第7話 赤い封蝋と深読みの迷宮
玄関の鍵を二重に確認し、さらに念のため、重たい傘立てをドアの前に引きずってバリケードにした。
これで物理的な侵入は防げる。
問題は、この手の中にある紙爆弾だ。
私は居間のソファー──昨日、死ぬ思いで清掃した聖域──に座り込み、ローテーブルの上に封筒を置いた。
白い封筒。
中央には、毒々しいほどに赤い封蝋。
王家の紋章である双頭の獅子が、蝋の中で威圧的に咆哮している。
指先が微かに震えていた。
これは手紙ではない。
もはや召喚状か、あるいは死刑執行命令書の変種だ。
私は立ち上がり、部屋の隅にある飾り棚へ向かった。
引き出しを開ける。
ガラクタの中に、錆びついていないペーパーナイフを見つけた。
真鍮製。
刃先は鈍いが、紙を切るには十分だ。
ソファーに戻る。
深く息を吸う。
肺がキシキシと鳴る。
覚悟を決めろ。
中身を見なければ、対策も立てられない。
ナイフの先端を、封筒の隙間に差し込む。
ザリッ。
紙が切れる音が、静まり返った廃屋に不気味に響く。
ナイフを滑らせる。
赤い封蝋がパキリと割れ、破片がテーブルの上に散らばった。
まるで乾いた血痕のようだ。
中から、三つ折りにされた便箋を取り出す。
最高級の羊皮紙。
指に吸い付くような滑らかな感触。
開く。
見慣れた、達筆すぎて逆に読みづらい筆跡が目に飛び込んでくる。
『エリスへ』
冒頭の呼び捨てで、胃が縮み上がった。
親愛の情ではない。
これは所有権の主張だ。「お前はまだ私の支配下にある」という無言の圧力。
私は視線を走らせた。
『突然の訪問ですまない。君が急いで王都を去ったと聞き、心配で筆を執った』
嘘だ。
「心配」と書いて「監視」と読むのが、この世界の貴族文法だ。
つまり「逃げても無駄だと分かっているな?」という確認だ。
『あの夜のことは、君にとっても整理がつかないことだったと思う。私自身、言葉足らずだったと反省している』
整理がつかない?
いいえ、完璧に整理済みです。婚約破棄、追放、終了。それだけです。
「言葉足らず」というのも怪しい。
何を言い足りなかったというのか。
「国外追放」か? 「財産没収」か?
追加の刑罰を匂わせることで、精神的に追い詰める高度なテクニックだ。
『君の意思は尊重する。静かな場所で過ごしたいという願いも、否定はしない』
ここだ。
「尊重する」=「今は泳がせてやる」。
「否定はしない」=「肯定もしていない」。
典型的な、生殺しの構文。
「いつでもお前の首根っこを掴める距離にいるぞ」という脅しだ。
『だが、辺境での暮らしは不便も多いだろう。もし困ったことがあれば、いつでも頼ってほしい。必要なものは手配させる』
罠だ。
明確な、ハニートラップならぬマネートラップ。
ここで「お金がありません」「食料をください」と泣きつけば、その瞬間に貸しができる。
弱みを握られる。
「支援してやったのだから、言うことを聞け」と、一生奴隷のように扱われる未来が見える。
絶対に、頼るものか。
泥水をすすってでも自活してみせる。
『君が戻ってくる場所は、常に用意してある』
背筋が凍った。
戻ってくる場所。
それはどこだ。
王城の地下牢か。
あるいは、修道院の独房か。
「用意してある」という完了形が恐ろしい。
既に鉄格子は磨かれ、手錠は油を差して待機しているという意味にしか読めない。
『レオンハルト』
署名はシンプルだった。
しかし、インクの最後の払いが強く、紙を突き破らんばかりの筆圧を感じさせた。
怒っている。
間違いなく、激怒している。
勝手に逃げ出した玩具に対する、所有者の静かなる憤怒。
私は手紙をテーブルに放り出した。
指先がインクで汚れたような錯覚に陥り、スカートで必死に拭う。
どうする。返事は。
書くべきか?
「お気遣い感謝します。私は元気です」と?
いや、ダメだ。
下手に言葉を残せば、そこから揚げ足を取られる。
筆跡から精神状態を分析されるかもしれない。
あるいは、その手紙自体が「居所の確定」という証拠になってしまう。
沈黙だ。
徹底的な黙秘。
「手紙は届かなかったのかもしれない」「読んでいないのかもしれない」という可能性を残しておくのが、唯一の生存戦略だ。
私は立ち上がり、暖炉の方を見た。
燃やすか?
証拠隠滅。
いや、それも危険だ。
もし将来、裁判になったとき、「殿下は慈悲深かったが、被告人はそれを無視した」と言われる。
その時、「そんな手紙は貰っていない」と主張しても、証拠がなければ負ける。
逆に、この手紙を保管しておけば、「殿下は『自由を尊重する』と書かれました。だから私はここにいるのです」という、正当防衛の盾として使えるかもしれない。
言質として利用する。
そうだ。これはラブレターでも脅迫状でもない。
私にとっての「滞在許可証」だ。
私は手紙を丁寧に折り直し、封筒に戻した。
砕けた封蝋の欠片も、一粒残らず拾い集めてハンカチに包む。
トランクの奥底。
一番見つかりにくい、下着の間に封筒を隠す。
カチャリ。
トランクの金具を閉める音が、私の心に小さな区切りをつけた。
とりあえず、今の危機は去った。
ハインリヒは帰った。
手紙の毒性も解析した。
対策も立てた。
ドッと疲れが出た。
緊張の糸が切れた瞬間、強烈な空腹感が襲ってきた。
そうだ、私は朝から何も食べていない。
ジャガイモ。
昨日買った、泥だらけのジャガイモがある。
あれを茹でよう。
ただ茹でて、塩をかけて食べる。
王都の政治的駆け引きよりも、今の私にはカロリーの方が重要だ。
私はフラフラと台所へ向かった。
足取りは重いが、迷いはなかった。
少なくとも、ジャガイモは私を裏切らないし、深読みさせるような手紙もよこさないのだから。




