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婚約破棄されたので、恋愛小説のヒロイン役を辞めました  作者: 九葉(くずは)


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第6話 錆びたドアチェーンと銀色の鎧

 その音は、平和な昼下がりの空気を切り裂くように響いた。


 カポ、カポ、カポ。


 規則正しく、重厚で、訓練された蹄の音。

 

 農耕馬の不規則なリズムではない。

 行商人の馬車の軋みでもない。

 

 軍馬だ。


 私は庭の雑草を掴んでいた手を止めた。

 指先から、引き抜いたばかりの草がパラパラと落ちる。


 心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


 まさか。

 早すぎる。

 まだ一週間も経っていない。


 私は身を低くし、泥だらけのエプロンを翻して玄関ホールへと駆け込んだ。

 

 呼吸が荒い。

 肺が焼けるように熱い。

 

 窓のカーテン──といっても、埃まみれの薄汚い布だが──の隙間から、外を覗き見る。


 門の前に、一騎の馬が停まっていた。


 太陽の光を反射して輝く、磨き上げられた銀色の鎧。

 左胸に刻まれた獅子の紋章。

 そして、兜を脇に抱え、整った眉をひそめてこの廃屋を見上げている男。


 ハインリヒ・フォン・ベルガー。

 

 王太子殿下の側近にして、近衛騎士団長。

 

 血の気が引いた。

 指先が氷のように冷たくなる。


 なぜ、彼がここにいる。

 

 下級兵士ではない。騎士団長だ。

 王の懐刀が、わざわざこんな辺境まで出向いてきた。

 

 理由は一つしかない。


 粛清だ。

 

 あるいは、強制送還からの地下牢行き。

 

 私の脳内で、最悪のシナリオが高速で回転を始めた。

 

 ギロチンの刃の冷たさ。

 民衆の罵声。

 石造りの独房の湿気。

 

 殺される。

 物語の進行を妨げたバグとして、処理されるのだ。


 コン、コン、コン。


 扉が叩かれた。

 控えめだが、確固たる意志を感じさせる音。


「……エリス様。いらっしゃいますか」


 ハインリヒの低く、よく通る声。

 

 居留守を使うか?

 

 いや、無駄だ。

 庭の雑草は中途半端に抜かれている。

 井戸の周りは濡れている。

 生活の痕跡がありありと残っている。

 

 逃げれば、公務執行妨害でその場で斬り捨てられる口実を与えるだけだ。


 どうする。

 どうすれば生き残れる。

 

 私は震える手で、自分の服を見下ろした。

 

 三日間洗濯していない、泥と煤に塗れたワンピース。

 ボサボサの髪。

 土で黒くなった爪。

 

 ……これだ。

 

 私は鏡の前──割れたガラスの破片──に立った。

 

 髪をさらに手櫛で掻き回し、乱れさせる。

 目の下のクマを指で擦って強調する。

 姿勢をわざと猫背にする。

 

 私はもう、高慢な公爵令嬢ではない。

 婚約破棄によって全てを失い、辺境で惨めに這いつくばる敗残者。

 

 その「惨めさ」こそが、私の最強の盾になる。

 

 騎士道精神の塊であるハインリヒは、弱者を虐げることを嫌う。

 ここまで落ちぶれた女を見れば、剣を抜くのを躊躇うはずだ。

 

 同情を買え。

 憐憫を誘え。

 

 私は深呼吸を一つ。

 肺の中の空気をすべて入れ替えるイメージで。

 

 震える演技ではない。本当に震えているのだから、それを隠さなければいい。


 足音を忍ばせて玄関へ向かう。

 

 扉の鍵を外す。

 カチャリ。

 

 だが、チェーンはかけたままにする。

 これだけは譲れない物理的な境界線だ。

 

 扉を、五センチだけ開けた。

 

 外の光が細く差し込み、埃が舞うのが見えた。

 その隙間の向こうに、ハインリヒの蒼い瞳があった。


「……どなた、ですか」


 消え入りそうな声。

 喉が張り付いて、掠れているのが好都合だった。


 ハインリヒが目を見開いた。

 

 視線が、私の乱れた髪、汚れた服、そして背後の廃墟のようなホールへと彷徨う。

 

 彼の喉仏が動くのが見えた。

 

「……エリス様、そのお姿は……」


 絶句している。

 よし、効果はある。

 

 私は扉の縁を掴む指に力を込めた。

 黒く汚れた爪を、わざと彼の視界に入れる。


「ハインリヒ様ですね。……見ての通りです。私はもう、皆様の前に出られるような身分ではありません」


 視線を伏せる。

 

「どうか、お引き取りください。私ごときに関わっても、殿下の名誉を汚すだけです」


「いえ、しかし……これは、あまりにも……」


 ハインリヒは言葉を詰まらせた。

 

 彼の正義感が揺らいでいる。

 

 かつて社交界の華と呼ばれた女が、廃墟で泥まみれになっている。

 その落差が、彼の騎士としての矜持を刺激しているのだ。

 

 いいぞ。もっと痛ましがれ。

 そして報告するのだ。「エリス嬢は既に社会的・物理的に死んでいました。これ以上の制裁は不要です」と。


「……何の御用でしょうか。処刑の命令でも出ましたか?」


 あえて物騒な単語を投げる。

 

 ハインリヒが慌てて首を振った。鎧がガシャンと音を立てる。


「滅相もございません! 私はただ、殿下の命により、書状をお届けに上がっただけです」

「……書状?」

「はっ。こちらを」

 

 彼が懐から、王家の封蝋がされた白い封筒を取り出した。

 

 隙間から差し出される。

 

 私はそれを、汚れた手で受け取ることを躊躇うふりをして、一拍置いてから引ったくるように受け取った。

 

 これが、私の生死を分ける判決文か。


「……確かに、受け取りました」

「あ、あの、エリス様。何か、お困りのことは……」


 ハインリヒがチェーンの隙間から、何とか中を覗こうとする。

 

 これ以上は見せられない。

 ボロは出しても、生活の知恵(計算高さ)までは見せてはいけない。


「何もございません。ここには、私にお似合いの静寂があるだけです」


 私は悲劇のヒロインのように、寂しげに微笑んでみせた。

 

「さようなら、ハインリヒ様。二度と、お会いすることはないでしょう」


 ガチャン。

 

 私は扉を閉め、すぐに鍵を回した。

 背中を扉に預ける。

 

 ズルズルと座り込む。

 

 心臓が破裂しそうだ。

 

 外で、ハインリヒがしばらく立ち尽くしている気配がする。

 

 頼むから帰ってくれ。

 そして二度と来るな。

 

 数分後。

 

 砂利を踏む音と共に、馬の蹄の音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 

 行った。

 

 私は大きく息を吐き出し、手の中にある封筒を見つめた。

 

 厚みのある上質な紙。

 香水の微かな香り。

 

 その白さが、私の汚れた手の中で、異様なほどの存在感を放っていた。

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