第3話 硬い板張りと野菜の腐敗臭
早朝の空気は、肺が凍りつくほどに冷たい。
私は裏門の鍵を閉め、鉄柵の隙間からその鍵を庭の茂みへと投げ込んだ。
チャリ、という小さな金属音が朝霧に吸い込まれる。
もう、戻ることはない。
フードを目深に被り直す。
外套の襟を立て、口元まで覆い隠す。
トランクの持ち手を握る指先が白くなっている。
通りには、まだ人影はまばらだった。
私は石畳の上を、できるだけ音を立てないように歩き出した。
ヒールのコツコツという音が、心臓の鼓動と重なって響く。
誰かに見られているのではないか。
角を曲がった先に、王太子の私兵が待ち構えているのではないか。
背中の産毛が逆立つ感覚。
何度も後ろを振り返りたくなる衝動を、奥歯を噛み締めて殺す。
振り返れば、不審がられる。
前だけを見ろ。
私はただの、朝早い旅人だ。
大通りに出ると、辻馬車が数台、客待ちをしていた。
私は一番ボロボロで、御者が居眠りをしている馬車を選んだ。
「……西門の、商隊溜まりまで」
声を低くして告げる。
銀貨を一枚、放り投げるように渡す。
御者は片目を開け、銀貨を受け取ると、無言で顎をしゃくった。
乗り込む。
黴臭い座席。
馬車が動き出すと同時に、私は座席の隅で膝を抱えた。
窓の覆いを少しだけめくり、流れる景色を監視する。
王城の尖塔が、朝焼けの中に黒いシルエットとして浮かび上がっていた。
あそこから追手が放たれるまで、あと何時間だろうか。
あるいは、もう放たれているのか。
胃の腑が締め付けられるような感覚。
思考を止めるな。
計算しろ。
私はポケットから懐中時計を取り出した。
午前五時十五分。
開門は六時。
間に合う。
西門近くの広場は、既に喧騒に包まれていた。
野菜を積んだ荷車、木材を運ぶ大型馬車、行商人たちの怒号と馬のいななき。
動物の排泄物と、土と、汗の匂いが混ざり合った強烈な臭気が鼻をつく。
私はハンカチで鼻を押さえそうになり、慌てて手を止めた。
そんな上品な仕草は、今の私には不要なタグだ。
目当ての馬車を探す。
事前に調べておいた、北の辺境方面へ向かう中規模の商隊。
広場の隅に、幌をかけた荷馬車が三台並んでいるのが見えた。
馬の手入れをしている中年男に近づく。
髭面で、がっしりとした体格。
腰に太いベルトを巻き、使い古された短剣を下げている。
「……北へ行く便だと聞きました」
男が手を止め、私をジロリと見た。
値踏みするような視線。
フードの隙間から、顔の造作を探ろうとしているのが分かる。
「乗合馬車じゃねえぞ。荷物を運ぶのが本業だ」
「荷物の隙間で構いません。体重は軽いので」
「女か。面倒ごとは御免だぜ」
男は鼻を鳴らし、再び馬のブラシ掛けに戻ろうとした。
交渉の余地はない、という態度。
私は懐から小さな革袋を取り出した。
中には金貨が五枚入っている。
平民の年収の半分に相当する額だ。
ジャラ、とわざとらしく音を立てる。
男の手が止まった。
「……身元は?」
「聞かないのが条件です」
「追手がかかってるような筋モンか?」
「借金取りから逃げるだけです」
嘘だ。
しかし、金貨の重みは真実だ。
男は私の手元と、トランクを交互に見た。
数秒の沈黙。
周囲の喧騒だけが、やけに遠く聞こえる。
私の心臓は、喉の奥で早鐘を打っていた。
断られれば、計画は破綻する。
定期便の乗合馬車では身元確認がある。
個人の馬車を雇えば足がつく。
この、名もなき商隊に紛れるしかないのだ。
「……二台目だ」
男が低い声で言った。
「一番奥に、毛布の包みが積んである。その隙間なら空いてる。ただし、乗り心地の保証はしねえ。ゲロを吐いたら追加料金だ」
「感謝します」
私は金貨を二枚、男の掌に押し付けた。
残りは到着時に。
男は金貨を噛んで確かめると、ニヤリと笑って親指を立てた。
指定された馬車の荷台によじ登る。
