普段どおりだ。そしてその表情のままで、普段どおりなんでかこっちを一瞥するのだ。
気に入らない。
いらつき加減に教室を去る。そして入れ違いになった先生に怒鳴られながら、いつもの裏庭の方まで向かうのだった。
なんであいつがいじめられるかなぁと、おれはどこにともなくぼやいていた。ぼやいたところでそんな理由は明白だった。妙にかわいい顔をしている癖とろくて、成績良いくせに言動が幼くて、いつもいつも媚びたような顔をしていて媚びたようなことを口にするからムカつかれるのだ。
そんな風に思うおれの見立てはまず間違っていなかったし、どころかそれを理由におれ自身千子いじめてみせることがあった。じゃれるようにへつらうように、だいちゃん、だいちゃん、声をかけてくる千子を、おれはただ殴りつけた。殴るだけじゃない。ののしった。きめぇとか帰れとか近寄るなとかくっせぇんだよとか。そんな誰にでも思いつけるような悪口を、必ず一言は添えるようにした。
そんな風にしている内、一原千子はだんだんとおれに近付くことがなくなり、おれもクラスメイトからからかわれずに済むようになった。一原の旦那。そんな風に言われ、言った奴を殴り飛ばして、校長室に呼ばれる手間が省けた。だからおれはこのことをまったく後悔しないし、心も痛まない。うざったい千子が悪いのだ。
そう思うことにしている。
三月の空は来なくて良い春が先走ったみたいな日差しを注ぎ、おれを苛立たせた。この春からおれももう中学生だ。そう思うと漠然とした不安が胸を訪れて、このままで良い、となんとなく思うのだ。落書きだらけの教室ではしゃぐあいつらの誰か一人でも、小学生以外の何者かなれるとはおz思えない。
その筆頭たるのは一原千子だ。あいつなら、他の誰もが大人になったとしても、たった一人で小学生をやっていそうな気がする。
ましてあいつは推薦までもらって中学受験というのをやって、妙に有名らしいお嬢様学校に進学する運びになっているらしい。お嬢様学校。あいつには似合うようでいて、まったく微塵も似合わない響きだ。そんなところでやっていけるのだろうかと、疑問に思わずにはいられなかった。
物心付く前は随分と遊んでやったもんだが。来月になったらあいつとももうおさらばだ。そう考えるたび、おれはせいせいとした気持ちで春の青空を覗き込み、その目障りな眩しさから目を逸らすのだった。
「だいちゃん」
そろそろ教室に戻ろう。そう決意しかけたおれの耳朶を打つ声があった。おれは舌を打ちたい気持ちを抑えて背後を向いた。
声の主は例の銀杏の木の裏側に隠れて、顔の半分だけを出しておずおずと声をかけていた。その姿を確認しておれは今度こそ舌を打った。そういう媚びたみたいな仕草がしゃくに触るんだ。
「なんだよ」
「今……。っち、っていったぁ。っち……てぇ」
天真爛漫な顔でこちらを見上げ、一原千子は上品な唇をアホみたいに開いてそう言って来た。おれは顔を後ろに倒して再び舌打ちをする。案の定、視界の外から千子が「またいったぁ」と口にする。おれはうんざりした気持ちになった。
「なんだよ。授業でなくて良いのかよ。一原。おまえ、私立の中学に進学するんじゃなかったのか」
「したくてするんじゃないもん」
千子は口をペリカンみたいにとがらせてこっちを向いた。
「本当か?」
「ほんとだよ」
「嘘だぁ。おまえこのままふつーに進学したって良いことねーもん。おまえ友達いねーしよ、私立に進学できてせいせいしてるんじゃねーの? もういじめられなくて済むしよ」
「そんなことないもん」
千子は眉を顰めながら微笑むという器用なことをやった。
「好きな人もいるもん」
おれはうんざりとした。うんざりとして、尚、たずねた。
「誰だそいつは?」
「だいちゃん」
にこやかに、そして妙に幸せそうにこちらを指差すそいつが、おれはなんだか哀れに思えてくるのだった。
なんでこんなこと訊いたんだろ。
「帰れ」
おれは言った。千子はしかし怯んだ様子も見せず、こちらに擦り寄っていつもの媚びた笑みを浮かべて
「だいちゃん。遊ぼう」
そういって来た。
殴ろうと思って拳を上げた。千子は両目を閉じて、心なし両手をこちらに向けて差し出した体勢で後退った。ふと思いついておれは千子に向かって一歩踏み出す。気配を感じたのか、それにあわせて後退する千子だったが、すぐに木の根に足を取られてすっころんだ。長い髪がふわりと揺れる。しりもちをつく。パンツが見えるタイミングではおれも目を閉じた。
「だいちゃん。酷い」
「帰れっつってんのがわかんねーのか」
言いつつ。おれは微笑んでいた。それはすっころんだ千子がおもしろくて浮かべた笑みだったのだが、千子は何を勘違いしたのか嬉しそうににこやかに微笑み返す。意味分かってねぇのかなとか思う。分かってて笑ってるのかなって思う。
こいつはいつでも笑っている。
「だいちゃん」
千子は爛漫な笑みを浮かべて声をかけた。そのひたすらに楽しそうな笑みに、どこかくすぐったいような気持ちにもなる。
「なんだよ」
「学校の七不思議、知ってる?」
そう尋ねられ、おれはつい桜の木の方に視線を泳がせた。あれの下には死体が埋まっている……あれは七不思議の何番目の怪談だっただろうか。
「知ってるも何も……。前に話しただろうが」
俺は不機嫌にそう返した。
「おまえに誘われて……この銀杏の下を掘り返したんだっけな。……案の定、何にもでてこなかったんだよな」
「わぁっ」
千子は心の底から嬉しそうに、両手を合わせて花が咲くように笑った。
「覚えていてくれたんだっ! だいちゃん」
そういわれて、おれは射抜かれたような気持ちになる。おれは目を逸らした。千子はかまわず続けた。
「あれ。もっかいやろっ」
「却下だ」
おれはぴしゃりとそういった。
「どーして」
「あんな穴掘りをもう一回やれっていうのか……。それにな」
おれは当たり前のことを、ほんの少しだけ言いよどんでから、諭すでもなく怒鳴りつけるように吐き捨てた。
「んなふざけた怪談……鵜呑みにしてんじゃねーよ」
「してないよ」
千子はおれの言葉を先回りしたみたいに言った。
それはいつも腑抜けた言動で周囲を振り回す、とろくさく千子にあるまじき言いようだった。
「してないよ。埋まってる訳ないじゃん。桜の木、いくら掘り返したって……下の学年の子たちが言ってるみたいに、死体が埋まったりなんかしてないよ」
だから、と千子は言う。媚びたような笑みを浮かべ、期待に満ち溢れた上目遣いで、おずおずとそんな風に切り出した。
「わたしと一緒に。そこに死体ほんとに埋めちゃおう?」
うんともすんとも言えなかった。
おれは漠然として千子の顔を見詰める。千子はその視線に動じた風もなく、ただにこにこと、何も考えてないみたいに微笑んでいた。
「それ……どういうことだよ……?」
おれはうんざりしていった。
「七不思議を……なんだって?」
「だからホントにしちゃうんだよ。実践っていうのかな? だいちゃん、分かる?」
「実践くらい分かるに決まってる。バカにしてんのか。で? どうするって? 死体を?」
「だからぁ」
千子は桜の木を指差した。
「本当に埋めちゃえばじゃん……って……」
そう言ってこちらを振り向いて、端正な顔を歪めてきれいに微笑む。
そうやって媚びれば、自分の提案が実現すると思っているかのように。
「だいちゃん。そういうの好きだったじゃない。一緒に良く遊んだよね。カエル膨らましたり、鳥を捕まえたり。猫をつぶしたり。ねぇ」
そう言って擦り寄ってくる。ねぇねぇと、媚びたみたいに。
確かにおれはそういうことが好きだった。今も好きかもしれない。家の近かった千子を子分として引き連れては公園に出向き、アニメヒーローの必殺技を叫びながら、トカゲやらハトやら捕まえて石で図体をぺしゃんこにしたものだ。
……やめてよ。だいちゃん。……酷いよ。
ぐずぐずと泣きながら下唇をかみながら、千子はおれの両手を取ってやめてやめてとわめいたものである。うるせぇ邪魔すんなら付いて来るなと怒鳴りつけて、殴りつけても尚付いて来た。ぐずぐず泣きながら付いて来て、おれが新たな獲物を発見するなり、やめてやめてと再び泣き喚き始める。……それがまたおもしろくて……。
「いや。おまえ……そんな昔のこと」
「昔のこと?」
あれから随分と、他の誰よりも少女らしい見てくれになった一原千子は、そう言って首を傾げる。
あの頃と変わらぬ愛らしい、無垢な表情だった。
「だいちゃん。今もやってるじゃん。学校の帰りとか、男の子の友達と一緒にさ。でもだいちゃん、ちっちゃいときあたしとやってたのと違って、やめろーって言われたら、ちゃんとやめるんだよね。……どーして?」
「いや……どうして……って」
口ごもるおれに、千子はいぶかしげに倒していた首を持ち上げる。そして再び満面の笑みを浮かべると、企むようにこう言った。
「だから。またしても良いでしょ。怪談ごっこ。きっと楽しいよぉ。ねぇ」
ねぇねぇ。そう言っておれの反応をうかがう一原。媚びたような視線、子供のような仕草とそれに似合わぬ端正な顔付き。擦り寄ってくる。とんでもないことを言いながら。おれは慄いた。気が付けばおれは表情を歪ませ、渾身の力で千子の体を突き飛ばしていた。
そこにあったのは戸惑いだった。
銀杏の木の傍で立ちすくむおれと、砂塗れにして転がった千子は顔を合わせる。こちらのことを怯えたように見据え、どうして突き飛ばされたのか分からないとばかりに戸惑う千子を、おれは呆然と、遠くのものを見るようにうかがいっていた。
「ごめんね。だいちゃん」
千子は言った。
「ごめんね。ごめんね。うっとうしかったかな? ごめん……ごめんね……」
そう言って体の砂を上品に払いながら立ち上がる。そしてとぼとぼ、主人から虐げられた子犬のような足取りで、その場を立ち去ろうとする。かなり力を入れてしまったのだろう。片足には赤とも蒼とも付かない打撲傷が刻まれて、明らかに地面を引きずっていた。
