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婚約破棄されたので、恋愛小説のヒロイン役を辞めました  作者: 九葉(くずは)


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第2話 重すぎるドレスと一握りの宝石

 屋敷の鉄門が、重苦しい音を立てて開いた。


 砂利を踏む馬車の車輪音が、深夜の庭園に不規則に響く。

 窓から見える公爵邸は、巨大な墓標のように暗く沈黙していた。


 エントランスの明かりだけが、ポツンと灯っている。


 私は深く息を吸い、肺の中で冷たくなった空気をゆっくりと吐き出した。

 

 これから行うのは、ただの事後報告だ。

 そして、最後の手続きでもある。


 馬車を降りる。

 出迎えた執事の老人が、私の顔を見てわずかに目を伏せた。


「……お帰りなさいませ、お嬢様」

「お父様は?」

「書斎におられます。お待ちでした」


 やはり、情報は既に回っているらしい。

 王城からの早馬か、あるいは王太子の側近か。

 

 私は頷き、足音を殺して廊下を進んだ。


 分厚い絨毯。

 壁に飾られた歴代当主の肖像画。

 磨き上げられた手すり。


 かつては我が家だと思っていた空間が、今は他人の舞台セットのように白々しく見える。

 

 書斎の扉の前で立ち止まる。

 

 重厚なマホガニーの一枚板。

 この向こうにいるのは、私の父であり、ローゼン公爵家の当主である男だ。

 

 ノックを三回。

 

「入れ」

 

 短く、低い声。

 

 私はドアノブを回し、部屋へと足を踏み入れた。

 

 部屋の奥、巨大な執務机の向こうに父が座っている。

 手元の書類に目を落としたままだ。

 ペンを走らせる音が、カツカツと乾燥したリズムを刻んでいる。

 

 私と父の距離は、およそ五メートル。

 その空間には、書類の山と、冷え切った紅茶の香りが漂っていた。


「殿下より、婚約破棄を言い渡されました」


 私は事実だけを口にした。

 謝罪も、弁明もしない。

 それは「悪役令嬢」の役割ではなく、ましてや敗北者の義務でもないからだ。


 ペンの音が止まる。


 数秒の沈黙。

 

 壁掛け時計の秒針が動く音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……そうか」


 父は顔を上げなかった。

 視線は書類の文字をなぞったままだ。


「それで?」


 問いかけですらない、確認のような響き。

 

 想定通りだ。

 傷物になった娘に、政略的な価値はない。

 この家にとって私は、既に償却済みの資産なのだ。


「夜明けとともに、王都を離れます。以後は北の別邸にて、謹慎いたします」

「……」

「ご迷惑をおかけしました」


 深く頭を下げる。

 

 父が、ふう、と短く息を吐いた。

 手元の書類を一枚めくる。

 紙が擦れる音が、拒絶の合図のように鼓膜を叩いた。


「……好きにしろ」


 それだけだった。

 

 怒鳴られることも、嘆かれることもない。

 ただの無関心。

 あるいは、厄介払いができて安堵しているのかもしれない。


「失礼いたします」


 私は一礼し、踵を返した。

 

 背後で再び、ペンが走る音が聞こえ始めた。

 

 廊下に出る。

 扉を閉めると、カチャリというラッチの音が、私と公爵家との縁を断ち切った気がした。


 これでいい。

 これが一番、効率的だ。


 私はドレスの裾を掴み、階段を早足で駆け上がった。

 

 自室に入る。

 

 侍女はいない。

 誰も寄せ付けないように言いつけておいた。

 

 鍵を掛ける。

 

 まずは、この拘束具を外さなければならない。

 

 鏡の前に立つ。

 映っているのは、華美な装飾に埋もれた「悪役」の残骸だ。

 

 背中に手を回し、ドレスの紐を乱暴に緩める。

 コルセットのフックを外す。

 

 バチン、バチンと留め具が弾け飛ぶ。

 

