苦しみの夜に眠る
成田優は、眠りに浸こうとする時、いつも苦難について考える。
反吐が出そうなくらい唾棄すべき不安とか、そういうことについて思いを巡らす。
以前、こんなことを聞いたんだ。
「——ねえ、あんなにいつも笑顔でいる人も、イカメしくて容赦のないアイツも、嗚咽を漏らすくらいの苦しみに絶望することがあるんだろうね」
ユウは落胆した。なぜなら、その通りだと思ったから。
彼の言ったことはとても筋が通っていて、反論の余地もない。
人生とは須く困難と共にあり、何人にも避け難い。
それは、小学生が「あ」と言って、先生が次に「い、と言いなさい」と言った時から始まっていたことだ。
あとは「う」も「え」も、あらゆる試験も同じこと。課題が終われば次の課題が我々を駆り立て、際限なく無限に続いていく。
息を吐く暇もないとは、まさにこのことなのだ!
俺たちはいまだに、終わりのない連鎖の最中で虚無感を持て余している。そのことに気づいた時、ユウは底知れぬ無力感というものを思い知った。
「眠れない……」
今日は、眠れると思ったんだ。
毛布を握りしめて、自分を覆い隠して仕舞えば何も見ないで済むと思った。
でも、頭をよぎるのは、不安と焦燥と、よくない妄想ばかり。
目を開ければ、都会の光が鋭く眼球に突き刺さる。仕方がないので、起き上がってカーテンを閉める。
鶯色の帳が遮れば、部屋はすっかり闇で満たされた。
ユウは机と向かい合う。あるいは、そこに置かれているノートと対峙する。豆電球のスイッチを入れれば、たちまちつまれた参考書と、不器用な文字列が顕になる。
乱雑に記された痕跡は、まるで功を焦っているかのように見窄らしく目に映った。
約八十と少し。その間に事を成せない奴はゴミだと思う。さもなければ、今すぐに死ぬのと何が違うというのだろうか。
『お前はゴミだ』
ノートの端にくっきりと書き記す。そうすることで、確かな実感が己の中に刻まれる。
秒針の音に急かされながら、しばらく没頭しているとようやく眠気に誘われる感覚がよぎった。
瞼が重くなる。力を使い果たした体が、脱力する。
——やっと、眠りにつける。
目覚めは最悪だった。身体中の筋肉が凝り固まって、血流が泥のように渋滞している。
「兄ちゃん、朝だよ」
服の脇を引っ張られる。か細く、真っ白な腕を辿っていくと、弟の姿があった。
丸っこい童顔に、あどけない表情で彼はクイクイと袖を引っ張る。
「ハルか……」
8:30AM。この時間に両親は居ない。世に憚る『成田商会』の社長は、早朝に家を後にするからだ。
だから、いつも家で目にするのはこの子だけ。
「兄ちゃん、今日はいい天気だね」
外を塞いでいた帳が払われる。
思わず顔を顰めた。
——台所に行くと、食卓に皿が並べられていた。
その上には、焦げたトーストと形の崩れた目玉焼きが一つ。横には、おそろいのマグカップの中でコーヒーが湯煙を燻らせていた。
「ご飯、食べよ!」
ズルズルと、椅子を引いてハルは俺を見上げた。
渋々と座るのを見ると、満足げにトテトテと向かい側の席に登る。
大抵、成果より大切なものは存在しない。それが父の持論だった。
億の財を動かし、人々から崇められ、栄華を極める。それこそ、子孫の果てまで。きっと、彼の脳内にはそんな筋書きが用意されている。
その後継には、一体何が求められるというのだろう。
実のところ、それは当人にすら分かり得ない。ただ理解できるのは、それが並大抵に尋常なものではないという事のみだ。
「兄ちゃん、おいしいね!」
思考が声に遮られる。ハルは、口いっぱいに頬張りながら、愉しそうに笑った。
笑って、手のつけられていない朝食に目を落とした。たちまち、彼の顔から笑みが抜けて落ちる。
「兄ちゃん、いらないなら、食べなくていいよ……」
俯いて、足をパタパタと動かす。
「ああ……うん」
ユウは上の空で返す。そして、再び虚空を見つめる。
失敗した時、どうなってしまうのか。脳裏をよぎる嫌な予感に、幾度となく冷や汗が伝うことがある。
非難と批判を浴びせられ、挙げ句の果てには行き場も失い、その果てにあるものとはなんだ、と。
考えるたびに思考の沼に陥り、やり場のない憂慮が累乗式に膨らんでいく。
「……冷めちゃった」
ハルは、温度を失ったユウのマグカップを持ち上げて、目を伏せた。