おれは愕然としていた。怪我をさせることは分かっているのに、どうしてあんなに力いっぱい押してしまったのだろうか。足を引きずって立ち去る千子の後姿を見ていると、アイスを一個丸ごと飲み下したような感覚が、胸の奥にまで広がって行った。
「おい」
おれは思わず声をかけた。
千子はその場で立ち止まり、少し硬直してから恐る恐るこちらを振り向いた。たまらずおれはそちらに駆け寄り、声をかける。
「その……なんだ。七不思議を実践するってのは? 本気で言ってるのか?」
おれがびくびくと尋ねると、千子は「ほんとだよ」とそう言った。
「だったら……」
漠然とこちらを見上げる千子の頭を見下ろしながら、おれは口先だけでものを言っていた。
「ほんとだってんならよ……。おまえ、桜の木の下に死体、埋めてみろ。それできたら話は本当ってことだろ? そしたらおれもその……協力? してやるから……」
たどたどしく、この期に及んで逃げ場を探しながら、おれはいらいらしながらそんなことを言っていた。千子は目をぱちくりさせながらおれのでまかせを反芻し、それから花が咲いたみたいに微笑んで両手を合わせた。
「本当っ! うれしいっ!」
千子は心底嬉しくてたまらないという風にその場で飛び跳ねた。そして片足を軸にして土の上で一回転すると、いためた足を地面につけた瞬間に間抜けな声をあげてぶっ倒れた。
「あたたた」
ぶっ倒れた千子を起こしてやることもせず、おれはその様子をただ眺めていた。千子はえへへと媚びたような笑みを浮かべると、精一杯顔を近付けて企むようにこう言った。
「約束したからね」
おれは思わず自分がどきりとしたのを感じた。どうしてそんな感覚が訪れたのかは分からない。おれがうろたえる自分に気付いた頃には千子はぎこちなくスキップを踏み始め、心底嬉しそうにその場を立ち去っていた。
「…………」
おれは途方にくれて立ち尽くした。その小さな背中を追いかける気にも、教室に帰りいつもの日常に戻る気にもならなかった。
できる訳がない。漠然とそう考える。おれは今、千子に無茶な要求をした。無茶な要求をぶつけて千子をあしらった。おれがやったのはつまりそういうことだ。
そう言い聞かせると同時に、おれはこんな風に思う自分を自覚する。
……七不思議の実践。それは、本当にやってしまえるのであれば、なかなか胸を引かれる遊びなのではなかろうかと。
一原千子は優等生だ。
授業中に教師から当てられればおずおずとしながら的確な答えを返し、正解だと褒められれば照れたような笑みを浮かべる。何かを言いつければ若干遅いペースながら従順な犬のように正確にこなし、働きを褒めればはにかむような笑みを返してくる。当然、彼女は先生のお気に入りという奴だったし、それが生徒間で彼女が嫌われる一要素となっているらしかった。
大人に従順で有能な優等生であることで、クラスメイトから好かれるような学年では既になかったし、そうでなくとも千子にはもとより空気の読めない一面もあった。一対一でも危ういのに、集団における調和的やり取りなどとうてい不可能な段階だった。あいつはどうしたって一人では生きていかれない。
学級で誰より味方を必要とする千子。学級で誰より成績優秀で有能な千子。千子の内面性と外面性には、あからさまとも言える差異があった。他人と触れあう過程でその差異はあらぬ形で確実に現出する。その現出こそが彼女を孤立へ、孤独へと追いやっていくのだ。
などと小難しいことを考え理解したところで、その理解と認識はおれの小さなおつむに複雑すぎた。そんな複雑なことをクラスの女子共に説明してやる言葉はおれにはなくて、そもそもそんなことを試むよりは、周囲と調和して何も考えず千子を追いやる方が楽ちんだったのだ。
だからそうした。椅子から転げ落ちるたびこちらを一瞥するからからの微笑みには、奇妙な苛立ちを禁じえなかったのだけれども。
あれから放課後になって。大嫌いな塾通いをサボって公園でゲームボーイSPをしていると、暗闇の中から荒い息遣いが聞こえて来た。ついそちらの方に視線をやると、そこにはきょろきょろとしながら公園を訪れる一原千子の姿があって、おれの姿を見つけると満面の笑みを咲かせながらこちらに向かって来た。
「……なんだよ」
千子は明らかに息を荒げて、顔中に汗をかいてこちらを見詰めていた。こいつが汗をかいているところなんでおれはひさしぶりに見た。そしてなんだか懐かしい気持ちにもなった。こいつは自分で自分の体力をセーブする術を知らない、興奮すると無駄に走り回ってすぐに息が上がり、汗だるまになる。
「ここにいたんだ」
笑みを浮かべながら、痛む脇腹を抱えるように下を向き、喘ぐような息づかいで発声する。
「お家にかけたけどいなくて……塾行ってもサボってて……どこにいったんだろうと思った。もう本当、すっごく探したよぉ」
そしてどういう訳か得意げな顔をこちらに向けて、千子はおれの手を取って微笑んだ。
「さあ。いこうっ」
「ちょっと待て」
おれはその場でうろたえて千子の手を握り返し、細い体に押し付ける。
「いったいなんだよ。こんな時間に……。意味わかんねぇ」
うんざりして睨みつけると、千子はつぶらな瞳で唇を尖らせて、いったい何を言っているんだろうとばかりに首をかしげた。
「来ないの?」
千子は不服そうに眉を顰める。
「約束したのに」
「約束って……おまえ……」
なんなのだ。そう思い、うんざりとしながら押し付けた両手を離そうとした時、おれはぬるりとした感覚を覚えた。
「うん?」
この野郎。よっぽど走り回ったんだな。手がどろどろだ。最初はこれくらいに考えた。しかし思わずその小さな手を握り返すと、やはり不自然なくらいに濡れている。それもただ濡れているだけではない。乾きかけた泥水のような感触を伴って、その液体はおれを震え上がらせた。
おれは乱暴に両手を離し、自分の手のひらをじっくりと見詰めた。暗くて良く見えない、ただ真っ黒な闇がおれの両手を覆うだけだった。
「なんだって……」
膝においていたゲーム機を持ち上げる。そこで気付いた。両手で握り締めたゲーム機の、べっとりと付着した赤い形跡に。
「うわっ」
おれは思わず手元のゲーム機を取り落とす。公園の砂の上に着地して、ゲーム機は盛大なエラー音声を鳴り響かせた。千子はこともなげにそれを拾い上げると、ひょいとこちらに差し出してきた。
「はい。これ」
おれは千子の手からゲーム機をひったくると、ピーピー悲鳴をあげ続けるそれを放り出して千子の両手を取った。目を凝らしてじっと見詰める。シルクのような手触りのそれは、真っ赤な血液で濡れていた。
「おい……これ……」
おれが愕然として顔を上げると、千子はどこか得意そうにしてこちらに微笑んだ。
「約束。守ったよ」
暗闇の中でおれは千子の背を叩き、とにかくそこまで連れてこさせた。
こういう時の千子は本当に従順だ。焦り逸るおれの歩調に遅れないように、心の底から楽しそうにたったかたったか跳ねていく。そこまでおれを案内し終えた頃には、千子はふらふらと倒れ付しそうになりながらも、今まで見たこともないくらい嬉しそうにはしゃいでいた。
そこは学校の裏庭だった。
「すぐに、埋められるようにって思って」
滅多に人の立ち寄らない裏庭の端。そいつは大きな木に背を預けるようにして倒れていた。おれは一目見て理解する。だらりと捻じ曲がった細い首からあふれ出した血液が、背中を預けた木の表面を真っ赤に濡らしていたのだ。千子が得意げに微笑む。これで断定できない方がおかしい。
千子はこいつを殺したのだ。
「去年のクラスメイトの、高橋まゆみさん」
そう言って千子は無邪気に語りかける。
「携帯電話持ってるのがこの子しかいなくて。昔電話番号教えてもらったんだけど。呼び出したら、来てくれたんだよ。よかったなぁ、来なかったらどうしようかと思ってた」
そう言って千子は携帯電話を掲げてみせる。血で汚れることも気にせず、うきうきとして握り締めていた。
「良く呼び出せたな」
おれが感心してそういうと、千子は嬉しそうに「良かったよぉ。えへへ」と照れ笑いを浮かべた。こいつの笑顔が女子たちの間では不評である理由が良く理解できた。こいつはどんな状況でも笑ってさえいれば良いと思っている。
「はい。これ、だいちゃん」
千子はおれに大きなスコップを持たせた。
「これ。使って良いよ。わたし手で掘るから」
言って、千子は女の倒れた傍の地面を掘り始める。照れ笑いをした時に、手をやったほっぺたに血液がこびりついているのが如何にも滑稽だった。
おれは渡されたスコップを手にする。ふつうの子供が使うには大きな代物だが、幸いにもおれは身長百六十センチとやたらと大柄だった。先端に血と長い髪の毛がこびりついているのを見ると、どうやら犯行に使われた代物らしい。おれは少しだけぞっとした。
おれは溜息を吐いた。腹の中にたまっていた、たまりたまって今にも張り裂けそうだったよどんだ空気のほとんどを、おれはその溜息一つで吐き出してしまったのだ。ぽっかりあいた腹の中に流れ込んだのは、死臭漂う裏庭の空気だったけれども。
「どうしたの?」
千子は溜息を吐いたおれに不安そうな視線を向ける。どうしてそんな疲れたような溜息を吐くのかと尋ねられて、おれはそれを千子に対し呆れた為のものにすることにした。
おれはそいつの横たわる木を指差して言う。
「その木。桜じゃなくて銀杏の木な」
おぎゃーおぎゃーとばばあの腹から吐き出された時から、人はそれぞれなんらかの星に生まれついているらしい。
千子は出生した当時から他の子供とは一線を画していた。平凡な星に生まれた人間が血を吐くほど努力して手に入れたものを、千子はのほほんと笑いながら踏みにじってしまう。恵まれた容姿、才能、家柄。人懐っこく従順なその性格だけは、それらの要素とは不釣合いなものでもあったが。とにかく。
一原千子がこうも容易く殺人行為を達成してしまったことと、彼女の生まれ持った幸運は決して無関係ではないだろうと思われた。おれはあいつがサイコロで五より小さな数を出したのを見たことがない。三年生の頃、あいつが行きたがった遠足が降水確率九十パーセントで決行され、無事晴天のまま終わりを迎えたのは随分と記憶に新しい。
