第三十一話 私たちが私たちであるために
イヴェルタリーの家では、家族についてのタブーはない。
長兄と次兄の母も、三兄の母も、私の母も、皆の末路はイヴェルタリーの領地では知られていることだ。それゆえに、父は親族に包み隠さず話し、国王にも嘆願して紋章院へ掛け合い、長兄の相続の正統性を獲得できたのだから。
私たち四人兄弟は、子どもながらに母を失った事情を受け止め、それぞれ心に深い傷を負っていた。
だが、それはあくまで、個々人の問題だ。イヴェルタリーに傷を舐め合う習慣はない、イヴェルタリーでありつづけたいならばその一員である自覚を持って行動せよ、と教えられてきた。
それぞれの傷は、それぞれが隠し持っている。私たち兄弟は互いに踏み込まないし、癒すことも慰めることもしない。そういう、ある意味では厳しいしつけのもと育ってきたからこそ、全員がイヴェルタリーの血を引く者だと胸を張っていられる。
廊下に立ったままの私は、来た道を戻るタイミングを見計らっていた。使用人が通りすがれば、その足音に紛れて密かに移動できる。『私たち兄弟は互いの傷を晒しているわけではないのだ』、という言い訳が立つのだから。
そんなとき、アマベルが言葉を区切りながらも丁寧に現状を説明する。
「ねえ、ウルフスタン。あなたの心配は分からなくはないわ。武門の家、特にイヴェルタリー伯爵家のような頻繁に戦いへ赴くところは、いつでも危険が隣り合わせで、それは家中の者であっても例外ではないでしょうから」
「……はい」
「あなたがプルケリアを避けているのは、ひとえにプルケリアのため。正当なことよ、何もやましくなんてないわ。それは確かよ」
でも、とアマベルは続けた。
「あなたはよくても、プルケリアはどうかしら……? 彼女はあなたと一緒にいたいから、貴族令嬢なのに王宮騎士団へ入ったり、たくさん勉強したり、あちこちに出向いて仕事をしたりとしているわ。それはバーティを産んだ私と同じだと思うのよ。愛する人がいるからその人のために役立ちたい、そばにいたいっていう思いは、やっぱり正しくて、やましいことなんてないの。ね?」
少なくとも——それに関して、長兄の口から否定の言葉は出なかった。
アマベルという女性がどういう歩みをしてきたか如何を問わずとも、プルケリアへの認識は一致している。
クレランシャ伯爵家は娘が王宮騎士団へ入ることを許した。さまざまな思惑はあれども、長兄のそばにいたいプルケリアの熱意に押されたのだ。
そもそも、王宮騎士団は事務職でもたかが下心がある程度で貴族令嬢が耐えられるような職場ではないし、長兄のもとで清濁併せ吞まざるをえない場面にも遭遇したとプルケリア本人から聞いている。
それでも、プルケリアは婚約が成立し、結婚の準備が進むギリギリまで王宮騎士団顧問秘書の職を辞さなかったのだから、もはや誰もがプルケリアを退かせるための説得も策謀も時機を逸したことに間違いはない。
「それに、イヴェルタリーの込み入った事情を聞いても、プルケリアはやっぱりあなたと結婚したいのではなくて?」
「それは……ですが、命を懸けてまですべきことではないかと」
「命を懸けてまで一緒にいたいと思ってくれているのなら、応えてあげなさいな。断るにせよ、受け入れるにせよ、避けることのほうが不誠実ではないかしら? もし私だったら、とっくに押しかけて押し倒して迫っているもの!」
セダル公爵夫人の名誉のため、今の発言は聞かなかったことにしよう。
さりとて、長兄は真摯に同意した。
「不誠実。確かに、そうです」
長兄のその声は随分と低く、小さく、まるで独り言のようだ。
ちょうど、私の背後から控えめな足音が聞こえてきた。
「まあ、最初からイヴェルタリーの事情は話してはダメよ。十七歳のご令嬢にはちょっと……ちょーっとだけ、重たいかもしれないわ!」
まだまだアマベルと長兄の会話は続くだろう。
私は、ここで引き下がることにした。元来た廊下のほうへと振り向くと、足音の主がやってくる。
蝋燭の灯りが、金の反射を受けて赤みを帯びている。その光は細く長い金髪の輝きとなり、髪の持ち主を神秘的にさえ演出している。
私は目が合った彼女へ、戻るよう手振りだけで促す。
男性用の乗馬服を着て、その上に長い外套のケープを羽織った凛々しくも美しい淑女——プルケリアは無言で頷いて従った。
その腕には、王宮でよく使われる重厚な皮革の書類箱が納められ、どうやらそれのために昼間一度屋敷へ戻ってからまたカルストン伯爵邸へ引き返してきたようだった。
エントランス近くの手頃な応接間でプルケリアを迎え入れると、すっかり線の細さは消えた淑女は私へ、先ほどの不可解な行動について尋ねてきた。
「ずっとあちらに立ってらしたのですか?」