中身をこぼさないように、大切そうに両手で支えて持っていき、電子レンジで温める。しばらくして、熱を取り戻したコーヒーがテーブルに差し出された。
「兄ちゃん。今日は寒いから、温かいもの飲まないと」
言ったところで、何か言葉が返ってくるわけでもないことをハルは知っていた。
背を向けて、鞄を手にとる。
「僕、学校行ってくるから」
玄関で靴を履き、鍵を持っているのを確認して、それからまたリビングを向いた。
「行ってきます」
ハルは後ろ髪を引かれるようにして、ドアを開けた。
カレンダーを捲ると、その日が迫っていることに気づいた。
本番、もしくは運命の日。
「……行かないと」
逃げ出すように、ユウは部屋を後にした。
今日は、昨日よりも背に負っている荷物が少しだけ重い気がした。きっと、明日は今日よりも重くなる。
授業の間は、全てを忘れていられる。だから、そこに逃げ込む。
集中して、集中して、集中する。
他の全部取っ払って、それだけに目を向ける。
文学、数学、理科学、社会学。学問から学問へ、脳内の無駄を抽出する。
すると、少しだけ心に余白ができるような気がした。
「ねえ、授業、終わったよ」
教室を紅い光が彩っていた。ユウはハッとして目を覚ましたかのように、右の方を向いた。
クラスメイトの男子が二人。短身の奴と長身の奴がいた。
彼らは共に、不思議そうで、奇妙なものにでも触れるかのような様相でこちらに目を向けていた。
「成田くん、最近ずっとこんなだよね」
ユウは自分が見られていることを知って、少し恥ずかしくなった。
後ろめたさが込み上げて、目を逸らす。
「勉強、好きなの?」
短身の奴が、ノートを覗き込んできたので、逃げるように閉じて隠した。
「勉強は、あんまり」
「へえ、意外!」
答えると、長身の奴がやたら嬉しそうにそう言った。
「成田くんも、勉強嫌いなんだね」
シンパシーでも感じているのだろうか。でも、確かに、勉強は嫌いだ。
大体、ほとんどの人が勉強なんて好きじゃないと思う。だけど、面と向かってそう言われると、確かにそうなんだって実感が伝わって、悪くない気がした。
ちょっとだけ上がりそうになった口角を、ため息でかき消す。
こんなことをしている場合ではないのだ。もっと、掛けられる時間を、かけられる物事に使うべきだ。
カバンに荷物を詰め込んで、席を立つ。
「あれ、もう帰っちゃうの?」
「うん……まあ」
すると、二人は顔を見合わせて、こういった。
「じゃあさ、帰りにコーヒーでも飲んでこうぜ。いい所知ってんだ、景気付けにさ」
ユウはフリーズした。なぜなら、今までにこんなやり取りをしたことがないから。
誰かと、何かしらの場所で、意味のない余興に耽る。それはとても無意味で、かつ時間の無駄でしかない。人間にとって不必要なことなのではないか。
故に、決して首を縦に振るなどということはできなかった。
奇妙な沈黙が流れる。二人は、ユウのえも言われない表情を見て仕方がないと項垂れた。
「いや、変なこと言った。忘れてくれ」
「じゃあ、また明日な」
一抹の気まずさを残して、彼らは背を向けた。
きっと、それは彼らなりの思いやりだったのだろう。ただ、消えていく二人の姿を遠目に、少しだけ何かがつっかえるような感じがした。
思い出すのは、柔らかいオルゴールの音。
自分より大きなクマさんのぬいぐるみと、カランと乾いた音を鳴らすガラガラおもちゃ。
隣には、歳の離れない兄がいた。彼は確かに「兄さん」で、間違いなくかけがえの無い兄弟だった。
ノスタルジックに鳴り響くゆりかごの謡に絆されて、安らかに眠る彼の顔が、苦渋によってぐちゃぐちゃに歪むまでそう時間は掛からなかった。
「お前はゴミだ」「非常識だ」「どうしてこんなこともできない」
実際の所、それらの言葉は自分に向けられたものではなかった。しかし、確実に、耳へと伝わる罵倒と非難は脳を侵食した。
兄さんは、父さんが嫌い。父さんは、兄さんが嫌い。
怒号が鳴り響く。兄さんは胸ぐらを掴まれて、壁に押し付けられた。
「いいか、お前はいい加減危機感を持つべきだ」
警告と思えるその言葉の正体は、脅迫と言えるものだった。
兄は虚な目を伏せて、言われるがままに、そしてなされるがままになった。
「お前の姿を見ていると、反吐が出そうになる。特に、その怠惰で腑抜けた所だ」