だからだ。
おれは高橋みゆきを埋める為の穴を桜の木の下に掘りながら、これがばれることなんて微塵も気にしちゃいなかった。この怪談ごっこが一原千子の立案で、高橋みゆきを殺害した犯人が彼女である限り、この事件が明るみになることは百パーセントありえない。そう思わせてしまう神がかりが、一原千子には備わっていた。
「おい」
手を土塗れにして穴を掘り続ける千子に、おれは頭上から声をかけた。
「なぁに?」
「邪魔だ。手を引け。掘るのをやめろ」
さっきから千子といったら邪魔臭くってしょうがなかった。スコップを地面に叩きつけるおれの合間、千子は小さな手を差し込んで手伝おうとする。何度かぶつかったりして痛そうな顔も見せていた千子だが、決してそれをやめようとしない。うっとうしくて仕方がなかった。
「……うん」
千子は何を思ったのかこちらに向かって照れたように微笑んだ。そしてその場を離れ、少し離れた銀杏の木の傍に腰を下ろす。そのすぐ隣には千子が自分で殺した高橋まゆみの死体がある。おれは少しばかり頭が痛くなった。
何がこいつを変えたのだろう。
いいや。おれは考える。小さい頃、おれが一番残酷だった頃。こいつはおれに虐殺される生き物を救おうとはしたが、その残酷自体からは目を逸らさなかった。逃げもせず、わめきもせず、ただ泣きながら助けてくれと懇願するばかりだったように思う。だからその時代、おれには千子しか友達がいなかったのだ。
「……ふん」
淡々とした穴掘り作業も行き詰っていた。こうなることは分かり切っていたが、裏庭に降り積もった土もついに底を付き、硬いコンクリートが顔を出したのだ。穴の深さはせいぜいがおれのへその辺りまでで、広く掘ってはいたが、このまま人を埋められるかどうかは微妙なところだろう。
「おい一原」
おれは高橋まゆみの死体を持ってこさせようと千子を呼んだ。ひとたび呼びつければ従順な犬のように尻尾を振ってくる千子が、しかし反応を見せない。どういうことかと振り返ってみてみれば、千子は銀杏の木に背中を預け、高橋まゆみの死体に頭を向ける形で眠りこけていた。
「起きろ」
おれは砂塗れのスコップの先端で千子の頭を小突いた。「いたい……」言いながら千子は涙目で起き上がる。
「酷いよ。だいちゃん」
「うっせぇ」
穴を掘るのに夢中でそこまで気にならなかったが、もう随分と遅い時刻になっているらしい。家に帰ればばばあから説教をいただくこと確実だ。それもこれも、ここで死体を引きずっているバカ女のお陰である。それを思えば、この程度で酷いといわれる筋合いもなかった。
「おめぇ。大丈夫かよ」
と、高橋まゆみの死体を運び終え、おれの掘った穴を覗き込んでいる千子に訊いた。
「何が?」
「時間だよ。今何時だ? おめぇんちの親は心配しないのか?」
そう尋ねると千子はどこか得意がるように言った。
「大丈夫だよ。抜け出してきたから……そうだっ」
しばらく穴を覗き込んでいたかと思うと、おもむろに立ち上がって裏庭を駆け始めた。「待っててね」そういい残すと千子の姿は夜闇の中に消えて行き、戻って来たかと思うと、その手には大きなのこぎりが握られていた。
「これ」
「これって……おまえ」
千子の図体よりもでかいのかと錯覚させられるような、立派で凶悪なのこぎりだった。まじまじと見詰めるおれに、千子はひょいとそれをにぎらせる。
「はい」
にこにこと笑う千子。おれは意味が分からない。
「このままじゃ上手く入らないよ。頭が出ちゃう。だから」
そして千子は無邪気に首を傾げて、微笑みながらそういった。
「二つに、分けよ?」
「バカか」
口に出た。
怒鳴るでもなく、振り絞るようにそう口にしたおれに、千子は戸惑いを覚えたようだった。不安がるようにこちらを見詰め、「え? え?」と情けなく声をあげている。おれは自分の持っているのこぎりを見詰め、次に高橋まゆみの死体を見詰め、そして舌打ちをかましてから千子にのこぎりを放り投げた。あわてて千子は後退る。
「危ないよ、だいちゃん」
「おまえがやれ」
そう言っておれは傍らの木に背を預けた。
呆然としていた千子だったが、しばらくすると納得したようにのこぎりを拾った。「そうだね。だいちゃん。疲れてるもんね。そうだよね」言いながら、高橋まゆみの死体を足元に倒し、のこぎりで分断する作業を開始した。
そこからのことは正直見たくもなかった。
十分やそこらではすまなかったに違いない。あのおとなしく誰よりも残酷を嫌った一原千子が、如何にもたどたどしい音を立たせながら高橋みゆきを分断する時間中、おれはひたすらに目を逸らしていた。耳を塞いでうずくまらなかったのはおれのなけなしの矜持の結果で、「終わったよ」千子の明るい声が響いた瞬間、おれは心から救われたような気持ちにもなった。
「落とせ」
おれが言うと、鈍い千子はそこでも首を傾げる。
「死体を穴に落とせ。入るだろう?」
具体的にそう指示してやると、千子は嬉しそうに「うんっ」と返事をした。そして従順に死体を穴に詰め込む。あまりどきつい状況におかれると、猛烈に腹が痛くなることを知った。胃を雑巾のごとく絞られるような、絶叫してしまいそうな激痛だ。
「だいちゃん。大丈夫?」
千子が心配そうにそう尋ねた。「いい、いい。大丈夫」言って、足元においていたスコップを手に取る。そして穴の中身を見ないように砂をすくうと、高橋みゆきごと穴を埋める作業を開始した。
「できるのだいちゃん? 疲れてなぁい」
「良いから」
穴を埋めるのは掘るのと比べて随分と楽な作業であった。目の前に広がるこの残状を、とっとと桜の木の伝説に紛れ込ませてしまいたい想いが、その行為をはかどらせたのかもしれない。ありていに言うと、おれは一刻も早くここから逃げ出したかったのだ。
「終わったね」
おれが穴を埋め終えたのを見て、千子ははしゃいだようにそう言って来た。しかし目なんか今にも眠ってしまいそうに開閉している。
「ああ。そうだな」
おれは心底ほっとして息を吐き出した。これでもう終わった。そう思えば随分とおれの身は軽く、腹の痛みもやわらいだ。
「約束」
千子はかみ締めるように口にした。
「約束。守ってくれてありがとう。本当に楽しかったよ」
そう言って千子はどこか嬉しそうにえへへと笑う。そして千子は何の疑いもないような目で、それゆえ有無を言わさぬ迫力を伴ってこう言った。
「また、次も一緒にね。だいちゃん」
千子は天然で人を使う。それに気付いたのは小学二年生の頃だったか。
あいつは生まれ付いてのお姫様なのだ。おれは幼い頃、まだあいつと人並みに交流があった時点でそれに気付いていた。
だが今となっては姫としての権威もほとんど失墜していて、いまや彼女に気を使うのは、ませた優男数名くらいのものだった。決まっておれはそういう奴らとまったくそりが合わず、またクラスの女子連中にとっても気に食わなかったそうで、そのことが彼女の孤立を推し進める要因にもなっていたようだが。
昨日。帰る前に公園で千子と体についた血を洗い落として(あいつが妙に楽しそうにしていたのを覚えている)、家に帰りついたおれを迎えたのは案の定というかばばあのお説教だった。
るっせぇ死ねと突っぱねて部屋に引きこもり、風呂にも入らずそのまま寝たが。いったい千子の方はどうなっただろうか。あいつの家は使用人なんてものがいるくらいの大家だ、なんとなくそういうのにはうるさいイメージがある。
しかし翌朝。なんとなくそれを尋ねてみる機会をおれは逸した。朝の校舎前で見かけた千子は、女子連中に混ざって嫌味を言われている最中だったからだ。
「あ。だいちゃん」
そう言って千子はこちらに向かって声を出す。助けを求める風でもない無邪気な嬉しそうな表情。こういうのが一番むかつく。当然、おれは女子連中の親玉と目配せをし合ってから、その声を還付なきまでに黙殺した。この数年間で培った見事なまでのシカト術だ。
「昼休みにね」
それだけ言うと千子は満足したようにいじめっ子連中を向き直った。そこではいつもどおりの媚びたような笑みが、浮かべられているのだろうか。
教室について。おれが真っ先に尋ねたのは周防というクラスメイトだった。眼鏡をはめた女子生徒のそいつはまぁ、学級文庫の本くらいなら一学期の間に網羅するような女であって、陳腐な学校の七不思議というのもだいたいこいつが出所だったりする。図書委員会で下級生に対し広めているのだ。やたらと弁が立つらしく、それは効果抜群とばかりに広まっていた。
「周防」
おれが声をかけなり、周防は読んでいたでかい本を畳んですぐにこちらを向き直った。てきぱきとしおりを挟んで机の中にそれをしまいこむ。本を読みながらでも良いのにとその律儀さにおれは感心するばかりだった。
「なぁに?」
「学校の七不思議、ってあるだろ?」
そう尋ねると、周防の眼鏡の裏が僅かに色づいたような気がした。
「あなた、そういうの信じる人だっけ?」
「信じない」
と、おれは突っぱねた。
「そうだよね。うん。そんな感じだもん」
「なんだよそんな感じって」
「別に」
「桜の木の下の死体ってあるよな? あれってどういう話なんだ? 詳しいこと、知らないか?」
そう尋ねると、周防は眼鏡の端っこを少し持ち上げながら
「桜の木っていうのは裏庭の一番おっきい奴ね」
と、語り始めた。
「それは知ってる」
「あの木はね。他の木と比べて大きいし、学校の木の中でも長寿なの。それにすごく素敵な花を咲かせる。それはどうしてかってね、埋まっている死体から養分を吸収しているから」
訊けば訊くほど胡散臭いなと思いながら、おれは「それで?」と先を促した。
「だけどね、いくら養分を吸っているって言ったって。たった一個の死体じゃ育つにしたって知れてるわ。でも死体は途切れることなく桜の木に養分を送り続けている。つまりね、桜の木の下に埋まった死体は、自分と同じ目に合わせようとして、土の中に次々人を引っ張り込むのよ。だから、桜の木の話と土から手が出る話は、セットで語り継がれているわ」
おまえが語り継いだんだろ。とは言わなかった。
