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婚約破棄されたので、恋愛小説のヒロイン役を辞めました  作者: 九葉(くずは)


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9/12

第9話 三週間遅れのゴシップと隙間風

 よろず屋のカウンターで、私は男と対峙していた。


 相手は親方ではない。

 王都から商品を卸しに来た、小太りの行商人だ。


 男は怪訝な顔で、自分の荷馬車から降ろした木箱の中身──ではなく、その底に敷かれていた緩衝材を見つめていた。


「……これを、買うのかい?」

「ええ。全部で銅貨三枚。どうせ捨てるのでしょう?」


 私が指差したのは、くしゃくしゃになった古新聞の束だ。

 陶器やガラス製品が割れないように詰め込まれていたもので、油汚れや泥がついている。


 行商人は肩をすくめた。


「物好きなお嬢さんだ。まあいい、持って行きな。ゴミ処理の手間が省ける」


 商談成立。

 

 私は持参した麻袋に、汚れた紙束を押し込んだ。

 

 カサカサという乾いた音がする。

 

 インクと、安い紙特有の酸っぱい匂い。

 

 これこそが、今の私にとって最も価値のある輸入品だ。


 

 帰宅後、私は戦利品を居間の床にぶちまけた。


 ランプの芯を上げ、光量を最大にする。

 

 手には濡れ雑巾。

 泥のついた部分を軽く拭き取りながら、シワを丁寧に伸ばしていく。


 日付を確認する。

 三週間前。二週間前。一番新しいもので十日前。

 

 情報の鮮度としては腐りかけだが、この辺境では最新ニュースだ。


 私は一枚ずつ、床に並べていった。

 

 『王立劇場、新作オペラ延期』

 『小麦価格、微増』

 『騎士団、大規模演習を予告』

 

 どうでもいい記事を読み飛ばす。

 私の目は、特定のキーワードだけを高速でスキャンしていた。

 

 王太子。婚約。聖女。あるいは、公爵令嬢。


 あった。

 

 二週間前の三面記事。

 

 『沈黙続く王宮、次期王太子妃の座は空席のまま』


 私は手を止め、四つん這いの姿勢で紙面に顔を近づけた。

 インクが掠れて読みづらい。


 記事の内容は、憶測と願望のパッチワークだった。

 

 いわく、先日の婚約破棄騒動以降、王太子レオンハルト殿下は公式の夜会に一度も姿を見せていない。

 いわく、有力貴族の令嬢たちがこぞって釣書を送っているが、すべて門前払いされている。

 いわく、殿下は執務室に籠もりきりで、側近以外との面会を拒絶している。


 ……なんだこれは。


 私は眉をひそめた。


 シナリオが遅れている。


 私の想定では、私が退場した翌週には、あの小柄なヒロイン──名前は確か、マリアだったかリリィだったか──がお披露目され、幸せなカップルとして社交界デビューしているはずだった。

 

 それが、空席?

 

 籠城?


 バグだ。

 

 イベントフラグの管理ミスか。

 それとも、ヒロインの好感度が規定値に達していなかったのか。

 

 私は別の新聞を手に取った。

 日付は十日前。


 『王都周辺で検問強化、不審者の捜索か』


 心臓が嫌な音を立てた。

 

 不審者。

 それは、私のことか?

 

 いや、記事をよく読むと「盗賊団の討伐」という名目になっている。

 だが、タイミングがおかしい。

 

 王太子が荒れている。

 検問が強化されている。

 新しい婚約者は決まっていない。

 

 これらのピースを組み合わせると、一つの不穏な図式が浮かび上がる。

 

 物語が終わっていない。

 

 エンディングロールが流れたはずなのに、舞台裏でまだ役者たちがドタバタと暴れている。

 

 迷惑な話だ。

 

 私は爪先で床を叩いた。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 早くしてくれ。

 さっさとハッピーエンドを迎えて、世界を平和な後日談モードに移行させてくれ。

 そうじゃなきゃ、私がいつまでも「逃亡中の悪役」という不安定なステータスのままじゃないか。

 

 苛立ちがこみ上げる。

 

 私は読み終えた新聞紙を手に取り、力任せにねじった。

 

 バリバリと紙が裂ける音がする。

 

 こより状になった紙の棒。

 

 私は立ち上がり、窓際へ向かった。

 

 この屋敷の窓枠は歪んでいて、夜になると冷たい隙間風が吹き込んでくる。

 

 私はねじった新聞紙を、窓枠の隙間に押し込んだ。

 

 ギュッ、ギュッ。

 

 王太子の苦悩も、社交界の噂も、すべてただの断熱材だ。

 物理的な風を防ぐための詰め物にしてやる。

 

 『次期王太子妃』の文字が、窓枠の隅でクシャクシャに潰れて見えなくなった。

 

 これでいい。

 

 私は指先についた黒いインクを、エプロンで拭った。

 

 王都の情報は遮断した。

 ここには冷気も、物語の余波も入ってこない。

 

 そう自分に言い聞かせ、私は窓の鍵をきつく閉めた。

 

 外では、風が唸り声を上げていた。

 まるで、何かが近づいてくる予兆のように。

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