中は薄暗く、乾燥した草と、何かの香辛料の匂いが充満していた。
木箱と麻袋が天井近くまで積み上げられている。
その隙間に、人が一人やっと座れるだけの空間があった。
私はトランクを足元に押し込み、硬い木箱の上に腰を下ろした。
クッションはない。
背もたれは木枠だ。
これが、これから四日間の私の居場所になる。
馬車が大きく揺れた。
御者の掛け声と共に、車列が動き出す。
ガタガタと車輪が軋む音。
お尻に直接響く振動。
まだ数メートル進んだだけなのに、すでに腰が痛い。
幌の隙間から、外の光が細く差し込んでくる。
その光の帯が、私の膝の上で揺れていた。
十分ほどで、馬車は停止した。
西門の検問所だ。
緊張が走る。
私は膝を抱え、荷物の影に身を縮めた。
呼吸を浅くする。
存在を消す。
私は荷物だ。ただの、ジャガイモの袋だ。
外から、衛兵の声が聞こえてくる。
「荷の中身は?」
「いつもの雑貨と、北の村へ卸す農具だ。ほら、書類」
「ふん……おい、中を見るぞ」
心臓が止まるかと思った。
足音が近づいてくる。
荷台の板が、誰かの体重で軋む音。
幌がめくられる気配。
光が一気に差し込み、埃が舞うのが見えた。
私はフードをさらに深く引き下ろし、顔を膝に埋めた。
見つかる。
引きずり出される。
王太子の前に突き出される。
頭の中で、最悪のシミュレーションが高速で再生される。
「……なんだ、こりゃ」
衛兵の声。
「ああ、そいつは親戚の娘だ。ちょいと流行り病でな、田舎で療養させるんだ」
御者の男が、軽い口調で言った。
「病気? うつるのか?」
「さあな。熱が高いんで、近づかない方がいいかもしれねえ」
嘘だ。
見え透いた嘘だ。
そんなものが通用するはずがない。
衛兵は舌打ちをした。
「チッ、気味の悪い。さっさと行け」
幌がバサリと戻された。
視界が再び薄暗闇に戻る。
「へいへい、ご苦労さん」
鞭の音。
馬がいななき、車輪が回り始める。
私は数秒間、息を止めたままだった。
通過した?
本当に?
身元の確認は?
手配書との照合は?
馬車のスピードが上がり、石畳から土の道へと変わる感触が伝わってきた。
ゴトゴトという振動が、より激しく、荒々しいものに変わる。
私は震える手で、顔を上げた。
検問が、あまりにも杜撰だった。
それはつまり、私が「探されていない」という証明だ。
国を揺るがす大罪人なら、もっと厳重に封鎖されるはずだ。
王太子が血眼になって探しているなら、一人一人顔を確認するはずだ。
それがなされなかった。
安堵と同時に、乾いた笑いが込み上げてくる。
なんだ。
そうか。
自意識過剰だったのだ。
私は、物語が終われば用済みの、ただの端役。
ゴミを捨てた後に、わざわざゴミ捨て場まで確認しに行く人間はいない。
体の力が抜け、背後の木箱に寄りかかる。
ゴツン、と後頭部をぶつけた。
痛い。
その痛みが、妙に現実的でおかしかった。
私は幌の隙間から、後ろを振り返った。
遠ざかる王都の城壁。
巨大な石造りの門が、朝霧の向こうに小さくなっていく。
あの中で、私は生きていた。
着飾って、笑って、誰かを陥れる計画を練って、完璧な悪女を演じていた。
それはまるで、ガラスドームの中の出来事のようだ。
今は、風が冷たい。
土埃が喉に張り付く。
お尻の下の板は硬く、容赦なく私の骨盤を打ち付けてくる。
これが外の世界。
私はトランクを引き寄せ、その上に腕を乗せ、あごをのせた。
揺れる。
ひたすらに揺れる。
三十分もすれば、お尻の感覚はなくなるだろう。
二時間もすれば、腰が悲鳴を上げるだろう。
それでも、この振動は「前進」の証だ。
私は目を閉じた。
まぶたの裏に、レオンハルト殿下の顔がちらついたが、すぐに揺れにかき消された。
まずは四日間。
この痛みに耐え抜くこと。
それが、私の新しい人生の最初のミッションだった。