「それからこれは新説なんだけど。桜の木の表面に人の顔が浮かび上がってくるって話。これは下に埋まった亡者たちが助けを呼んでいる顔なの。表面にある人の顔の数を探したら、桜の木の下に埋められた人の数も判るっていうわけ」
なるほど。おれは感心した。話がすっきりとして非常にわかりやすい。変に話し方を演出して抑揚を付けてこないのもありがたい。おれが求めているのはそういうことではないからだ。
「他には?」
「七不思議って言う割には、謎は二十個以上あるんだけどね。その中でも、よりポピュラーな奴というか……あたしの中で決定版七不思議という奴があるんだけど……それは……」
と、口にする周防の表情があからさまににやけていた。得意げと言っても良い。
「今話した『桜の木』の他には『音楽室の深夜の演奏』、『西校舎三階トイレの怪』、『プールから伸びる手』に、『首なしバスケットボーラー』の話。それから『調理室の包丁』ね。これが決定版七不思議」
「いくつか知らない奴があるな」
おれが尋ねると、周防はその知らない奴というのがなんなのか聞き返すこともせず、捲し立てるように話始めた。
「『音楽室の深夜の演奏』っていうのは、怪談としては割と陳腐なんだけど。結構根拠のある話でね。部活動の用事で夜遅くまで残った生徒が、ピアノの演奏を本当に耳にしたっていうのがあるわ。本人いわくに、他のどこでも聞いたことがないような、奇怪な音楽だったそうよ」
それは多分、昔からピアノの稽古をやっている千子が一人で練習をしていたのだろうと思う。奇怪とまで言われては流石に滑稽だった。
「演奏しているのはもちろん死者ってことになってるんだけど……。強いていうならこれが一番『ありそう』かな。あとは『西校舎三階トイレの怪』だけど、これは扉が壊れて中に閉じ込められた生徒が、夜中になるまで出て来れなかったことだけが裏づけね。まぁ下の学年の子たちにはそんな現実的発想はないんでしょうけど。『プールから延びる手』は、一昨年だったか夜中のプールに忍び込んで、眠いのに一人で泳ぎ回って溺死した子が本当にいたのよ。気の毒にね、でも本当だったらどんなに素敵かしら。『首なしバスケットボーラー』これは相当眉唾な話で、夜中体育館に行ったら自分の首でドリブルしてる首なし男が見られるって言う奴ね。グロいから変に広まったけど一番『ない』のはこれ。最後の『調理室の包丁』っていうのは、調理実習で包丁を出しっぱなしにして帰ってしまうと、夜中にそこにやって来た生徒を、包丁が一人でに刺し殺しちゃうっていう奴だわ」
流暢にそこまで話し終えて、周防は反応をうかがうようににこにことこちらを見やった。なんともいえない。たっだよっぽどそういう話が好きなんだろうということは伝わった。しかし周防も周防だ。『ありそう』とか『ない』とか検討しながら、こいつはそれら全てがでたらめであることを知っている。その癖、人に話す時はきちんと根拠を与えながら丁寧な説明を施すのだ。これは広まるのも仕方がない。それにしても。
「六つしかないな」
「うん?」
「七不思議なのに。それじゃ六つしかないじゃないか。どういうことだ?」
おれが尋ねると、周防は一人にやりと不敵に微笑んだ。
「決まってるじゃない。七不思議の七つ目は欠番よ」
「欠番?」
「そう。欠番。この七つ目は謎に満たされているの」
「謎に満たされているって……話がないならそりゃ六不思議じゃないか」
「だから。その話がなんなのかっていうのが既に不思議なのね。言い換えて見たら、『七不思議』っていう怪談セットの存在そのものが、七不思議の七つ目って言うことよ。分かる?」
分かるかそんなもん。こいつの口調は妙に大人びている。おれからしたら宇宙人の言葉みたいだ。しかし、大方のニュアンスは把握した。
「七不思議を七つとも全部知っちゃうと、死ぬとかそういう奴なんだな? つまり」
「そういうこと。七不思議を全部知っちゃうと、『何か』が起こるの。それはまぁその、死ぬとか安直な奴もあるけど……。たいていの場合は七不思議を全部知ることとは別に、何かの条件が加わるわね。そうじゃなきゃあたしも多分今頃死んでるし」
「その条件って言うのは?」
「さあ。夜の学校に訪れるとか、七つを知ってしまってから七日以内に七人の人にそれを広めなかったらとか、色々あるけど……。一番おもしろいのは、七つの不思議を網羅した六年生が、卒業式の日に桜の木の中に引きずり込まれるとかいう奴ね」
「それのどこがおもしろいんだ?」
「桜の木、は七不思議のファーストナンバーよ」
そう言って周防は企むように笑った。おれは直感した。これに限っては周防の完全オリジナル怪談だ、と。
「七不思議を一巡り網羅した人が、七つ目の不思議によって、一つ目の不思議を実践することになる。……いい感じに一周してるじゃない」
「そうだな」
生返事を返したところで、チャイムが鳴り響いて先生が入って来た。この人はいつも同じタイミングだ。図ったように同じなものだから、千子に行われるいじめがばれないんだろうなと、なんとなくおれは千子の方を見た。
周防と話をするおれをじっと見詰めていた千子は、目が合うなり嬉しそうに微笑んで目配せをした。
舌打ちする。
昼休みに会おう、といっていた。
そんな漫然とした約束をされたところで、どこでどうやって会うのか指定してくれなければおれとしてはどうしようもなかった。あれから追加の指示もない。当たり前だ、おれはあいつに話しかけていないし、あいつから話しかけられれば無視するか茶化すか突っぱねた。
そんな訳で。おれは周囲から謙譲させた四人前のアジフライを平らげたあと、少しもたれた感のある腹をさすりながら学校の裏庭に向かうことにした。教室で千子と話がしたくないというのがまずあったし、土の下に埋まっている高橋まゆみのことが気になった。
高橋まゆきの行方不明については、朝のホームルームでも取り上げられた。保護者から連絡があったというのだ。確かに昨日の夜寝付いたはずなのに、朝起きるとベットから娘が消えている。もともと娘は夜中にであるく悪癖があって、叱っても訊かなかった。今度こそ誘拐されたのではないか、などと両親が心配しているらしいことを担任教師は語った。その哀れな娘は今は桜の木の下で眠っている。一原千子の突拍子もない提案によって、だ。
あからさまに掘り返された感じのする裏庭の桜の木の前に立ち、おれはよくもばれなかったものだと感心していた。千子の幸運は本物だ。あれだけどうどうと夜中に忍び込み、穴を掘り返し死体を詰め込んだというのに、目撃者一人いやしない。仮に世界が滅んだところで千子一は生き残るだろう、おれは思う。そして夢想する。たった一人誰もいなくなった後の世界で、だいちゃん、だいちゃんと言いながらおれを探してふらついて回る、不安に溢れた千子の姿を。
「だいちゃん。だいちゃん?」
しばらくすると、探しあぐねたような千子の声がこちらにとどろいた。おれがびくりとしてそちらを振り向くと、千子は満面の笑みを浮かべてこちらに飛びつく。呆然とただ突っ立っていたおれはそれに反応することができず、たまらず押し倒されて背中を土に、頭を打って倒れてしまう。
「だいちゃんっ! 良かったっ! やっぱりここにいたんだねっ!」
無邪気に微笑んで、まるでテディベアか何かを抱くように抱擁する千子。妙にふわふわとした感触が伝わって、おれは一瞬何もできなく硬直した。柔らかい体。おれは千子の体の形に想像をめくらせる。そしてそんなことを考えていることがおぞましく感じられ、思わず千子の体を跳ね飛ばした。
「あっ。やぁっ」
情けない声をあげながら、跳ね飛ばされた千子は土の上を転がった。そして何故だか照れ笑いを浮かべながら立ち上がり、「だいちゃん。酷いよぅ」と無邪気な口調でそう言った。あんなに飛びついたら跳ね飛ばされることくらい分かっていただろうに。おれは舌打ちをして、千子の頭をこぶしでぐりぐりとこね回した。
「いたいっ。いたいよだいちゃんっ。ほんとにいたいっ」
「痛くしてるからな」
言いながら。嫌がる千子の頭を執拗にこねまわす。「いたい。いたいっ」いいながら的外れに両手を振り回す様子がおもしろく、おれは少々調子に乗ってぐりぐりやってしまう。
「や。やめてっ。いたいっ、いたいのっ」
言いながら涙目になっている千子に気付き、おれは仕方なく手を引いた。千子は自分の頭を撫でながら「酷いよぅ……」子犬のように口にして、唇を尖らせてこちらを見詰める。おれはへらへらと笑ってやった。
「だいちゃん。酷すぎる」
「良いじゃねぇか別に。おまえがおもしろいんだから」
おれは言い、昨日の桜の木を手でぺしぺしと叩いた。
「ばれてねぇみたいだな、これ」
そういうと、千子は気を取り直したようににっこりと笑んで
「うん。やったねっ」
と、なんでもないことのように言った。
こいつからすれば。これが発覚し、捕まってしまうなんていう発想はそもそもありえないのだろう。自分のやることなすこと全てが上手くいくと、子供のように考えられる。おれは鼻を鳴らしながら
「次はどうするんだ?」
とそう尋ねた。
「七不思議っつっても色々あるだろ? 次は何を実践するんだ?」
そういうと、千子はうきうきとした表情で、今まででもっともよどみのない笑みを浮かべた。どうやらおれの方からそれを持ち出したことが嬉しくてたまらないらしい。「早く言え」ぶっきらぼうに一言促してやると
「ええと……次はね……たぶんね……。……なんにしよう?」
そう言って首を傾げる。おれはその場でずっこけそうになった。
「てめっ。決めてねぇのかよ」
「だっていっぱいあるし。トイレの花子さんとか。階段の増える奴とか……」
ええと。ええと。千子はたどたどしく話し始める。
「人体模型に本物の心臓があるって言う奴でしょ。それからそれから……屋上にも何かありそうだよね? 他には……七不思議を全部知っちゃったら、全校生徒がみんな死んじゃうっていう奴とか」
「おまえなぁ……」
下調べも何もあったもんじゃない。友達のいないこいつなら仕方がないとは思うが、それでどうして七不思議でやろうと思ったのだろう。
