ループ
その男の視線に気づいたのは、宇田洋介がカフェオレのカップに口をつけているときだった。土曜日の朝で、コーヒーの香りが溢れるカフェの店内の座席は、ぽつりぽつりと客が掛けている。
男は、帽子を深くかぶり、黒いジャケットを着て、斜め向かいのテーブルにいた。
(どこかで見た顔だな……)
洋介は記憶をたどったが、思いだせなかった。近所の人間ではない。行きつけの店の誰かか……いや、それもちがう。年の頃、五十五六、眉の太い、かなり特徴的な容貌だったが、どうしても記憶がでてこない。
男はときどきカップを口に運びながら、ちらちらと、洋介を観察するように見ていた。向こうは俺を知っているようだと、最初は思ってみたものの、やはり赤の他人だろう、と洋介は推察を中断した。
カフェオレを飲み干すと、洋介はテーブルに拡げていた校正刷りを鞄にしまい、立ち上がって店を出た。
階段を降りてアナトリウムを抜けると、駅前のロータリーに面した書店に歩いた。資料用の書籍を探すために二階の新書の棚に向かった。店内は小さな音でオルゴールのメロディが流れていた。洋介は本棚の背表紙をざっと見まわし、目当ての書籍を目で探していた。すると、階段を帽子をかぶった客が上がってくる。その姿を視野にとらえた洋介は、いいようのない焦燥感にとらわれた。先ほどカフェにいた、あの男だった。
帽子をかぶった黒い服の男は、洋介から少し離れた位置の本棚の前に立っていた。
洋介のなかに、突然小さな憤りの感情がこみ上げてきた。男のそばに行くと、声を荒らげて言った。
「あんた、なんだって俺をつけまわすんだ!」
店内にいた数人の客が驚いてこちらを見た。
男は言った。
「つけまわすだなんて、わたしはあなたを見守っているんですよ」
「あんた、何者だ! いったい俺になんの用だ」
「ですから、あなたを見守っているんです」
店内の他の客が洋介と男の会話を注視している。洋介は、騒ぎになることを恐れて、書店を飛びだした。歩道を足早に駅に向かっていると、宇田さん、と呼びながら男が追いかけてくる。
歩行者用信号が点滅していた。
洋介が横断歩道に足を踏み出したとき、タクシーが突進してきた。
最初に目に入ったのはカーテンレールだった。次に脇腹に痛みが襲ってきた。ベッドに寝かせられていた。大部屋の病室だった。
看護士の女性が部屋の入り口に現れた。
「痛みますか? でも打撲だけですんで幸いでした」
洋介は記憶をたぐった。通りで事故にあったのだ。
「少し水分とってくださいね」
と看護士は言って水の入ったコップを置いていった。窓からは空が見えた。どのくらい時間がたったのだろう。
部屋の入り口に人影が現れた。
帽子を深くかぶった黒い服の男。
「宇田さん」
と、ベッドの洋介に低い声で呼びかける。男はベッド脇に寄ってきて、上着の内ポケットから紙とペンを取り出した。
「この承諾書にサインをお願いいたします」
と言う。洋介は聞き返し、
「承諾書ってなんだ?」
「悔いのない人生だった、という承諾書です」
「ふざけるな! 俺はまだ生きてる!」
はっとして気づくと洋介はカフェのテーブルにいた。テーブルの上には先ほどから朱筆を入れていた校正刷りの紙。そして斜め向かいのテーブルでは帽子を深くかぶった黒い服の男がカップを口に運んでいた。校正刷りの文字を見た。
洋介は深く深呼吸をした。原稿の校正の為にこの店に入ったのだ。プリントアウトしたこの原稿は子供用雑誌に掲載する時間のループについての解説だった。