兄さんは、不真面目な人間だった。あらゆる課題も、成すべき仕事も、まるでそれが最も優先されるべきではないかのように振る舞う。つまり、父さんが一番蔑んでいる類の人間だった。
「父さん。でも、俺はやるだけのこと、やってんだ」
宥めるように、胸ぐらの腕を離そうとすると、ますます力を入れて激昂が返ってきた。
——人生を、舐めるなよ。
その時吐き捨てられた父の言葉が、妙に脳裏に焼き付いた。
瞬間、腕が振り上げられ、顔面に向かって振り下ろされる。容赦のない暴行が、兄を襲った。
ユウは全身に衝撃を受けたかのような感覚に陥った。思わず、自分の右頬を押さえる。
「落ち着いてよ、父さん……」
口から血を滴らせて、大粒の涙を流しながら彼は顔を背けた。
「サッカーボールで遊ぼう。他のことでもいい。そうしたらきっと、分かるはずだから」
言葉が伝わることは、もうなかった。冷え切った視線を向けられて、冷めた声で突き放される。
「成すべきことを成せ。それができないのなら、縁を切る」
兄の絶望した悲痛な顔を見たのは、後にも先にもこの時だけだった。
兄さんがいなくなったのは、本当に突然のことだった。
「じゃあな。ユウ」
そう言って、背を向けたきり、彼が家に戻ってくることはついになかった。
捜索隊も出たなんて話も風の噂で聞いた。でも、彼自身がいないのだから、とうに頓挫したことは日をみるより明らかだった。
最後に見た、彼の背中がとても小さく見えたことだけを、鮮明に覚えている。
コンビニエンスストアの飯は、つくづくコストパフォーマンスが良いと思う。
わずかな重みを主張する袋を手に引っ提げて、堤防をポツポツと歩く。
安上がり。それだけじゃない。一番の利点は、その手軽さと時短性能に集約されている。
家に帰れば、それなりのものが夕食に出される。だけど、それありつこうとすれば、相応の時間がかかる。
家族との会話を避けてその時間を浮かすことができるのなら、それより良いことなど無いだろう。
だから、ユウはいつも堤防の川沿いに座って、おにぎり二つを食べてから帰るのが日課になっていた。
「やっぱり、味がしない……」
芝生に腰を下ろして、とりあえず口にものを突っ込んでみても、平坦な味わいが口に広がるばかり。
片手で単語帳を開いてみたところで、食事にも勉強にも集中できない始末。仕方がないから食事だけに意識を集中させると、ますます味の感覚が薄れていく気がした。
川の流れを呆然と眺める。ついでに、泳いでる魚の数を数えてみる。
メダカが一匹、二匹、三匹……。
その横に、人が一匹。
いや、人が一匹……?
ユウは動揺した。大いに戸惑った。川に、人間がさながら水死体のように浮かんでいる。それも裸で。
同時に、後悔する。この光景を目にしてしまった以上、面倒ごとは避けられまいと確信したから。
急いで駆け寄ろうとしたけど、やっぱり少し逡巡してからそろりそろりと距離を詰めることにした。
「だ、大丈夫ですか……?」
「ん、んん!?」
その人は声をかけられたことに驚いたからか、水面をバシャバシャと泡立たせて横転した。
でも、もっと驚いたのはこっちの方だ。
右へ左へ、よろよろと川の流れに押されながら、その人は近づいてくる。
しばらくして、水の中から彼は姿を現した。ボサボサの髪の毛に、伸び放題の無精髭。長身の男だ。
「いやあ、すみません。ここ泳いじゃダメな所でした、か……」
言葉の最後が、尻切れとんぼになる。目があった。
瞬間、脳が咄嗟に記憶を探り始めた。というのは、目前の彼について見覚えがあったからに他ならない。
「お前、もしかして、ユウか……?」
男の言葉に、ようやく合点がいった。
思い出した。三年前にいなくなった彼の姿を。
何も変わっていなかった。容姿も、声も、立ち振る舞いも。
行方不明になっていたはずの兄が、そこにいた。
「兄さん、こんな所で何してるの?」
控えめに尋ねる。久しぶりに会った兄は、表面的に廃れた格好をしていたものの、当人であることがわかるくらいに兄らしかった。
釣り糸が垂れている。じっと待ちながら、彼は川を眺めていた。
ここ、釣りしても良い所なのかな。相変わらずの傍若無人な行動に、懐かしさを覚えた。
「ホームレス」
「……え?」
「強いて何をしているのか答えるなら、ホームレスだな」
なるほど、確かに、そう言われて違和感のない見た目だ。
兄はなおも釣り糸を見つめ続けていた。
「久しぶりに、家に帰ってきたら?」