「良いか。七不思議っつってもまぁ。話自体は何十個とあるらしいんだが、その中でも決定版七不思議というのがあってだな」
おれは先に周防から訊いた受けおりを語る。千子は目をぱちくりさせてそれを訊いていた。
「こいつらがまぁ。七不思議の中でも決定版っつーか。まだ『ありそう』な根拠のある話ってことらしい」
「ないよ」
おれが言うと、千子はぴしゃりとそう断言した。
「どれも、ないよ」
意外に思った。どうしてそう強調する必要があるのだろう。千子はすぐに表情をいつものにこにこ顔に戻して
「中でもできそうなのは『音楽室の深夜の演奏』だね。わたしピアノ得意だし」
「アホ。おまえのはへたくそだ」
おれがそう言って切って捨てると、千子はマジに悲しそうな顔をしてみせた。それにしたって、ガキっぽく頬を膨らませてうつむくのだからたわいもないが。
「で。どうするんだよ、その。具体的に」
「あのねっ」
おれが尋ねると、千子は目を輝かせて
「前もってわたしが演奏を録音しておいて、音楽室に隠すの。それでね。通りかかった人がその演奏の音に気付いて、なんだろうって音楽室を覗いたら、ピアノの前に死体が座ってるの」
どう? 千子は嬉しそうにそう説明した。へぇ。おれは感心する。千子にしては粋なことを考えたものだ。
「わたしたちも一緒に忍び込んでおいて、人が入って来たらプレイヤーはその時に止めれ良いでしょ。それで。来た人が誰かを呼びに言っている間に、わたしたちは逃げるの」
周到な計画とは言えそうもなかったが、千子が考えたにしては上出来だった。おれはふんふんそれにうなずいて見せて、それから首を傾げて
「問題は。その死体っていうのをどうやって確保するかだな」
そう言った。すると千子は意外そうな顔で「へ?」と口を尖らせる。しばらくおれと二人、目を見合わせる。すると
「にーちゃん達。何やってるの? かっぷる?」
アホみたいな声がとどろいて、振り返るとそこには裏庭まで一人で訪れたらしい、低学年くらいの男子がこちらを指差している。抜け落ちた前歯が偉く栄えたアホ面で、たどたどしい歩みは未熟児のようにも見えた。
千子の表情が上機嫌に歪む。優しげな顔を浮かべて、その低学年の子に近付いた。膝を折り曲げて視線を合わせると、ポケットから縄跳びを取り出す。
「……? 縄跳びやるの?」
千子はにこりと微笑みながら、縄跳びでそいつを一息に絞め殺す。終始笑顔で、惚れ惚れするほど見事な手際で、男の子は声をあげることさえできなかった。
「これ。どうしようか」
そう言って、千子は青くなった男子の死体をぞんざいに指差した。
「どうするかって……おめぇ……」
おれは愕然としてそいつに近寄った。まだ暖かい、しかし信じられない程真っ青な顔。もともとしまりのない八つやそこらの子供の顔が、だらりとずるりと、すげぇ不細工に歪められていた。力なく開いた口元は、まるで弱々しく助けを求めるようで、おれは背筋に冷たいものを感じた。
「死んでる……んだよな?」
おれが尋ねると、千子は自信ありげに「うんっ」と答える。
「首にはたくさん脈があってねー。しっかり紐を巻いてあげれば、圧迫されて血がとまって、窒息するより先にすぐ死んじゃうんだよ。だから顔が青くなるんだって」
お気に入りの知識を披露したように、千子は一人照れたようにえへへと笑う。おれは突如現れたそいつの死体を胸に抱きながら、誰かに見られてはいないだろうときょろきょろと周囲を見回す。誰もいない、ほっとすると同時に、すぐ傍にいる千子に恐ろしいものを感じた。
「それにしても……カップルかぁ。カップル。ふふふ」
そう言って千子はくすくすと上品に微笑む。気持ちが高ぶっているのか、いつも以上にテンションが高い。おれはぞっとした。こいつはこんなに上手く人が殺せるのか、と。
脈を止める。そんな簡単に上手くいくものではないだろう。ただ調べれば良いってものじゃない、相手がいくらか年下だってことを差し引いても、いくつかの偶然に助けられてようやく成立することのはずだ。
おれは千子の無邪気な笑みを見詰める。まじまじとそちらを見るおれに対して、千子は目をぱちくりさせるだけだった。溜息、そして舌打ち。と也にたった千子に強い不信感を覚えながらも、おれはすぐに思考を麻痺させた。
おれは立ち上がって男子の死体を蹴り飛ばすと、せいぜい人目につかないように木の隙間に隠すようにした。そして立ち上がる。
「行くぞ」
おれが言うと、千子はどこに? 首をかしげた。
「音楽室。演奏を録音するんだろ?」
「プレイヤーは?」
「借りれば良い。先に行って練習してろ」
おれがそういうと、千子は少しうつむいて顔を赤くし、「う。うん」とぎこちなく応答をした。首を振ってからきびすを返し、おれは職員室に音楽の録音機をとりに走る。
教室に忍び込んで。堂々とくすねて、立ち去って
誰も気付いていないようだった。誰とも目を合わせないようにすればこんなのは簡単だ。仲間と何度か万引きをこなしたこともある。いつも仲間の誰かが捕まってとばっちりを食うことになるのだが、それでもスリルのある遊びは良い。悪いことをしていると思うと心がぽかぽかしてきて、自分がなんでもできるような心境に陥るのだ。
今もそんな感じだ。
相手が千子だとは言え一度約束してしまったことだし、そうやって自分を震えたたせなければならなかった。平気な顔で人を殺す千子を見ていると、危なっかしくて見ていられないような心境になる。人ってのはもっときちんと計画的に殺すものだろう……などとようやく落ち着いた心でぶつぶつつぶやきながら、おれは音楽室にたどり着き、なんとも間の抜ける演奏を耳にした。
「↑↓♪←→→←♪↑↑↓↓→→←♪! ♪♪♪♯♯//\\/↓↓→♪! ♪! ♪! →→→→→→♯♯♯\\\↑↑→♪♪♪!」
なんとも言いがたい、というのが千子の演奏を耳にした奴の素直な感想だと思う。そこには曲というべききらびやかさは微塵もなくて、リズムもくそもないそれは、格闘ゲームのコマンド入力みたいに冷淡で無機質で、それでいてどこか不安定な印象も抱かせた。
「あいっかわらずへたくそだなぁ」
いいながら。おれは音楽室の扉を開いた。
「あ。だいちゃん」
千子は嬉しそうに練習を投げ出してこちらを見やった。それから不服そうに少々眉を顰めると、唇を尖らせて
「えーでも弾けるようになったんだよ。これなんかショパンの……」
言いながら淡々と、ブラインドタッチでもするようにピアノを弾き鳴らしてみせる。音楽教師が眉を顰めて『個性的ですね』とだけ言ったのも頷けた。こいつの演奏は正確そうで少しずつずれている、自分のペースで指を動かしているだけなのだ。
「そんなしょぼい演奏をされたら、ショパンもショボンだろうな」
おれが意味ありげにすまし顔でそう言うと、千子は無邪気に首を傾けた。それから目をぱちくりさせてこちらを向く。おれは表情を気取らせないようにそっぽを向いて、「なんでもない」とそう言った。
意地でも解説してたまるか。
「とっとと録音しろよ。昼休みももうないし」
そういって録音機をもたせると、千子は「うんっ」と元気良く返事をした。それから録音機をわちゃわちゃといじくりまわす。神妙な顔をしてカバーをはずし、たどたどしく内部を分解し始めたところでおれが取り上げた。
「待ってろ」
おれは録音機の電源を入れて、千子のピアノの前においた。目配せをすると、千子はにこりと微笑んで鍵盤の上に指を置く。
気が抜けてどこかずれた、遅々としたリズム。鍵盤を叩くのが楽しいだけの子供のような表情で、千子はどこまでも楽しげに鍵盤をたたく。生まれた時から耳の聞こえない奴がピアノをやると、こんなのっぺらぼうな演奏になるのだろうと思われた。
「また。放課後に」
その時はそう言って千子と分かれた。おれは無言で頷いて千子よりも先に教室に戻る。一緒に帰っているところを見られるとおれとしては具合が悪い。千子の方も最早そういった理屈には頓着しない様子だった。単に、実際にそう言われて、怒鳴られたり殴られたりするのが嫌だったのかもしれない。だとすれば随分と利巧になったものである。
教室に戻ると待ち構えたように周防がこちらに微笑みかけて、「どこに行ってたの?」と一言微笑んできた。無視する。周防は不服そうに口を尖らせることをせずにすぐに自分の読書に戻った。さっきまでの本とは大分気色が変わって、やたら顎のとがった男が半裸で肩を寄せ合うイラストのものだった。
何がおもしろいんだろう。本なんてジャンプくらいしかおれは読まない。
「あれ。イチハラ。どこ行ってたの~?」
クラスの女子の一人が、教室に帰還した千子に高圧的に話しかけた。教室中の視線が千子のほうに向けられる。どきりとするが、おれは気取られないようにそっぽを向いた。
「別に。えへへ。なんでもないよ」
いつもの媚びたような笑みを浮かべて、千子は端的な返答を寄越した。クラスの女子がいぶかしげな顔でそれを覗き込む。おれは一人でほっとして息を吐いた。おれの名前を出されると十中八九面倒なことになるからだ。
千子は教室中の顔色をうかがうように視線を泳がせ、これ以上の嫌がらせがないことを確認すると、おずおずと自分の席に腰掛けた。そして何か書き物でもするのだろうか、買いなおしたノートを取り出して筆箱を開く。
「ひゃっ」
間抜けな声がした。
あけられたチャックの隙間から大量の砂が吐き出され、砂の中から大量の虫がうごめいた。教室が爆笑に包まれる。おれの隣では周防が本を閉じて笑っていた。こんな風にも笑うんだなと、おれは無感動にそう思った。
放課後。仲間との遊びを断って裏庭へ向かう。カードショップで遊戯王をやらないかという誘いだった。
そういえばあのカードゲームは。五年生の時千子に一緒が一緒にやらないかと持って来たことがあったっけ? どこで手に入れたのかは知らないが、取り上げるようなことはせず、ゲーム自体は好きだったから何度か相手をしてやった。一度も勝たせてやらなかったものだが、それでも毎日のように誘いをかけてきやがって、怒鳴って追い返すのがうっとうしかったのを覚えている。だからおれは、あのカードゲームがもうあまり好きではなかった。
