第8話 不規則なリズムと計算高い交渉
ポチャン。
暗闇の中で、その音は拷問のように響いた。
数秒の静寂。
ポチャン。
まただ。
私は毛布を頭から被り、枕に耳を押し付けた。
ポチャン、ポチャン。
リズムが変わった。雨脚が強まったせいだ。
不規則で、粘着質で、神経を逆撫でする水滴の落下音。
限界だ。
私は毛布を跳ね除け、ベッドから飛び起きた。
ランプを掴み、マッチを擦る。
硫黄の匂いと共に、小さな炎が揺らめいた。
廊下へ出る。
天井のシミから、黒い雫が垂れている。
床に置いたブリキのタライは、既に八分目まで埋まっていた。
水面が揺れ、波紋が広がっている。
私はタライを持ち上げた。
重い。
水というのは、どうしてこうも質量を主張するのか。
よろめきながら階段を下り、玄関から外へ水を捨てる。
バシャーッという音が、雨音に混ざる。
戻る。
空になったタライを置く。
カーン。
今度は甲高い金属音が響いた。
水が溜まるまでは、この音が続くのだ。
私は壁に背中を預け、天井を見上げた。
屋根だ。
屋根が死んでいる。
このままでは、家が腐る。
カビが生え、床が抜け、私のささやかな隠居生活は物理的に崩壊する。
修理が必要だ。
だが、誰が?
私か?
無理だ。梯子はない。道具もない。何より、二階の屋根に登って瓦を張り替える技術など、公爵家の教育カリキュラムには存在しなかった。
落ちれば死ぬ。
業者か。
頭の中で、金貨の枚数を数える。
足りない。
いや、払えなくはないが、ここで虎の子の資金を吐き出せば、冬の燃料費が消える。
凍死か、水没か。
究極の二択を突きつけられたまま、私は朝を迎えた。
雨は上がっていたが、地面はぬかるんでいた。
私は泥除けのためにスカートの裾を少し持ち上げ、村の中心部へと歩いた。
目指すは「よろず屋」。
市場の奥にある、工具や資材を扱っている店だ。事実上の村のギルド兼役場のような機能を果たしていると、先日の買い出しで目星をつけておいた。
建物の前に着く。
開け放たれた入り口からは、木の削りカスと、鉄錆の匂いが漂ってくる。
奥から、カンカンと何かを叩く音が聞こえる。
私は泥だらけの靴を入り口のマットで丁寧に拭い、中へ入った。
薄暗い店内。
壁には鋸や金槌、ロープが所狭しと掛けられている。
カウンターの奥に、男が座っていた。
巨漢だ。
丸太のような腕。禿げ上がった頭に巻かれた手ぬぐい。
そして、顔の真ん中にある深い切り傷の痕。
男は手元の紙切れを睨みつけ、唸り声を上げていた。
私が入ってきたことに気づき、顔を上げる。
鋭い眼光。
「……何の用だ」
声が低い。腹の底に響くような重低音。
私は一歩も引かず、カウンターの前まで進んだ。
男との距離、およそ一メートル。
木製のカウンターには、書き殴られたメモや、インクの瓶、硬貨が散乱している。
「屋根の修理を依頼したいのです」
単刀直入に切り出す。
男は鼻を鳴らした。
「あの幽霊屋敷か」
「ええ。雨漏りが酷くて、タライの演奏会で眠れないのです」
「……瓦の葺き替えだな。下地も腐ってんだろ。大仕事だ」
男は太い指で、カウンターの上のそろばんを弾いた。
パチ、パチ、パチ。
指の動きが遅い。
時々止まって、首を傾げている。
「材料費と、人件費で……銀貨、十五枚ってとこだな」
銀貨十五枚。
私の全財産の三割が吹き飛ぶ計算だ。
足元を見られているわけではない。適正価格、あるいは少し安いくらいだ。
だが、私には高い。
「……そうですか」
私は視線を落とした。
カウンターの上。
男が睨んでいた紙切れ。
そこには、ミミズが這ったような文字と、数字の羅列があった。