そう聞くと、ちょっと眉を顰められた。
「わかるだろう。俺は、根っからの自由人なんだ」
一箇所に留められるような人間でないことは、分かりきったことだ。愚問だったと思い直す。
間も無く、徐に兄は口を開いた。
「……父さんは、俺がいなくなったあと何て言ってたんだろう」
あまり答えたくない疑問だった。
返答の言葉をつっかえさせていると、向こうから続けた。
「なんとなくわかるよ。きっと何も言わなかったんだ」
ユウは沈黙した。実質的にそれが答えだった。
どうして、家を出て行ったのか。不真面目なまま、父に従わなかったのか。失敗して仕舞えば全部終わりなのに。その理由がずっとわからないままだった。
直後、釣り糸がグッと引き込まれた。水飛沫が上がる。
「ふむ……外れだ」
針先には、何もかかっていない。
兄は唐突に立ち上がって、こっちを振り向いた。
「なんで、兄さんは家を出てったの?」
気になっていただけのことを、気になったから、聞いた。
「サッカーボールで遊ぼう。そうすればきっと分かる」
帰ってきたのはめちゃくちゃな答えだった。でも、当人はやる気らしい。どこからともなく煤けたボールを取り出した。
「そのボール、まだ持ってたの?」
「これだけは、手放せなかったから」
一体、何年前のものだろう。すっかりボロボロになったサッカーボールは、それでもよく手入れされているのが分かった。
「俺の初めての夢はサッカー選手だった。覚えてるだろ?」
覚えてる。練習に付き合わされたことも。
蹴られたボールが、弧を描いて足元に転がる。
「いやだよ。俺は帰って、勉強しないといけないんだ」
「……受験か?」
頷く。すると、心底可哀想な目で見られた。
「じゃあ、尚更付き合ってもらおうかな」
どうしてそうなるのだろうか。足元のボールに目を落として、ユウはため息をついた。
諦めて、蹴り返す。すると、もう一度パスがとんできた。
「——学校で、友達はいるか?」
世間話なんてしたくなかった。
「……いないよ」
渋々答える。
「——ハルのやつとはうまくやってるか?」
「……あんまり」
「——飯はうまいか?」
「よくわからない」
「——夜は眠れてるか?」
ユウは少し間を空けて、口を開いた。
「夜は……眠れない」
そう言うと、パスの足が止まった。
「どうして?」
素朴な疑問のようだった。しかし、その理由なんて一つしかない。
「……そんなことより、重要なことがあるからだよ」
すっかり日が暮れたしまった。薄暗い闇が、太陽の光を隠し始める。もう帰ろうか。そう思い始めると、兄はもう一度ボールを蹴ってきた。
「でも、やっぱり俺は飯ならうまい方がいいな」
は? と疑問符を浮かべるよりも先に、言葉が続く。
「家がなくても、友達はいて欲しいし、友達と過ごす時間は楽しい方がいい。自分の境遇に絶望しても、家族と過ごす時間は、きっと幸せな方がいい」
そんでもって、と。彼はこういった。
「——不安に襲われる時でも、夜は安心して眠れた方がいい」
ユウは、どこか核心をつかれたのだと思った。
兄さんは、面と向かって言い放った。
「それが、俺が今こうしている理由だよ」
分かり得ない。そう思っていたけど、納得した。そうなんだ、と思った。
「今日は、家に帰るといい」
——きっと、今日はいい夢を見られる。
夜の闇に、彼の言葉がこだました。
家に戻ると、ハルが待っていた。
「おかえり! 兄ちゃん!」
「うん……ただいま」
食卓の椅子に腰をかけると、目の前に一杯のコーヒーが差し出された。
「勉強、お疲れ様……」
「あ、ありがとう……」
そういえば、弟に言葉を返すのも、ずいぶん久しぶりだった気がする。
ハルはやっぱり向かい側に座って、自分のコップにジュースを注ぎ込んだ。
ユウは、熱の冷めない内に、コーヒーを啜った。ほろ苦い暖かさが、口の中に広がる。
「ねえ、兄ちゃん、おいしいね!」
ちょっとだけ、迷ってから。
「うん……そうだね」
そう言うと、やけに嬉しそうに、彼は微笑んだ。
部屋の中は、今日も簡素で味がない。
でも、少しだけ、何かが違って見えるような気がした。
カチカチと秒針が鳴る側で、ユウは全部をほっぽってベッドに寝そべった。
安堵感。あるいは、安心感を覚えたのは、きっと都会の光が柔らかく見えたから。
今日は眠ろう。安らかに。
目を閉じると、ようやく本当に、俺は眠れたんだ。