「だいちゃん」
裏庭でそんなことを思い出していると、千子の弾んだ声が耳朶を打った。おれは勤めて面倒くさそうに振り返る。
「今度は何をやるんだ?」
おれが尋ねると、千子は何やらたくらむように微笑んだ。下校中に足でも引っ掛けられたのだろうか、痛々しく膝小僧をすりむいている。おれは傷への視線を気取らせないように千子の顔に向き直った。千子は照れたように微笑んで一冊のノートを取り出した。
「はいこれ」
「なんだ?」
ノートを受け取る。他の女子が使うファンタジーなものと違って、随分と機能的な代物だ。
「けーかくしょ」
そういうので、おれはノートの一ページ目をめくって中を見る。印字のようでいて、全体が少しずつ縦に伸びた癖のある文字だった。
『計画書
桜の木の下の死体 実行済み。高橋まゆみさんを埋めた。
音楽室のピアノ 実行中。演奏も録音済み。
夜のプールの手 まだ。死体をプールに放り込む。たぶん来年までばれない。
調理室の包丁 包丁を胸に刺す。誰でも良い。
西校舎三階トイレの花子さん 便器に顔を突っ込む。
首なしバスケットボーラー 首を落としてボールと混ぜておく
以上要検討』
文字は綺麗なのに全体のレイアウトはごっちゃんこで、分かりづらいことこの上なかった。おまけに端々に意味不明なメモ書きまでほとばしっている。はっきり言って何書いてるのか分からなかったし、胸とか刺すとか包丁とか実行済みとか要検討とか、読めない漢字、分からない言葉もかなりあったが、それを口にするのは千子に負けるようなのではばかられた。
「このトイレの花子さんってのはなんだ?」
おれが千子に尋ねると、千子は意外そうな顔をして
「トイレの怪談だったら花子さんでしょう?」
持ち前の単純な思考回路を端的に表現し、それからえへへと笑って
「授業中ずっと考えてたんだぁ。えへへ、すごいでしょ」
ようするに興奮が抑えられずに書き物をやったということらしい。そしてわざわざそれを見せてきたと。おれは呆れた思いで千子にノートを返してやると、ぶっきらぼうにこう言った。
「じゃあ……。今日はどこまでやるつもりなんだ?」
おれがそう尋ねると、千子はにこにこ顔で元気よくこう返事をした。
「全部っ!」
真っ先に向かったのは使われていない学校のプールだった。
内の学校のプールは校舎から少し離れた場所にあり、校門を出て歩道橋を一つわたったところに存在していた。いつも水着に着替えてからタオルを巻いて移動しているので、下では誰かロリコンが見張っているんじゃないかともっぱらのうわさである。それを理由に、大してかわいくもない癖プールの授業を欠席する女子の多かったことを記憶していた。
千子は天真爛漫に歩道橋を駆け上り、プールの前まで来ると被害者を物色し始めた。下校中の生徒の中から御しやすそうな下級生を見繕うなり、膝を丸めてにこにこ顔で勧誘を始めた。
「お菓子あるから。お姉さんと一緒にプールの方で遊ばない?」
言っていることはまさしく不審者のそれだったが、まさかこんなアホ面の上級生が自分を殺そうとしているなどとは思うまい。六年生のお姉さんに誘われた中学年らしき坊主頭は、だじだじしながら顔を赤らめて「はい」ぼそぼそ返事を口にする。千子の外見は同級生から見ても愛らしい。年下のものからしたら、さぞかし美人で素敵なお姉さんに見えたことだろう。
顔を真っ赤にした坊主頭は千子に手を引かれてプールの脇まで連れて行かれる。そこが物陰になっていることを千子に伝えてやると、千子はポケットから縄跳びを取り出して坊主頭の首に巻きつけた。
首にロープを巻かれて数秒間ほど、何がなんだかという顔をしていた坊主頭だったが、ぐいぐいと容赦なく首を絞め続ける千子を見ながら状況をようやく理解したらしい。声をあげようとして口をぱくぱく開閉させ、両手を見開いて白目を向きながらぼろぼろと涙を流す坊主頭だったが、そんな訴えは千子の前では悲しくも無意味だった。
おれはその光景をまじまじと見詰めた。顔を真っ白にして暴れまくる坊主頭と、いつもどおりのにこにこ顔で首を絞め続ける千子の姿。おれはその時、自分がとてつもないものの隣を歩いていることを思い知った。それはあまりにも遅い気付きだった。いや、気付いてはいたのだ。ただ、目を逸らしていただけで。
両手をばたつかせ、精一杯の抵抗をする坊主頭に、千子は少しばかり戸惑っているらしかった。「だいちゃん」千子は困ったようにこちらを見た。「手伝って」おれはそっぽを向いて目を逸らした。千子はいぶかしそうな顔を浮かべるが黙殺するしかない。ただ胸の中で、早く終われ早く死ねと呪文を唱えるばかりだった。
「いいもん」
千子が拗ねたかのようにそう口にした。坊主頭の暴れる右手に頬を引っかかれながらも、千子は坊主頭の首を絞め落とすことに成功する。ぱたりと力を失った坊主頭を見て、千子はどこかしら淡々とした声色で「終わった」と一言口にすると、立ち上がって一息吐いてから坊主頭の足を掴んで歩き始めた。
「大丈夫か?」
おれは思わず声をかけた。千子の息があがっていたからだ。随分と疲弊したように坊主頭の足を掴んで、しんどそうに引きずって歩いている。千子はおれの方を見て笑顔を浮かべると、「大丈夫」とにこやかな顔を浮かべて歩き始める。幸いにもといって良いのか、既にあたりに人はおらず、千子のその行為には誰にも見られていないことだろう。千子の幸運のたまものだといえた。
おれは終始その作業を見守り、手伝うことをしなかった。千子は時々頭を振るったり息を上げたりしながらも、どうにか死体をプールの間際まで運び終え、おれの方を向き直ると媚びた笑顔でこんなことを口にした。
「せーので一緒にプールに落とそうよ? ね?」
おれはそれに付き合ってやることにした。足を持つ千子に対しおれは坊主頭の方を持ち上げ、その真っ青になった表情を間近で拝んだ。突如訪れた理不尽の化身に絞め殺された哀れな少年。こいつはたぶん、何を思いながらくたばれば良いのかも分からなかったことだろう。そう思えばおれは哀れで仕方がなかった。
「せーのっ」
隣で笑顔を浮かべながら千子が言った。千子は自分が言い終わるよりも少し早めに足を投げ出し、おれがそれに遅れる形で坊主頭をその手から離した。
ざっばーん。汚い水飛沫が跳ね上がる。千子はぎゃーぎゃー言いながら逃げ惑っていた。
二人で並んで校舎へと向かいながら、おれは疲労を浮かべた千子の顔をうかがった。
学校であれだけこっぴどくいじめられ、時には裸にされかけたり時には給食を頭からぶちまけられたりもした。酷いいじめだ。おれは思いながらもそれを一人で傍観し続けた。酷い酷いと、あまりに酷いと憤慨に駆られながらも、それでもおれは一人憤慨する自分に満足しながら、いじめを受ける千子を見続けた。
そして気がつけばおれも千子をいじめる一員みたいになっていて。自分から進んで手を出したりはしなかったものの、教室で攻撃が始まればなんとなく一緒に笑って見せたり、流れによっては悪罵を吐いたりもした。それは仕方がないことだと思い続けたし、今でもそうだと信じている。信じ込ませている。
今もそうだ。
千子はあまりにもあっけなく人を殺す。もう三人目。三人殺したんだから、後四人も簡単に千子は殺すんだろうとおれはなんとなくそう確信する。隣でそれを見やりながら、時におぞましいものを感じながらも、ただ一人それを傍観し続ける自分にもおれは気付いていた。
「なぁ。千子」
思いつめたように小さな歩幅で歩く千子に、おれは思い切って声をかけた。おれに話しかけられたのに気付くや否や、千子はすぐにいつもの笑顔を浮かべ、良く通る声で返事をする。
「なぁに?」
おれに向けられる表情はいつも、無邪気で少しばかり媚びた感じのする笑顔。この笑顔をあまり好きだと思わなくなったのは、いつ頃からだったろうと思いながら、おれはなるだけ表情を超えずにこういった。
「もうやめないか?」
千子が足を止めた。
立ち止まり、千子は信じられないものを見るようにまじまじとこちらを見詰めてくる。ぞっとするほどどす黒く、凍えてしまいそうに悲しげな表情だった。
「なんで?」
震えた声で千子は言った。
「何でそんなこというの? なんで?」
聞いたこともない声。見たこともない千子の表情。絶望したように伏せられた瞳。捨てられる寸前の子供のようなその表情は、おれに言葉を口に出す余地を与えない。ただその場で凍りついたように立ち止まり、十年以上前から知っているはずの白い顔を見続けるしかできなかった。
「約束、したのに……。やっぱりだいちゃんは……」
「違う」
おれは言った。
「違うんだ。……だから」
頭の中では言いたいことは山ほどあった。ごちゃごちゃと様々な感情がおれの小さな体を渦巻いて、しかしどれだけ多くの想いを秘めていようとも、それを表現する術だけがぽっかりと抜け落ちてもどかしかった。何度も言いよどむ。何を言えば良いのか分からず言いよどむ。そして千子の目が完全に伏せられる直前に、なんとか絞り出した。
「疲れてる……と思ってさ」
にへら。おれは千子のような笑みを浮かべる。
「だからその……明日でも良いかなって。思って」
そういうと千子はうつむいて、それから無理に作ったような笑顔でこちらを向いた。
「平気だよ」
見たくないと思った。こんな笑顔ならいつもの顔の方が百倍マシだと思った。しかし千子は、微笑みを浮かべる意外の自分を今のおれには見せたくないようだった。
「平気だよ……平気だから。だから」
そう言って千子は歩き出す。ついていくべきか、ほんの一瞬、おれは迷った。
料理室で千子はもう一人殺した。
安全な被害者を見繕う暇もない。道具の点検だかなんだか、何らかの用事で一人残っていた家庭科教師に千子は笑顔で近付くと、傍においてあった包丁でその腹を刺し貫いた。
