第4話 黒くなる水と雑巾がけ
馬車が停まった瞬間、三半規管がおかしな揺らぎ方をした。
四日間、休むことなく揺られ続けた身体が、静止した地面という概念を拒絶しているようだった。
私は荷台の縁を掴み、ふらつく足取りで地面に降り立った。
土を踏む感覚。
足裏に伝わる硬さが、こんなにも頼もしいものだとは知らなかった。
御者の男が、無言で私のトランクを降ろしてくれた。
ドサリ、という音が夕暮れの森に吸い込まれる。
「……ここだぞ」
男が顎で示した先を見る。
そこには、見事なまでの「書き割り」が立っていた。
煉瓦造りの二階建て。
かつては白亜だっただろう壁面は、蔦と苔に覆われて緑色に変色している。
屋根瓦は数カ所剥がれ落ち、窓ガラスは泥と埃で不透明な灰色になっていた。
庭と呼ぶべき場所は、背丈ほどの雑草が生い茂るジャングルと化している。
私は、約束の残金を男に渡した。
男はそれを受け取ると、何か言いたげに口を開きかけ、しかし結局は肩をすくめただけだった。
馬車が去っていく。
車輪の音が遠ざかり、鳥の鳴き声だけが残った。
私はトランクの持ち手を握り直した。
掌に豆ができかけている。
目の前の廃墟を見上げる。
完璧だ。
これこそが、没落した悪役令嬢が隠れ住む場所に相応しい。
手入れの行き届いた別荘など期待していなかったが、ここまで徹底してくれているとは。
物語の神様とやらは、美術セットのディテールには凝るタイプらしい。
雑草を掻き分け、玄関へと進む。
棘のある草がスカートの裾に絡みつく。
扉の前まで辿り着くのに、五分もかかった。
重厚な木の扉には、錆びついた南京錠ではなく、重い閂がかかっている気配はない。
私は懐から、公爵邸から持ち出した鍵束を取り出した。
一番大きな真鍮の鍵。
鍵穴に差し込む。
回らない。
錆びているのか。
私は一度息を吐き、両手で鍵を掴み、体重をかけて強引に捻った。
ガリッ、ギギギ……カコン。
不快な金属音と共に、鍵が回った。
ノブを押し、扉を開ける。
途端に、鼻を突く匂いが襲ってきた。
湿気た紙。
腐った木材。
そして、濃厚な埃の匂い。
私は袖で鼻と口を覆い、中へと足を踏み入れた。
玄関ホールは薄暗かった。
高い天井の隅には、巨大な蜘蛛の巣がカーテンのように垂れ下がっている。
床には埃が雪のように積もり、私の足跡だけがくっきりと黒く浮かび上がった。
「……管理人は?」
声に出してみる。
返事はない。
当然か。
この積もり方を見るに、ここ数ヶ月、いや一年は人が入った形跡がない。
予算は計上されていたはずだが、誰かの懐に消えたのだろう。
それもまた、没落貴族あるあるだ。
私はトランクを玄関に置き、埃っぽいホールの中央に立った。
さて、どうする。
時刻は夕方。
日はすぐに落ちる。
ベッドはどこだ。
二階か。
階段を見る。手すりに埃が積もっている。
あそこを登れば、埃まみれの寝室が待っているだけだろう。
このままでは、寝ることもできない。
床で寝れば肺炎になる。
ソファーに座ればダニの餌食だ。
私は上着を脱ぎ、トランクの上に置いた。
袖を捲り上げる。
やるしかない。
これは「優雅な生活」ではない。「生存競争」だ。
まずは水だ。
私は裏口を探した。
台所と思しき場所を抜け、勝手口の扉を蹴飛ばすようにして開ける。
そこには、石組みの井戸があった。
よかった。枯れていなければいいが。
釣瓶を下ろす。
ロープが擦れる音が響く。
ポチャン、という水音が遥か下から聞こえた。
生きている。
水はある。
私は錆びたハンドルを回し、桶を引き上げた。
重い。
公爵令嬢としての十八年間で、これほどの重量物を持ち上げたことがあっただろうか。
ティーカップより重いものなど、百科事典くらいしか持ったことがない。
二の腕が震える。
息が上がる。
やっとの思いで桶を縁に引き寄せる。
水は澄んでいた。
指をつけると、痛いほどに冷たい。
近くに転がっていた木製のバケツ──底が抜けていないことを確認して──に水を移す。
雑巾などない。
私はトランクに戻り、中から一番生地の厚いペチコートを取り出した。
躊躇なく引き裂く。
ビリビリという音が、妙に小気味いい。
高価なレースがついた布切れを、ただの清掃用具に格下げする。
バケツに布を浸し、固く絞る。
冷たさで指先の感覚がなくなる。
狙うは一階の客間だ。
あそこのソファーで寝る。そのためには、最低限の聖域を作らなければならない。
私は四つん這いになった。
床板を拭く。
一拭きで、白い布が真っ黒になった。
泥と、煤と、何かの死骸の粉末。
汚い。
生理的な嫌悪感が胃の底からせり上がってくる。
けれど、手が止まらない。
ここで止めたら、私は今夜、埃の中で野垂れ死ぬことになる。
ゴシゴシと力を込める。
板の継ぎ目の汚れを爪で掻き出す。
バケツの水ですすぐ。
水が一瞬で墨汁のように濁る。
何度も、何度も往復する。
井戸へ行き、水を替え、戻って拭く。
腰が痛い。
膝が痛い。
指先はふやけて白くなり、爪の間には黒い汚れが入り込んでいる。
いつしか、窓の外は完全に闇に包まれていた。
持参したランタンに火を灯す。
揺らめく光の中で、私が拭き清めた一角だけが、本来の艶を取り戻していた。
三畳ほどのスペース。
そこにある長椅子。
私はその上に、予備のシーツを敷いた。
埃を被っていない、清潔な布。
それが私のベッドだ。
私はバケツを部屋の隅に置いた。
濁った水面を見下ろす。
そこに映っているのは、髪を振り乱し、頬に黒い煤をつけた女の顔だった。
誰だ、これ。
王城の鏡に映っていた、完璧な巻き髪の令嬢とは似ても似つかない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
この汚れは、私が自分で選んで、自分で動いてついたものだ。
誰かに押し付けられた「悪役の汚名」とは違う。
物理的な汚れは、水で落ちる。
その単純な事実が、ひどく心地よかった。
私はドサリとソファーに倒れ込んだ。
身体中の筋肉が悲鳴を上げている。
空腹を感じる余裕すらなかった。
まぶたが鉛のように重い。
埃臭さはまだ残っている。
風が吹くと、窓枠がガタガタと鳴る。
ここは廃屋だ。
何もない。
誰もいない。
だからこそ、最高に静かだった。
私は泥のように深い眠りへと落ちていった。




