第9話 三週間遅れのゴシップと隙間風
よろず屋のカウンターで、私は男と対峙していた。
相手は親方ではない。
王都から商品を卸しに来た、小太りの行商人だ。
男は怪訝な顔で、自分の荷馬車から降ろした木箱の中身──ではなく、その底に敷かれていた緩衝材を見つめていた。
「……これを、買うのかい?」
「ええ。全部で銅貨三枚。どうせ捨てるのでしょう?」
私が指差したのは、くしゃくしゃになった古新聞の束だ。
陶器やガラス製品が割れないように詰め込まれていたもので、油汚れや泥がついている。
行商人は肩をすくめた。
「物好きなお嬢さんだ。まあいい、持って行きな。ゴミ処理の手間が省ける」
商談成立。
私は持参した麻袋に、汚れた紙束を押し込んだ。
カサカサという乾いた音がする。
インクと、安い紙特有の酸っぱい匂い。
これこそが、今の私にとって最も価値のある輸入品だ。
帰宅後、私は戦利品を居間の床にぶちまけた。
ランプの芯を上げ、光量を最大にする。
手には濡れ雑巾。
泥のついた部分を軽く拭き取りながら、シワを丁寧に伸ばしていく。
日付を確認する。
三週間前。二週間前。一番新しいもので十日前。
情報の鮮度としては腐りかけだが、この辺境では最新ニュースだ。
私は一枚ずつ、床に並べていった。
『王立劇場、新作オペラ延期』
『小麦価格、微増』
『騎士団、大規模演習を予告』
どうでもいい記事を読み飛ばす。
私の目は、特定のキーワードだけを高速でスキャンしていた。
王太子。婚約。聖女。あるいは、公爵令嬢。
あった。
二週間前の三面記事。
『沈黙続く王宮、次期王太子妃の座は空席のまま』
私は手を止め、四つん這いの姿勢で紙面に顔を近づけた。
インクが掠れて読みづらい。
記事の内容は、憶測と願望のパッチワークだった。
いわく、先日の婚約破棄騒動以降、王太子レオンハルト殿下は公式の夜会に一度も姿を見せていない。
いわく、有力貴族の令嬢たちがこぞって釣書を送っているが、すべて門前払いされている。
いわく、殿下は執務室に籠もりきりで、側近以外との面会を拒絶している。
……なんだこれは。
私は眉をひそめた。
シナリオが遅れている。
私の想定では、私が退場した翌週には、あの小柄なヒロイン──名前は確か、マリアだったかリリィだったか──がお披露目され、幸せなカップルとして社交界デビューしているはずだった。
それが、空席?
籠城?
バグだ。
イベントフラグの管理ミスか。
それとも、ヒロインの好感度が規定値に達していなかったのか。
私は別の新聞を手に取った。
日付は十日前。
『王都周辺で検問強化、不審者の捜索か』
心臓が嫌な音を立てた。
不審者。
それは、私のことか?
いや、記事をよく読むと「盗賊団の討伐」という名目になっている。
だが、タイミングがおかしい。
王太子が荒れている。
検問が強化されている。
新しい婚約者は決まっていない。
これらのピースを組み合わせると、一つの不穏な図式が浮かび上がる。
物語が終わっていない。
エンディングロールが流れたはずなのに、舞台裏でまだ役者たちがドタバタと暴れている。
迷惑な話だ。
私は爪先で床を叩いた。
コツ、コツ、コツ。
早くしてくれ。
さっさとハッピーエンドを迎えて、世界を平和な後日談モードに移行させてくれ。
そうじゃなきゃ、私がいつまでも「逃亡中の悪役」という不安定なステータスのままじゃないか。
苛立ちがこみ上げる。
私は読み終えた新聞紙を手に取り、力任せにねじった。
バリバリと紙が裂ける音がする。
こより状になった紙の棒。
私は立ち上がり、窓際へ向かった。
この屋敷の窓枠は歪んでいて、夜になると冷たい隙間風が吹き込んでくる。
私はねじった新聞紙を、窓枠の隙間に押し込んだ。
ギュッ、ギュッ。
王太子の苦悩も、社交界の噂も、すべてただの断熱材だ。
物理的な風を防ぐための詰め物にしてやる。
『次期王太子妃』の文字が、窓枠の隅でクシャクシャに潰れて見えなくなった。
これでいい。
私は指先についた黒いインクを、エプロンで拭った。
王都の情報は遮断した。
ここには冷気も、物語の余波も入ってこない。
そう自分に言い聞かせ、私は窓の鍵をきつく閉めた。
外では、風が唸り声を上げていた。
まるで、何かが近づいてくる予兆のように。