家庭科教師は驚いたように悲鳴をあげて、その場で千子の体を突き飛ばす。動揺を浮かべながらそれでも部屋から出て行こうとして、滴る自分の血液に足をとられてすっ転んだ。中年太りした体が地面に叩きつけられる。腹の浅いところに差し込まれていた包丁がぐちゃりといやな音をたて腹の奥まで食い込んで、内臓をつぶされた芋虫のようにのたうった挙句、そいつは死んだ。
千子は太った体を苦労しながら仰向けに翻す。「手伝ってよ、だいちゃん」そういわれたが、おれは脚がすくんでその場から動くことさえ叶わなかった。
三階の女子トイレで千子は二人殺した。
五年生らしき女子の二人が中でたむろして漫画を読んでいた。トイレなんかで遊ぶ下品な二人を見るにつけ、千子は家庭科室から持ち出した包丁で一人の首筋を切り裂いた。
鮮血が迸って女子トイレの真っ白い壁を真っ赤に汚す。何がなんだか分からないとばかりに呆然とするもう一人の首を千子は縄跳びで絞め始める。
その間に逃げれば良かったのに、切られた方は果敢にも首筋を押さえて立ち上がった。千子はすぐに反応する。包丁を持ち上げた途端、すぐにそいつに飛び掛った。これまでだ。千子はそのあどけない下級生の顔を包丁で刺し貫いた。
首を絞められていたもう一人は完全に腰を抜かしていた。何もできずに、ただ漠然と殺人鬼と化した上級生を見詰めるばかりだった。千子はいそいそと縄跳びを拾い上げる。もう一度首を絞めにかかったその時でさえ、千子はいつもの笑顔を絶やさなかった。
千子にかかればゲームのように人は死ぬ。抵抗できず、してもそれはすぐに失敗し、天からのあらゆる再拝は無邪気な理不尽の化身を味方するようだった。
二人の死体はそろって便器に放り込まれた。片方は頼むと千子に言われたが、おれは何も答えることができなかった。その場で座り込み、様子を見ながら一人ただ震えていた。
「ここが一番大変なんだよ」
言いながら、千子が連れて来たのは体育館の前だった。
そこまでの道中。おれは千子を相手に一言も口を利かなかった。わめくことも暴れることもできずに、いつも千子がおれにしているように、従順に後ろをついて歩くことしかおれにはできなかった。千子は悲しそうに後ろを振り替える。そしていつもどおりの笑顔を浮かべて、おずおずとこう切り出すのだった。
「だいちゃん。手伝ってよ」
おれは立ちっぱなしで何も答えなかった。おれの反応を見て、千子は分かっていたというようにきれいに微笑む。
その時におれが感じたことは、今にも泣き出してしまいたくなるような恐怖であると同時に、自分がとてつもなくちっぽけで、何もできない人間であるような錯覚だった。
「じゃあ。行くね」
言って、千子は手にした包丁をぎゅっと握り締める。赤い飛沫がぴちゃりと地面に落ちた。
体育館の扉を開く。
そこにはあつらえたように六人の男子がバスケットボールをしていて、千子を喜ばせたようだ。堂々とその間に割ってはいる千子の後ろ姿を、おれは恐れながら見守った。
「なんだよ」
包丁を持って現れた少女に、六人の男子はボールを操る手を止めて注目する。次の一言が発せられるのを待たずに、千子は傍にいた男子の首に包丁を突き刺した。
千子は瞬く間に二人目の男子を切り捨てる。首筋を切られた少年は、驚きながらあまりのショックにうずくまることしかできない。残りの四人が慟哭する。千子は休まない。三人目を殺そうとする。
その時、おれは初めて千子の失敗を見た。三人目の男子に殴りかかった千子の腕を、後ろから別の男子か取ったのだ。包丁を奪おうと飛び掛ったそいつに千子は戸惑い、矛先を変えてそちらを切り捨てようとするが、間に合わない。殴り倒される。
囲まれるまでそう時間はかからなかった。
包丁を振り回して暴れ狂う千子を前に、四人の男子は懸命に立ち向かって行った。頬を切り裂かれ、首のすれすれを包丁が舞いながら、四人のうちの一人が千子の右手を掴んだ。包丁を奪取する。
千子がこちらに視線を投げた。
何もできず。体育館の入り口でただ経過を見守っていたおれの方を、千子は見ていた。その視線に気付いておれはぞっとする。 『だいちゃん』
そう言って助けを呼ぶと思っていた。
『だいちゃん。助けてよ、だいちゃん』
しかし千子は何も言わなかった。これまでの楽しい遊びを楽しい遊びのままで終わらせるように、恐慌する男子に取り囲まれながら一人で微笑んでいた。それは酷く純粋で、しかし少しだけ残念がるような、見ているだけでいたたまれなくなりそうな微笑みだった。
足元には、あつらえたように金属のバッドが転がっていた。
野球部の誰かが出しっぱなしにしていたのだろうそれを持ち上げて、おれはその場を立ち上がった。そして絶叫をあげながら体育館に直撃する。包丁を手にし、今にもそれを千子に向けようかという男子生徒の集団に、雄たけびをあげながら突っ込んだ。
「うわぁああああああああああぁああーーっ!」
四人がかりで千子を一人、その場で羽交い絞めにしていた彼らの頭を、おれは順番に一つずつ叩いていった。がつんっ。がつんがつんっ。腕が折れそうに強い手ごたえがして、すぐに三人がその場で倒れ付す。包丁を持っていた一人がおれに向かってそれを突きつけた瞬間、おれは引き戻したバットを横なぎに振りぬいた。
今度は嫌な手ごたえがして、男の頭がぐしゃりと裂けた。からりと乾いた音が響き渡り、男の手から包丁が落ちる。そしてぱたりとその場に倒れ付した。
「だいちゃんっ!」
柔らかい体がおれの胸の中に突っ込んだ。それから体温を確かめるようにぎゅっと抱きしめてくる。汚血に塗れた小さな頭を、精一杯おれの体に押し付けてきた。だいちゃん、だいちゃん。甘えるように、心の底から嬉しそうに、千子はおれにしがみ付いた。
「だいちゃん。……ありがとう」
そう言って千子はずるずると嬉しそうに泣き始めた。泣きながら笑う。えへへと媚びたように微笑んでしがみ付く。おれは向かい合わせるように、千子の小さな肩をその手で掴んだ。そして喜びの気持ちから嬉しそうにしがみ付いてくる千子に向かって、こう言った。
「離れろ」
千子が顔をあげる。おれは千子の体を力いっぱい突き返す。千子はたまらずその場に体を投げ出してしりもちをついた。
「……だいちゃん?」
様子をうかがうような顔で、千子はおずおずとこちらを覗いた。おびえたような目、媚びたような笑顔。今までと何も変わらない、なついてくる妹のようなその表情。
「狂ってんだよ。おまえはっ!」
千子の体がびくんと震えた。
おれは黙って背を向けた。そして何も言わずにバットを放り出し、吐き出しそうな思いをこらえてその場を立ち去る。
「だいちゃん?」
おれはもちろん、それに何も答えることができなかった。
日のくれそうに陰気に暗い空の下。かぁかぁと、カラスが嘲るような鳴き声をあげる。気がつけば、泣き出すこともできずに、おれは何かから逃げるように必死で走り出していた。
人を殺したかもしれない。
漠然としたその実感は、逃げるようにして誰もいない家に帰りついたその時に訪れた。
がつんと両手に響くようなその感覚は、確かに人一人の脳髄を砕いた時のものに思えた。横なぎに振られる金属のバット、ひしゃげる頭蓋骨、響くような手ごたえ。間違いない、おれは確かに一人人間を殺している。トカゲでもバッタでも鳩でも野良犬でもない、自分と同じ姿形をした人間だ。
「うわぁああーっ」
おれは悲鳴をあげてその場に突っ伏した。何がそんなに恐ろしいのかも分からない。それは漠然とした恐怖だった。自分が何かとんでもなく取り返しのつかないことをしてしまったような、気が狂うようなそんな感覚だった。
おれは人殺しだ。人殺しのおれはいったいどうなってしまうんだろう? このままどこに行ってしまうんだろう。
千子が今までしてきたことがどれだけのことだったのか、おれはようやく実感できた。そして腹の中から煮えたぎるような恐怖がせりあがってくる。おれはたまらず洗面所に駆け込んだ。
千子の媚びたような笑みが思い出された。
あの素朴そうな微笑の裏に、千子はどれだけの恐怖を抱え込んでいたのだろう。あいつはそんなもの微塵も考えさせなかった。何も感じないかのように楽しそうに人を殺して回った。狂っているようにも見えた。
その時、チャイムの鳴る音が家中に響き渡った。
おれはびくりとして玄関の方を振り返る。まだ両親が帰ってくるには早い時間だ。おれは恐る恐る玄関に近付く。そして覗き穴から向こうにいる人間の顔を覗く。
「だいちゃん」
一原千子がそこにいて、こちらに向かって媚びたような顔で微笑んでいた。
「だいちゃん。あそぼ」
「帰れよ」
おれは一言そう口にした。そう口にするだけで、その場から動くことは叶わなかった。ただ扉の前に突っ立って、向こう側にいるとんでもない奴に恐怖する。千子は怯まない。怯まずに照れたように笑って切り出した。
「最後の七つ目をやりに行こうよ。さっきの男の子たちもね、すっごく怖かったんだけど、だいちゃんのお陰でちゃんと殺せたよ。あのね、これから行って全員の首をのこぎりで切り落とすの。それでね、バスケのボールと混ぜてかごの中に片付けるんだ。えへへ。すごいでしょ? きっとみんなびっくりすると思うよ?」
狂っている。おれは思った。こいつは心の底から狂っている。こんなおぞましい台詞を吐きながら、当たり前のように微笑んで照れる千子のことが分からなかった。今までおれに向かって浮かべてきた、全ての無邪気な笑みが分からなくなった。
「おまえがなんで笑ってるのか分かんねぇよ」
おれが言うと、千子は意外そうな声で答えた。
「だいちゃんのためだよ」
迷いの無い言葉に、おれはぞっとするものを感じると同時に、何か鋭いものを胸に放り込まれたような気分にもなった。
「わたし、がんばったんだよ。わたしががんばるのは全部だいちゃんのためなんだよ。こんなものすごい遊びを考えたのも、だいちゃんが喜ぶだろうと思ったから」
こいつは何を言っているんだ。
「だいちゃん? 好きだよね。こういうむごい遊び、こういう残酷で危ない遊び。ちっちゃい頃、わたしがだいちゃんとずっと一緒だった時、だいちゃんはいつもそんなことをやってたもん。わたし怖かったけど、わたし嫌だったけど、でもだいちゃんは楽しそうだった。だからわたしはだいちゃんの為にこんなことを思いついたんだ。最後にまただいちゃんと一緒に遊べるかなって、がんばってたくさんの人を殺したの。だからね、だいちゃん」
