第12話 閉ざされた家計簿と開かれる幕
朝食のメニューは、蒸かしたジャガイモと、薄く切った堅焼きパンだった。
お世辞にも豪華とは言えない。
元公爵令嬢と、現役のヒロイン候補が囲む食卓としては、歴史に残る貧相さだ。
だが、目の前の少女は、まるで王宮の晩餐会かのように目を輝かせていた。
「おいしいっ! エリス様、このお芋、すっごくホクホクしてます!」
「……ただ茹でただけです」
「素材の味ですね! 大地の恵みって感じです!」
リリィは口の周りにパン屑をつけながら、満面の笑みでジャガイモを頬張っている。
私はため息をつき、自分の皿の上の芋をフォークで突き刺した。
昨晩は地獄だった。
彼女は「修学旅行みたい!」とはしゃぎ回り、私が掃除したソファーを占領し、夜遅くまで「エリス様の悪役ムーブの素晴らしさ」について語り続けた。
おかげで睡眠時間は三時間を切っている。
頭が重い。
思考が鈍い。
早く帰ってほしい。
切実にそう願う一方で、物理的な帰宅手段がないという現実に絶望する。
私は食卓の端に置いていた家計簿──ただの大学ノートだが──を開いた。
昨日の支出。食費ゼロ(備蓄消費)。
本日の予定。リリィの輸送手段の確保。ギルドでの帳簿整理。
日常を取り戻さなければならない。
この嵐のような少女を王都へ送り返し、私はまた、静かで孤独な廃屋の主に戻るのだ。
ペンを取り、インクを付ける。
その時だった。
ドドドドド……。
地響きのような音が、床板を通して伝わってきた。
私はペンを止めた。
インクが一滴、紙の上に落ちて黒い染みを作る。
昨日のハインリヒの時とは違う。
一頭ではない。
四頭、いや、もっとか。
そして、重たい車輪が砂利を噛む音。
複数の馬と、大型の馬車。
「あ、何か来ましたよ?」
リリィが呑気にフォークをくわえたまま、窓の方へ首を伸ばした。
嫌な予感がする。
背中の産毛が逆立つような、生存本能からの警報。
私は椅子を蹴るようにして立ち上がり、窓辺へと駆け寄った。
カーテンの隙間から外を見る。
絶望が、物理的な形をしてやってきていた。
黒塗りの馬車。
四頭立ての白馬。
扉に輝くのは、金色の双頭の獅子の紋章。
そして、その周囲を固める四名の近衛騎士。
王家の馬車だ。
それも、お忍び用の地味なやつではない。公式行事で使うような、威圧感たっぷりの旗艦車両だ。
「わあ! 殿下だ! 殿下が来ちゃいました!」
リリィが後ろから覗き込み、パチパチと手を叩いた。
「やっぱりエリス様のこと、大好きなんですねぇ。GPSでも付いてるのかな?」
「……黙ってください」
喉が渇いて、声がうまく出ない。
GPSなどという可愛いものではない。
これは包囲だ。
逃げた獲物を、巣穴ごと潰しに来たのだ。
私の視線は、無意識のうちに裏口の方へと向いた。
逃げるか?
台所を抜け、勝手口から森へ。
森に入れば、馬車は追ってこられない。
だが、その後は?
着の身着のままで、食料もなく、金もなく。
野垂れ死ぬか、狼の餌になるか。
それに、この子がいる。
リリィを置いていけば、彼女は確実に王太子に確保される。
そして「エリス様はあっちへ逃げました!」と無邪気に指差すだろう。
詰んでいる。
物理的にも、状況的にも、逃げ場はない。
馬車が門を通過し、荒れた庭の真ん中で停止した。
御者が飛び降り、扉に手をかける。
中から出てくる人物など、確認するまでもない。
この国の次期国王。
私を捨てた男。
そして今、執拗に私を追いかけてくる捕食者。
レオンハルト。
私はゆっくりと、窓から離れた。
テーブルに戻る。
開きっぱなしの家計簿。
インクの染みが広がっている。
『本日の予定:ギルドでの帳簿整理』
無理だ。
今日の予定は、すべてキャンセルだ。
もしかしたら、明日以降の予定も、永遠に白紙になるかもしれない。
私は震える指先で、ノートの角を掴んだ。
パタン。
家計簿を閉じる。
乾いた音が、私の「ささやかな日常」の終了を告げるゴングのように響いた。
ペンを置く。
インクの蓋を閉める。
深呼吸を一つ。
肺の中の空気をすべて吐き出し、代わりに冷たい覚悟を吸い込む。
逃げるのは、終わりだ。
これ以上逃げても、物語の強制力からは逃れられない。
ならば、真正面からぶつかって、砕けるなら砕ければいい。
私は悪役令嬢だ。
少なくとも、かつてはそうだった。
断罪されるなら、みっともなく背中を見せて撃たれるより、傲慢に顎を上げて笑ってやりたい。
「……リリィ様」
私の声は、驚くほど低く、落ち着いていた。
「ここにいてください。私が話をつけます」
「えっ? 私も行きますよ? 特等席で見たいし!」
「ダメです」
私は彼女を睨んだ。
本気の、悪役の目で。
「これは私の喧嘩です。観客はいりません」
リリィが少しだけ目を丸くし、それからニヤリと笑った。
「……了解です。頑張ってくださいね、エリス様」
私は頷き、玄関ホールへと歩き出した。
一歩ごとに、足が重くなる。
心臓が早鐘を打つ。
けれど、もう迷いはない。
玄関の扉の前に立つ。
外から、砂利を踏む足音が近づいてくる。
ザッ、ザッ、ザッ。
ためらいのない、力強い足音。
私は冷たいドアノブを握りしめた。
金属の冷気が、熱を持った掌を冷やしていく。
来るなら来い。
ラスボスでも、元婚約者でも、王太子でも。
私の平穏を脅かす敵は、すべて排除する。
言葉という武器で。
コン、コン。
ノックの音が響いた。
私は勢いよく、扉を押し開けた。
逆光。
眩しい朝日の向こうに、長身の影が立っていた。
物語の幕が、再び上がる。
第1章-完
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし、この物語を少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、大変励みになります!!
皆様の応援のおかげで日々執筆出来てます!
ありがとうございます!!