「ええ、まさか、義母と長兄がベオフリックを一緒に囲んで仲良く話をするほど親密になっているとは思わなかったものだから」
ああ、とつぶやいて、プルケリアは神妙に納得した。長兄がプルケリアから逃げるためにベオフリックの遊び部屋へ避難することを、きっと彼女は把握しているだろう。
私はあえてその話題を避け、本日二度目の来訪となったプルケリアの用件を指摘する。
「それより、あなたは何か用事があったのではなくて? 長兄なら帰らないよう引き留めておくけれど」
「あっ、そうでした。王宮騎士団からの機密書類をまとめて、ウルフスタン様へ至急お見せしなくてはと思って持ってきたのです」
皮革の書類箱を目の前のテーブルへ置き、プルケリアはその来歴を語る。
「イヴェルタリーのお屋敷で馬の鞍を磨いていたら、王宮騎士団からの伝令が慌てて来たものですから。私のほうで内容をまとめ直して……」
「プルケリア、その書類の話は私が聞いていいことかしら?」
「おそらく、それを勘案してのことと思われます」
「どうして?」
「こちら、書類をご覧になればお分かりになるかと」
そう言うと、プルケリアは皮革の書類箱の蓋を開けた。
一番上に乗っていた羊皮紙のかけらには、三行の短い予定表のようなものが書かれ、そのうち上二つは横にチェックの印が入っている。
それを受け取り、私は軽く眺めながら、プルケリアの説明を聞く。
「王宮騎士団が、王宮内で衛兵に混じって秘密裏に情報収集を行っていることはご存知かと。この二日間、王宮で開催された重要会議のうちの二つが終わり、一つが未だ継続されています。カルストン伯爵アルバート様の参加する外交部門会議は、まだ継続しているようです」
「なるほど。しばらく帰ってこられなさそうね」
「ええ、このレベルの会議の参加者は、完全閉会されないかぎり王宮からは出られません。外部への一切の情報を遮断するためと、外部からの圧力を避けるためです」
昨日の朝別れて以来、アルバートの情報に接したのは初めてだ。通常の外交官が集まって議論する場ではなく、それだけ重要な会議に呼ばれるとは予想だにせず、アルバートも今頃は相当頭を抱えていることだろう。
書類箱の羊皮紙のかけらがあったところには、帯のような紐をしおり代わりにして、何十枚もある質のバラバラな紙が揃えられていた。羊皮紙もあれば漉き紙もあり、何度も削られたものもあれば新品もある。
新品の紙の筆跡から、プルケリアがいくつかこれらの要点をまとめていることが分かる。プルケリアはここにある書類の内容を難なくまとめ、長兄が見るに耐えうる報告書へと生まれ変わらせたのだろう。
「そして、終了した他二つについて。一つは王室財産会議、もう一つは閣僚会議です。そこで議論された内容と結果についても、ここにまとめています」
プルケリアは要点をまとめた紙を、私へと差し出してきた。
国の機密を含んだ書類だ。私もすんなりとは受け取れず、躊躇を見せる。
そこへ、プルケリアはこう言い添えた。
「実は、ウルフスタン様からこっそりトリッシュ様へお見せするように、とそれとなく指示されておりますから。今、動けなくてヤキモキしている妹を見るのは忍びない、と」
「あら、お兄様ったら自分を棚に上げて」
「え?」
「何でもないわ。見せていただけるなら遠慮なく拝見するわ」
私はできるかぎりの平静を装い、素早く渡された紙へと目を通す。
最初に、王室財産会議の議題は、王族所有地の区割り変更と、東の大陸での新領地監督権の策定について。
東の大陸で、ある程度確定した領地の線引きができるようになったため、アルソナ王家の直轄所有地も貴族たちの利害関係に応じて決めなくてはならないのだろう。
さらに閣僚会議——王宮の政務担当大臣全員が参加する国策決定の場——の議題は、十以上にも上った。
国内諸問題から東の大陸に移った貴族への課税問題、王宮諸経費の増額許可、いくつかの貴族同士の裁判結果についてや軍備増強の手立てに至るまで、幅広い議題が論じられたようだが——。
その中に、奇妙な議題が含まれていた。
「……『ドンナー王子の婚約にかかる手続き迅速化、および追加経費要求』?」
アルソナ王国貴族として、第一王子の婚約が進んでいることは重要な、今後に備えるための有益な情報である。
それは正しい。
だが、私はそこにもっと違う意味を見出し、どれほどの思惑が絡み合っているかを想像し切ってしまわなければならなかった。
(……これは、果たして国王陛下がご存じのことなのかしら?)
たった一文のせいで、私の疑問は絶えず湧きつづける。
将来どうなるか、の可能性はいくらでも考えうる。だが、そのどれもが、私にとって納得のいかないことばかりだった。
やっと十万字超えて安心




