第1話 終幕を告げる扇子の音
「エリス・フォン・ローゼン! 貴様との婚約を破棄する!」
声が、高い天井に反響した。
頭上のシャンデリアが微かに震え、クリスタル同士がぶつかる硬質な音を立てる。
私はゆっくりと瞬きをした。
王城の舞踏会場。
数百の瞳が、私一点に縫い付けられている。
正面には、かつての婚約者。
この国の王太子、レオンハルト殿下が立っていた。
整った顔立ちが歪んでいる。
握りしめられた拳は白く、小刻みに震えていた。
よほどの怒りなのだろう。
あるいは、生理的な嫌悪か。
私という存在を視界に入れることすら、彼には耐え難いストレスなのかもしれない。
当然だ。
そういう「役割」を、私は今まで完璧に演じてきたのだから。
周囲の貴族たちが息を呑む音が聞こえる。
軽蔑、嘲笑、あるいは憐憫。
粘着質な視線の熱量が、肌をじりじりと焼く。
けれど、私の思考は急速に冷却されていた。
──来た。
ようやく、来た。
物語の強制力が働く、確定イベント。
断罪と追放。
それはつまり、私のクランクアップを意味する。
手の中にある扇子の感触を確かめる。
象牙の柄は硬く、掌に冷やりとした現実感を伝えてくる。
私は親指で留め具を弾いた。
パチン。
乾いた音が、静寂のホールに響き渡る。
それが私の中のスイッチだった。
女優としての仮面を外し、ただの舞台裏スタッフへと戻るための合図。
「……承知いたしました」
私の声は、驚くほど平坦だった。
殿下の眉がぴくりと跳ねる。
「……なんだと?」
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。今までお世話になりました」
ドレスの裾を掴み、カーテシーを行う。
背筋を伸ばし、膝を曲げ、頭を下げる。
幼い頃から何千回と繰り返してきた動作だ。
身体が勝手に最適解をなぞる。
顔を上げると、殿下は口を半開きにして固まっていた。
想定外だったのだろうか。
普通なら、ここで泣き崩れるのか。
あるいは「どうしてですか!」と縋り付くのが、このジャンルの「お約束」だったか。
だが、無駄だ。
コルセットが限界に近い。
朝から何も食べていない胃が、締め付けられて悲鳴を上げている。
これ以上、無意味な尺稼ぎに付き合う体力は残っていない。
殿下の隣を見る。
そこには、怯えたように身を縮こまらせる小柄な少女がいた。
あぁ、彼女がそうなのだろう。
この物語の「正ヒロイン」。
名前は知らない。覚える必要もなかった。
私の役目は、彼女が輝くための踏み台になることだけだ。
殿下の震える拳が、わずかに開こうとして、また強く握り込まれるのが見えた。
まだ何か言いたいことがあるのか。
罵倒か。追加の罪状読み上げか。
私は視線を、彼の方ではなく、会場の出口にある大きな両開きの扉へとずらした。
あそこまで、およそ五十メートル。
ヒールの高さは七センチ。
絨毯は毛足が長く、歩きにくい。
転ばずに歩き切れば、それで終わりだ。
「慰謝料等の細かな条件につきましては、後日、代理人を通じて書面にて」
事務的に告げる。
「え、あ、いや……エリス、待て」
殿下の声が裏返った。
待たない。
ここで立ち止まれば、「ざまぁ」展開の餌食になる。
泥を投げつけられ、ワインを頭から被り、惨めに退場するオプションなど御免だ。
ドレスは借家一軒分よりも高い。
クリーニング代だって馬鹿にならないのだ。
私はもう一度、深く頭を下げた。
「殿下と、彼女の未来に、幸多からんことを」
踵を返す。
背中に、数百の視線が突き刺さる。
殿下が何か叫んだ気がした。
けれど、音楽隊が気を利かせたのか、あるいは空気を読めなかったのか、唐突に次のワルツを奏で始めた。
優雅な旋律が、殿下の声を塗りつぶす。
私は歩く。
一歩、また一歩。
右足が痛む。
新しい靴擦れができているかもしれない。
けれど、軽い。
重厚な扉に手をかけ、衛兵が慌ててそれを押し開く。
吹き込んでくる夜風が、熱を持った頬を撫でた。
終わった。
私の「悪役令嬢」としての人生は、今この瞬間、完全に終了した。
扉が背後で重く閉ざされる。
漏れ聞こえていた音楽と喧騒が、ふっ、と遠ざかった。
私は誰もいない廊下で、大きく息を吐き出した。
肺の奥に溜まっていた澱が、すべて抜けていくようだった。
扇子を帯に差す。
もう、これを開くことはないだろう。
さあ、帰ろう。
荷造りをしなければ。
明日の夜明けには、この王都を発つ。
私はヒールの音を高く鳴らし、馬車止めへと続く階段を降り始めた。