『木材 10』
『釘 5』
『手間 3』
そして、合計の欄には『20』と書かれ、二重線で消され、『19』と書き直され、さらにそれも消されている。
計算が合っていない。
私は一度、息を吸い込んだ。
勝機が見えた。
「親方」
「あ?」
「お金は払えません」
男の眉がピクリと動いた。
呆れたような、あるいは怒りを含んだ色が瞳に宿る。
「冷やかしなら帰んな。慈善事業じゃねえんだ」
「ですが、代わりのものは提供できます」
私はカウンターの上の紙を指差した。
「その計算、間違っていますよ」
男が固まった。
視線が泳ぎ、紙と私の顔を往復する。
「……なんだと?」
「10足す5足す3は、18です。20でも19でもありません」
男の顔が赤くなった。
怒りではない。羞恥だ。
図星か。
私は畳み掛けた。
カウンターの端にあった羽ペンを手に取る。
インク壺に浸す。
許可は取らない。
紙の余白に、さらさらと数式を書く。
筆跡は流麗に。数字は明確に。
「さらに、こちらの仕入れ帳。先月の繰越が抜けています。これでは、在庫の数が合いませんよね?」
男は口を半開きにして、私の手元を凝視していた。
まるで魔法使いを見るような目だ。
「あんた……文字が、読めるのか?」
「貴族でしたから」
過去形で答える。
「計算も、帳簿の管理もできます。契約書の不備も見抜けます」
私はペンを置いた。
コトッ、という乾いた音が、交渉開始の合図だった。
男の目を真っ直ぐに見据える。
「取引をしませんか。私がここの帳簿を整理します。読み書きが必要な書類仕事も代行しましょう。その代わり、私の家の屋根を直してください」
静寂。
店奥の作業場の音がやけに大きく聞こえる。
男は腕を組み、唸り声を上げた。
太い腕の筋肉が収縮し、また緩む。
彼にとって、計算や文字は頭痛の種なのだろう。
それを肩代わりする人間。しかも、正確無比なスキルを持つ人間。
銀貨十五枚分の価値はあるか。
あるはずだ。計算ミスによる損失を防げるなら、むしろ安い投資だ。
「……期間は?」
男が低い声で問うた。
「屋根の修理が終わるまで。その後も必要なら、別途契約で」
「……毎日来るのか」
「ええ。午後から二時間ほど」
男はもう一度、私が修正した計算式を見た。
そして、大きく息を吐き出した。
「……分かった。明日、若いのを行かせる」
勝った。
心の中でガッツポーズをする。
表情筋は動かさない。あくまでクールなビジネスパートナーとしての顔を保つ。
「交渉成立ですね」
「おう。……ついでに、うちのボンクラどもにも教えろ」
「はい?」
「数字だ。釘の数も数えられねえ馬鹿ばっかりで困ってんだ。ついでに叩き込んでやれ」
教育係のオプション追加。
まあいい。
労働対価としては悪くない。それに、村人との接点が増えれば、私が「無害で有益な住人」であることをアピールできる。
生存戦略としてもプラスだ。
「承知しました。では、スパルタでいきますが、構いませんね?」
「構わねえ。泣くまでやってくれ」
男──親方は、ニヤリと笑った。
顔の傷が歪み、凶悪な笑みに見えるが、声には親しみが混じっていた。
私は店を出た。
空は高く晴れ渡っている。
泥道を歩く足取りが、来る時よりも軽かった。
私の知識は、まだ死んでいない。
ドレスも宝石も失ったが、頭の中にあるものだけは、誰にも奪えない資産だ。
それが、この辺境の地で「通貨」として通用した。
その事実が、何よりも誇らしかった。
明日からは先生だ。
私は掌についたインクの染みを見つめた。
黒い汚れが、勲章のように見えた。




