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婚約破棄されたので、恋愛小説のヒロイン役を辞めました  作者: 九葉(くずは)


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第5話 市場の相場と泥付きジャガイモ

 目を開けた瞬間、身体のパーツがバラバラになったかのような激痛が走った。


 背中、腰、二の腕、太もも。

 筋肉という筋肉が、昨日の過剰労働に対してストライキを起こしている。


 私は呻き声を押し殺し、軋む身体を無理やりソファーから引き剥がした。

 

 朝日が埃っぽい部屋に差し込んでいる。

 

 腹が鳴った。

 

 優雅な朝食のベルは鳴らない。

 焼きたてのパンの香りも、湯気の立つ紅茶もない。

 

 あるのは乾いた喉と、空っぽの胃袋という現実だけだ。


 私はよろめきながら立ち上がり、トランクから手帳とペンを取り出した。

 革の表紙を開き、白いページに昨日の出費を書き込む。


 馬車代、金貨二枚。

 残金、金貨三枚と銀貨数枚。

 予備資産、宝石類一袋。


 ペン先が紙に沈む。

 

 食料がない。

 

 水だけでは人間は動けない。

 エネルギーを補給しなければ、この廃屋を片付ける前に私が廃人になる。


 私は外出用のシンプルなドレス──といっても、王都では部屋着扱いだったものだが──に着替えた。

 

 髪を後ろで一つに縛る。

 鏡はない。窓ガラスに映るぼんやりとした影で、襟元を整える。

 

 大きなカゴを手に取る。

 昨日、台所の隅に転がっていたものだ。煤を払い、水拭きしておいた。

 

 いざ、狩りへ。


 

 別邸から村までは、緩やかな下り坂が続いていた。

 

 砂利道だ。

 底の薄い靴では、小石を踏むたびに足裏が痛む。

 

 二十分ほど歩くと、煮炊きの煙と、人の話し声が聞こえてきた。

 

 村の広場。

 そこが市場になっていた。

 

 木の台を並べただけの簡素な露店。

 野菜、卵、干物、そして日用雑貨。

 王都の整備されたマルシェとは比べるべくもないが、活気だけはある。

 

 私が広場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 

 ざわめきが、潮が引くように収まっていく。

 

 視線。

 

 数十の瞳が、一斉に私に向けられ、そしてすぐに逸らされた。

 

 ヒソヒソという囁き声が、風に乗って耳に届く。


「……あれか」

「あの屋敷の……」

「目を合わせるな……」


 私は背筋を伸ばした。

 

 当然の反応だ。

 

 得体の知れない女が、幽霊屋敷から出てきたのだ。

 警戒されないはずがない。

 

 私は彼らの反応を無視し、一番近くの野菜売り場へと進んだ。

 

 台の上には、土のついたジャガイモ、人参、玉ねぎが無造作に積まれている。

 値札はない。

 

 私は手帳を開いた。

 ペンを構える。


「……これ、いくらですか」


 店番の老婆に声をかける。

 老婆はビクリと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げた。


「あ、あの……ひ、ヒトカゴで、銅貨五枚……です」


 銅貨五枚。

 

 私は脳内で素早く計算した。

 

 王都の相場なら、ジャガイモ一袋で銀貨一枚(銅貨十枚分)はする。

 しかも、ここのカゴは大きい。王都の袋の三倍はある。

 

 つまり、価格は六分の一。


 安い。

 破格だ。

 

 私は表情を崩さず、メモに「芋:底値」と書き込んだ。

 

 だが、安易に飛びついてはいけない。

 比較検討が必要だ。

 

 私は「ありがとう」と短く言い、次の店へ移動した。

 

 卵。一ダースで銅貨八枚。

 リンゴ。一山で銅貨十枚。

 堅焼きパン。二つで銅貨三枚。

 

 店を回るたびに、周囲の人垣がモーゼの海割れのように開いていく。

 

 誰も声をかけてこない。

 売り込みもしない。

 ただ、遠巻きに観察されている。

 

 実に快適だ。

 

 不要な社交辞令も、腹の探り合いも必要ない。

 ここでは数字だけが共通言語だ。

 

 一通りの相場を確認し終えると、私は再び最初の店に戻った。


「ジャガイモを一カゴ。それと、そちらの玉ねぎも」


 財布から銀貨を一枚取り出す。

 

 老婆の目が丸くなった。

 

「お、お釣りがないよ……こんな銀貨……」


 そうか。

 ここでは銀貨すら高額紙幣扱いなのか。

 

 私は眉を寄せた。

 小銭入れを確認する。銅貨が数枚しかない。これでは足りない。

 

 どうする。

 釣りはいらないと言えば、目立つ。金持ちだと思われれば、たかられる危険性がある。

 

「……では、この銀貨分、日持ちのする野菜を見繕ってください。お釣りはいりません。その代わり、良いものを」


 折衷案を提示する。

 まとめ買いによるディスカウント交渉の逆パターンだ。

 

 老婆は慌てて頷き、震える手でカボチャやカブをカゴに詰め込み始めた。


「こ、こんなに……いいのかい?」

「ええ。構いません」


 カゴがどんどん埋まっていく。

 

 そして、老婆が最後に巨大なカボチャを乗せたとき、私は重大な計算ミスに気づいた。

 

 重い。

 

 受け取った瞬間、腕が下に持っていかれた。

 

 ズシリとした重量感。

 ジャガイモの土の匂いが鼻を突く。

 

 十キロはあるだろうか。

 

 これを、持って帰るのか。

 あの坂道を。

 

 使用人はいない。

 馬車もない。

 配送サービスもない。

 

 自分の食い扶持は、自分の筋力で運ぶしかないのだ。


「……どうも」


 私は歯を食いしばり、涼しい顔を装ってカゴを抱え直した。

 腕の筋肉が悲鳴を上げている。

 ペンの持ちすぎで痛めたことはあっても、芋の持ちすぎで痛める日が来るとは。

 

 市場を出る。

 

 背中に視線を感じる。

 

「……一人で運ぶ気か?」

「大丈夫なのか……?」

 

 そんな声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕はなかった。

 

 一歩、また一歩。

 

 帰りの坂道は、行きよりも遥かに急勾配に感じられた。

 

 カゴの持ち手が掌に食い込む。

 汗がこめかみを伝う。

 呼吸が荒くなるのを、必死で整える。

 

 途中で三回、立ち止まって休憩した。

 そのたびに、カゴの中のジャガイモが、ゴロゴロと嘲笑うように音を立てた。

 

 屋敷の玄関に辿り着いたときには、太陽は頭上に昇っていた。

 

 カゴを床に置く。

 

 ゴトッ。

 

 その重たい音こそが、私が手に入れた「生存」の証だった。

 

 私はその場に座り込み、土まみれのジャガイモを一つ手に取った。

 

 ゴツゴツしていて、冷たくて、重い。

 

 王城の晩餐会で出される、綺麗に裏ごしされたマッシュポテトとは別物だ。

 

 けれど、こちらの方が、今の私には価値がある。

 

 一週間の食糧は確保した。

 経費は銀貨一枚。

 

 悪くない取引だ。

 

 私は震える手で手帳を開き、支出欄に記入した。

 

 文字が少し歪んだ。

 それが筋肉痛のせいなのか、それとも、自分の力で生活を回し始めた高揚感のせいなのか、私には判断がつかなかった。

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― 新着の感想 ―
馬車代は乗り込む時に、金2枚 降りた時に 金3?枚 と読み取れるのですが・・・ どの道、馬車代は金2枚ではないですね
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