第11話 崩壊する設計図と人肉ビーコン
頭が痛い。
こめかみの奥で、小人が金槌を叩いているような鈍痛がする。
私は冷め切った紅茶──もはや泥水と変わらない温度だ──を一口含み、目の前の少女を凝視した。
リリィは、まるで推しのアイドルについて語るファンのように、頬を紅潮させて熱弁を振るっていた。
ただし、その内容は王国の危機管理に関わるレベルの爆弾発言ばかりだった。
「ですからね、殿下ったらもう、毎日毎日イライラしちゃって! 会議中もずっと貧乏揺すりしてるし、側近の方なんて胃薬が手放せないって泣いてました!」
無邪気な声音。
語られているのは、国のトップの精神崩壊だ。
「……リリィ様。確認ですが、殿下は新しい婚約者を探しておられるのですよね?」
「いいえ? 『俺の隣に立つのは一人しかいない』って、すごい剣幕で怒鳴り散らしてましたよ。おかげで舞踏会も全部中止です」
カチャン。
カップをソーサーに戻す手が滑った。
全部中止。
新聞記事の通りだ。
だが、現場からの生の声は、活字よりも遥かに鮮明で、絶望的だった。
私は額に手を当てた。
シナリオが壊れている。
いや、最初から配線が間違っていたのか?
正ヒロインがここにいて、王太子を「うるさい人」呼ばわりしている。
王太子はヒロインを無視して、元婚約者(私)への執着を拗らせている。
このままでは、物語が「ハッピーエンド」に着地しない。
恋愛小説において、ヒーローとヒロインが結ばれない場合、どうなるか。
バッドエンドだ。
世界が不安定になり、戦争が起きるか、魔王が復活するか、あるいは──原因となった「悪役」が、全責任を負わされて処刑されるか。
背筋に冷たいものが走った。
まずい。
非常にまずい。
この子がここにいること自体が、最大のリスクだ。
王太子にとって、リリィは(本人がどう思っていようと)重要なカードのはずだ。あるいは、世間体として確保しておかなければならない「聖女」だ。
その彼女が行方不明になれば、国を挙げての大捜索が始まる。
そして、彼女の足取りを追えば、必然的にここへ辿り着く。
彼女は、王太子をこの廃屋へ誘導するための、高性能な人肉ビーコンだ。
私は立ち上がった。
椅子がガタッと音を立てて倒れそうになるのを、手で押さえる。
「……帰りましょう」
「えっ?」
「リリィ様。今すぐ、王都へお帰りください」
私は彼女の元へ歩み寄り、その手を取った。
柔らかくて、温かい手。苦労を知らない、守られた人間の手だ。
私のガサガサになった指先とは、生物としての種族が違う気がした。
リリィがきょとんとして、首を傾げた。
「どうしてですか? 私、やっとエリス様に会えたのに。もっとお話ししたいです! あ、ここにお泊まりしてもいいですか? 雑魚寝とか、憧れてて!」
雑魚寝。
この埃っぽい床でか。
王国の至宝になんてことをさせる気だ。もし風邪でも引かせたら、私の罪状に「王家への傷害罪」が追加される。
「ダメです。ここは貴女のような方がいていい場所ではありません」
「エリス様がいるなら、そこが王宮です!」
「意味の分からない賛美はやめてください。とにかく、帰るのです」
私は彼女の腕を引き、強引に立たせた。
意外と重い。
ドレスの布量が多いせいか、あるいは彼女の意志の重さか。
リリィは踏ん張った。
「嫌です! 帰りたくない! あんなピリピリした王城なんて、息が詰まっちゃいます!」
「息抜きのために私の命を危険に晒さないでください!」
「危険なんてありませんよぉ。殿下、エリス様のことになるとポンコツになりますし」
「それが危険だと言っているんです!」
問答無用。
私は彼女の背中に手を回し、ぐいぐいと玄関ホールへと押していった。
まるで駄々っ子をあやす母親だ。
あるいは、大型犬を小屋に入れようとする飼い主か。
玄関ホールに出る。
夕日が差し込み、舞い上がる埃が黄金色に輝いていた。
「馬車は待たせているのでしょう? 日が暮れる前に出発すれば、隣町の宿場には間に合います」
「待たせてません!」
「はい?」
私の足が止まった。
リリィの背中を押していた手が、ふわりと浮く。
「……えっと、待たせていないとは?」
「片道切符で来ちゃいました! 御者さんには『帰っていいよ』って!」
満面の笑みで告げられた事実に、私は言葉を失った。
バカなのか。
この子は、天才的に頭の悪いバカなのか。
ここは辺境だ。
流しのタクシーなど通らない。
足がない。
つまり、物理的に「帰せない」。
目眩がした。
視界がぐらりと揺れ、壁に手をつく。
詰んだ。
この爆弾娘を、少なくとも一晩、あるいは次の商隊が通る数日後まで、ここに置いておかなければならない。
その間に追手が来たら?
王太子本人が乗り込んできたら?
「……エリス様? 大丈夫ですか? 顔色が……」
「……誰のせいだと」
私は呻いた。
リリィが心配そうに私を見上げ、そしてパッと何かを思いついたように手を打った。
「そうだ! じゃあ、殿下に迎えに来てもらいましょうか?」
「は?」
「私がここにいるって手紙を書けば、すぐに飛んできてくれますよ。ついでにエリス様とも会えて、一石二鳥ですね!」
悪魔の提案だ。
一石二鳥ではない。一網打尽だ。
私が全力で回避しようとしているバッドエンドへ、直通の特急列車を呼ぼうとしている。
「絶対に、ダメです」
私は彼女の両肩を掴み、鬼の形相で詰め寄った。
「いいですか。絶対に、誰にも、連絡をしてはいけません。手紙も、伝書鳩も、狼煙も禁止です」
「えー……」
「『えー』ではありません。私の平穏がかかっているんです」
リリィは不満げに唇を尖らせたが、私の剣幕に押されたのか、しぶしぶ頷いた。
「分かりましたぁ。じゃあ、今日は泊めてくれますよね?」
選択肢はなかった。
野宿させるわけにはいかない。
私は深いため息をつき、玄関の扉──リリィを押し出すはずだった境界線──を見つめた。
鍵をかける。
ガチャリ。
その音が、まるで牢獄の錠前を下ろす音のように聞こえた。
内側に敵(無自覚なフレンドリーファイア要員)を抱え込み、外側からはラスボスが迫っている。
完璧な籠城戦だ。
勝算など、どこにもなかった。