それから千子はほとんど泣き出しそうに笑いながら、扉にすがりつくようにしてこういった。
「だいちゃん。また遊ぼうよ。昔みたいに、一緒に」
「帰れよ」
おれは言った。
「頼むから……帰ってくれ」
その時のおれはほとんど玄関に座り込んでいた。膝を抱えて一人震える。もう何も考えたくないと思った。
「どうして? だいちゃんこういうの好きだもん。だいちゃんは残酷なのが好き、だいちゃんは危ないのが好き、だいちゃんはむごいのが好き、だいちゃんは、だいちゃんは、だいちゃんは、だいちゃんは……」
狂ったように千子はそう言ってうめいた。自分の心臓を絞って出したような切実な声。それから千子は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに歪んだ声で、嗚咽を漏らすようにこう言った。
「だいちゃんは……ずるいよ」
おれは両目を見開いた。
その場で放心し、おれは動けなかった。ただ、間違っても千子から聞くことはないと思っていたその言葉に、全身を刺し貫かれたような気持ちになる。硬直し、何も言えず、言い返せないでいる内に、扉の向こうから声が聞こえなくなった。
確かに自分から追い返したはずなのに、おれは千子の方からどこか遠くへ行ってしまったかのような、そんな錯覚に陥った。
「なんなんだよ、クソっ」
ようやくそう言って頭を抱えられたのは、千子がいなくなって数時間ほどした時だった。
気がつけばおれは、玄関の前で膝を抱えたまま眠ってしまったらしかった。ただ、頭の中で男子生徒を殴り殺すシーンと、千子の照れたような笑顔がぐるぐると回っていたのは覚えている。小さな頃からのいくつもの思い出。時を経るごとに、その思い出の形は違うものになっていく。泣きながらついてくる千子にかまわず動物を殺して回り、自分の力を指し示したような気になっていた幼少の記憶。それから、年齢相応の照れの気持ちから、千子に強く当たってしまう自分の姿を何度も何度も思い出した。
「クソっ」
おれは立ち上がる。
「ちくしょう……ちくしょうちくしょう」
気がつけばおれは泣いていた。何に泣いているのかは自分でも分からない。泣きながら壁を殴る。ただひたすらに、周囲の扉や壁を叩きまくった。がたがたと激しい音が響いて家中にとどろいた。
あいつはこれからどうするつもりだろう。
七不思議の七つ目。それを行いにいったのだろうか。おれは思い出す。七不思議の七つ目。千子自身は七つ目についてどう言っていたっけ? 確か、七不思議の七つを全て知ってしまった時、全校生徒が死に至る、と。
まさか実行しないとは思えなかった。あいつ一人になったからと言って、ここでやめてしまうとはおれにはどうしても思えない。おれのためだと行って何人もの人間を殺してきた千子が、いまさら止まるものか。止まれるものか。
おれはどうしたい?
気がつけばおれは、そのまま靴も履かずに家の外まで飛び出していた。自分がどうしたいのか、それは分からなかった。ただ家の中に閉じこもっている訳には行かなかった。おれは走った。どこに行くかは分かっていた。学校の裏庭だ。
おれはどうしたい? 自分の中でようやく歯車がかみ合ったような音がした。そうだ、おれはあいつを止めなければならない。そんなことはしなくても良いと、そう言って千子から刃物を取り上げて、一緒にどこへでも連れて行ってやらなければならなかった。
たどり着いた学校の裏庭。千子は桜の木の前で眠るようにして座り込んでいた。
「千子」
おれはおそるおそる彼女に近付いた。自分が何をすれば良いのか、何をいったら良いのかは、既に分かっていた。おれは目を閉じる千子のすぐ傍による。そして気付いた。
千子の首からはだくだくと鮮血が流れ落ち、小さな顔は死人のように真っ白だった。
「ひっ」
夜の闇の中で気付かなかったが、千子の体には無数の刺し傷が刻まれていた。手首や胸元、腹などあちこち刺し貫かれている。自分で刺したのだろう。躊躇しながら何度何度も自分の体を刃物で刺して、どうすれば死ねるのかを模索し続けたのだ。
どうしてそんなことをした?
おれは思い出す。七不思議の七つ目のことを。そうだ。千子はこうも言っていたじゃないか。
七不思議を全て知った人間が夜の学校に行くと、死ぬ。
「千子っ」
おれは冷たくなった千子の体に飛びついた。そして搾り出すように口にする。
「ごめん……千子、ごめんよぉ……」
千子の体をその手に抱きながらおれは、まだ温かいその体が僅かでも震え、何かを応えてくれるんじゃないかと錯覚した。そうであって欲しいと懇願した。しかしどれだけ泣いても叫んでも、千子の体は眠ったように微動だにせず、ただどろりとして生暖かい血液だけを、桜の木の根に注ぎ続けていた。
それから全ての事件が発覚した。
朝真っ先に学校を訪れた職員が見たのは、音楽室のピアノの前に座って、演奏を続ける男子生徒の姿だった。腑抜けたようなショパンの旋律。教室のどこかから聞こえてくるそれの正体は、棚の奥に隠されたCDレコーダーのものだった。
次に発見されたのは調理室で仰向けに死んだ家庭科教師の姿だった。胸に深々と刺さった包丁を思わず抜き取ると、今さっき死んだばかりのように大量の鮮血が中から吐き出されたらしい。
同時に、西校舎三階女子トイレの死体も発見される。真っ赤になった便器の中から引きずり出された哀れな生徒の顔は、どちらも信じられないほど真っ白に変色していたらしい。
そして。校庭の桜の木の前に、眠り姫のように横たわる可憐な生徒の姿があった。それは学校中でもっとも教師から気に入られていた優等生の一原千子で、桜の気に長い髪をふわりとかけて死んでいる姿は、その膝元に大量の血さえかかっていなければ、本当にただの美しい眠り姫のようにも見えたことだろう。
千子がどんな顔をして死んでいたのか、おれは今でも思い出すことができないでいた。
後から発見されたのは体育館倉庫に突っ込まれた無数の生首だった。バスケットボールのかごに混ざるようにして突っ込まれたそれはなんともおぞましく、見るもの全てを絶句させたということだ。
また、その生首の一つがかわいらしく折りたたまれたノートの切れ端を銜えていて、そこにはこれまで学校で起きた事件のいくつかが綴られていて、わたしがやりましたと、端正な署名入りでそう書かれていた。
最後にプールの奥から少年の遺体が発見される頃になると、おれらの臨時休校もようやく解かれていて、数日立つと卒業式がやってきた。何人かの死者を交えながら卒業式は厳粛に行われ、おれたちの小学生時代も終わりを遂げた。
「七不思議の七つ目はもう決定ね」
と、周防は最後にそう言っておれに微笑んだ。
「だって。とってもおもしろい怪談が入ったんだもの。あたしが広めるまでもないわ。七不思議の六つを全て実践して死んだ美しい優等生のお話。犯人は実はいじめられっ子だったっていうんだから、満点ね」
そういって笑う周防の顔が偉く醜く見えた。おれはそんな周防になのも答えず、脇を抜けて校の裏庭に向けて走っていた。
そこには満開の桜の木が立っていて、六年間を終えた生徒たちを、静かに祝福しているように見えた。おれはその根本を除く。誰が置いたのかは知らないが、小さな花束が二つばかり、ぞんざいに放り込まれていた。何も知らない奴がいたのだろう。
桜の木の下の高橋まゆみの死体は、ついぞ発見されることがなかった。ただいずれ学校のどこかから発見されるだろうと、生徒達の語り草になっている。おれは鼻を鳴らす。周防あたりなら間違いなく検討がついていることだろう。
千子の犯行記述にはこの桜の木のことは乗っていなかった。おそらくこの下に死体を残すためだろうと思われた。おれはふとその場に膝を折り曲げ、千子が死んでいたあたりをまじまじと見詰めた。
その時だった。
「だいちゃん」
どこかからそんな声が響き渡った。おれはぞっとして振り返る。誰もいない。どこを探しても、裏庭にはおれ以外誰もいないようだった。空耳かと思っていると、頬のあたりにぞっとするほどひんやりした感覚が訪れた。
「だいちゃんは……ずるいよ」
その言葉に振り返るとそこには死んだはずの千子が微笑んでいて、土の中から体を乗り出し、冷たい手を伸ばしておれにしがみ付いていた
「だいちゃん? 知ってたんだよね? 七不思議を七つとも、知ってたんだよね? 知ってて夜の学校に来たんだよね? どうしてだいちゃんだけが生きてるの? ずるいよ」
そう言って千子は少しずつ土の中から這い出してくる。おれはぞっとした。声帯をつぶされたように何もいうことができなかった。千子はそんなおれに向かって微笑むと、冷たい体でぎゅっとおれを抱きしめた。
「だいちゃんとわたしはずっと一緒だよ」
思わず、おれは千子の体を振り払った。千子は寂しそうにこちらを見詰めると、少しだけ悲しそうに微笑んで霧のごとくどこかへ消えてしまった。
腰を抜かしておれは尻餅をつく。立ちふさがる桜の木を改めて見上げる。そこには本当に千子がいたようにしか思えなかった。全身を抱かれた時のぞっとするような冷たさが思い出される。幻の中の悲しげな微笑みは、千子が生きていた時と何も変わらないものだった。
「ねぇ。知ってる」
気がつけば。そこには一人の卒業生とその母親らしき組み合わせがいて、娘の方が楽しそうに母親に話しかけていた。
「校庭の桜の木には死体が埋まっているっていう七不思議があるの。それでね、七不思議を全部知っちゃった人は、卒業式の日にこの下に引き釣り込まれちゃうんだって」
それを聞いて、母親の方は優しい顔をして薄く笑った。
「本当かしらね」
そう言ってまぶしそうに桜の木を見詰める。
「今年は特に立派ね」
桜の花は空を多い尽くすように頭上を広がっていて、光り輝く美しい花びらを、涙を流すようにおれの目の前にはらはらと散らせていた。
読了ありがとうございます。