 肋骨を締め上げていた圧力が消え、肺が大きく膨らんだ。

 

 重い布の塊を床に落とし、それを跨いでクローゼットへ向かう。

 

 奥から、古い革製のトランクを引きずり出した。

 

 埃っぽい匂いがした。

 学生時代、長期休暇のたびに使っていたものだ。

 丈夫で、傷だらけで、今の私には一番相応しい。

 

 ベッドの上にトランクを広げる。

 

 さて、何を入れるべきか。

 

 思考を切り替える。

 ここからは感傷の入り込む余地はない。

 物理的なスペースと、重量と、生存確率の計算だけが必要だ。

 

 クローゼットの中を見る。

 

 色とりどりのドレス。

 流行の最先端を行く刺繍、レース、シルク。

 一着で平民が一年暮らせる値段のものばかりだ。

 

 すべて、ゴミだ。

 

 こんな嵩張るものをトランクに入れれば、着替え一着で容量が埋まる。

 それに、逃亡先でこんなものを着ていたら、強盗への招待状にしかならない。

 

 私はドレスを無視し、奥の方に押し込んであった乗馬用のズボンと、シンプルなリネンのシャツを取り出した。

 

 これだ。

 動きやすく、丈夫で、目立たない。

 

 トランクの底に敷き詰める。

 下着、靴下、防寒用のショール。

 

 次に、宝石箱を開けた。

 

 煌びやかな光が溢れ出す。

 王太子から贈られたネックレス、夜会用のティアラ、大粒のダイヤモンドの指輪。

 

 これらは置いていく。

 王家由来の品を持ち出せば、窃盗の罪を着せられる可能性がある。

 それに、足がつきやすい。

 

 私が手を伸ばしたのは、もっと地味な区画だ。

 

 祖母から譲り受けた金のブローチ。

 ルビーの粒がついた、古いデザインの指輪。

 真珠のイヤリング。

 

 デザインは古臭いが、地金の純度は高い。

 そして何より、銘が入っていない。

 

 どこの質屋でも換金可能で、身元の特定に繋がらないもの。

 

 小さな布袋に、それらを放り込んでいく。

 ジャラジャラと、金属と石がぶつかり合う音がする。

 

 これが私の全財産になる。

 

 袋の口を縛り、トランクの衣類の隙間に押し込む。

 

 机の上を見る。

 

 日記帳。

 王太子との思い出を綴った、分厚い革表紙の本。

 

 手に取る。

 

 表紙を撫でる。

 指先に、革の凹凸が伝わる。

 

 開けば、そこにはかつての私がいる。

 彼を愛し、彼に愛されることを夢見ていた、愚かな少女の記録。

 

 持っていくべきだろうか。

 

 いや。

 

 重い。

 物理的に、一キロはある。

 

 この一キロがあれば、干し肉と水筒が入る。

 保存食と、過去の妄想。

 どちらが生存に寄与するかは明白だ。

 

 私は日記帳をゴミ箱へ放り込んだ。

 

 ドサッ、と鈍い音がした。

 

 それから一度も振り返らず、トランクの蓋を閉める。

 

 金具を留める。

 カチャリ。

 

 その音で、すべてが完了した。

 

 私は部屋を見渡した。

 

 抜け殻のようなドレスが床に散らばっている。

 宝石箱は開けっ放しだ。

 

 まるで泥棒が入った後のようだ。

 

 そう、私は泥棒だ。

 エリス・フォン・ローゼンという役柄から、自分の人生を盗み出して逃げるのだ。

 

 窓の外を見る。

 

 東の空が、わずかに白み始めている。

 

 時間がない。

 

 私はトランクを持ち上げた。

 ずしりとくる重さが、腕の筋肉を緊張させる。

 

 この重さこそが、私の自由の質量だ。

 

 ドアノブに手をかける。

 金属の冷たさが、汗ばんだ掌に心地よかった。

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