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prism

作者: 沖島 芙未子

 私は木々の枝をかき分けて小さな丘の上に出た。辺りには冬枯れの寂しい匂いが満ちていた。空が近いこの広場は、まるで外界から隔絶された異界であるかのようにも思えた。私は周囲の様子を確認してから、乾いた草の上に徐に腰を下ろした。

 山間のこの小さな村に滞在し始めてから幾日かが経っていた。この村がいくつ目の滞在先かは、もう数えるのをやめてしまったので分からない。旅の持ち物は少しの食糧と水、それに竪琴だけだった。そのほかには何も要らなかった。私はある時は大きな町の広場で、またある時は村の小さな市場の片隅でひとり竪琴を奏で、人々に古の詩を語り聞かせる。旅を始めてから、既に季節は日時計が回るように何度か巡り、いつの間にかこの暮らしがすっかり体に馴染んでいた。

 竪琴の弦をひとつふたつと爪弾く。私が奏でる音は此処では自分以外の誰の耳にも届くことなく、初冬の乾いた空気に融けて消えてゆくばかりだった。けれど、私はそれで良かった。もし天気が悪くならなければ、明日も日々の糧を得た後に、この静かな丘の上でこうして竪琴を弾こう。私は体が覚えている旋律を徒然に奏でながらそう考えた。


 そうして丘の上で竪琴を弾き始めてから何日か経った頃、私は不思議なことに気付いた。先ほどから誰も森の中を通って来てはいないのに、私のそばに何かおとなしい一つの生き物の気配を感じるのだ。多くの生物が眠りにつくこの季節のこと、野生の動物ではないだろう。その気配は、気付いた時には私の肩から身体一つか二つ分離れたところにそっと在って、静かに演奏に耳を傾けているようだった。とりわけ不思議なことは、その気配が現れる時に辺りの草を踏む音が一切しないことだった。そして消える時は風が吹きぬけるよりも速く、やはり音を立てずに丘から遠ざかっていくのだった。もしかして、その不思議な生き物には足が無いのだろうか。私はひとり首をひねった。

 次の日、私はそれの正体を探ろうとじっと耳を澄ましてみた。すると、薄い素材を幾枚も重ねた衣が擦れる音が聞こえた。少なくとも体に衣を纏っている生き物であることが分かった。それに、それが居るであろう方向がいつもかすかに暖かくなっていることも発見した。体温のある生き物なのだ。

 次の日には、その不思議な生物と話してみることにした。まるで気紛れな野良猫のように、声をかけた途端に姿を消してしまうのかもしれない――そう考えると言葉を発するのも躊躇われたが、それよりも胸の奥でふつふつと音を立てる好奇心の方が勝った。私は気配を感じる方に向かって話しかけた。

「楽しいかい」

「ええ、とても」

 女性らしき声が短く響いた。年若く清らかでありながら、まるで霧のような儚さも感じる声だった。ともかく、予想に反してすぐに返答が得られたので、私は危うく大事な琴を取り落とすところだった。女性の声が小さな鈴を転がすように笑い、また衣の擦れる音がした。

 それから、私は竪琴を弾く合間にたびたび彼女と話をするようになった。今まで歩いてきた土地のこと、出会った人間のこと、その土地ごとに伝わる物語のことを彼女に話して聞かせた。会話ができるようになったからといって、その女性が不思議な存在でなくなるわけではなかったが、私はもうそのことを気にしなくなっていた。私の話に相槌を打つ彼女の声が楽しそうに弾むたび、私は長い間忘れていた感情が少しずつ蘇ってくるのを感じた。――もう、自分がこんな感情を抱くことは未来永劫無いものだと思っていたのに。人との交わりを断ち、ひとりで旅をして生きると決めたあの日から。


 この丘に通い始めて、更に幾日かが経った。何十篇目かの歌物語を歌い終えた頃、私は資金を得るために次の村へ旅立つことを決めた。私は何だか自分が旅人であったことを久しぶりに思い出した気がした。この村に滞在した日数は、最初に決めていた期間よりもずっと長かった。

 その日の最後の歌を弾き終えたあと、私はこの村を去ることを彼女に向かって説明した。彼女は私の話を黙って聞いているようだったが、私が話し終えた後に、心なしか沈んだ声で残念だと呟いた。それから、何かに気付いたように小さく声を上げると、私にひとつの提案をした。

「では、お願いがあります。明日の最後のひと時を私に頂けますか?」

 演奏への礼をしたいから、と彼女は言った。私はこれまでそのような頼みをされたことがなかったので、戸惑いのためにしばらく沈黙したが、それを了承することにした。正体の知れない者とはいえ、そう悪いことにはならないだろう。自然にこう思えるだけの信用が、もう彼女の間には結ばれているような気がした。

 その夜、彼女は何者なのだろうと改めて深く考えた。普段、私の世界には竪琴と歌物語しか存在せず、そのほかのどのような事柄も私の頭の中を大きく占めることはなかった。何年もの間、それが日常だった。誰とも深い交流を持つことはなかった。こんなふうにひとりの人間のことを考え続けるのはいつぶりのことだろうか。誰にも邪魔をされずに自由に竪琴を弾くためにあの丘で演奏していたはずなのに、いつの間にか、私はたったひとりの聴き手のために琴を奏でていたのだと気付いた。

 夕方から降り出した雨は深夜にかけて長く降り続き、絶え間ない雨音が丁度良い具合に私を眠りに誘った。私はあくびを一つして、明日旅立つあの丘のことを思った。


 次の日も、何も変わったところはなかった。私はいつものように数編の詩に旋律をつけて歌い、女性は側の草の辺りで静かにそれを聴いていた。ふたりの間をゆるい風が吹き抜けていった。その風の速度が象徴するように、その日は時間が普段よりも緩やかに流れているように思えた。

 やがて夕暮れが近付き、私が立ち上がろうとすると、女性の声に引き留められた。

「ねえ、待って。少しの間だけ、そこから動かないでいて」

 私は彼女の言う通りに再び腰を下ろし、何が起こるのだろうかと息を詰めて待った。やがて、私の横に漂うようにして存在していた彼女の気配が少しずつ近付くのが感じられた。気配が私のすぐ前まで来た時、私はまなこの奥に温かい湯が滲み込んでゆくような感覚をおぼえた。体温よりは熱っぽいが炎ほどには苛烈でない、不思議な熱さだった。私は暫くその心地良い感覚に身を浴した。

「目をひらいてください」

 すぐそばで声が聞こえた。私は躊躇した。そんなことができるものだろうか。光を失って以来、もう何年も、試したことすらないのに。

 私は訝しみながら、恐る恐るといった調子で目蓋を持ち上げた。徐々に視界が開け、目の前にいる人物の輪郭が明確になっていった。半身をこちらに乗り出して私を興味深げに見つめていたのは、黄金色に輝く丸い瞳を持った、まだあどけなさの残る少女であった。彼女の背中には瞳の色と同じ金の翼がたたまれ、その背後では、一本の虹が東の空を灰色と縹色とに分かっていた。羊毛を千切って並べたような雲の形も、枯れ果てた草の色も、何もかもみな懐かしかった。私は、もう二度と体験することは叶わないだろうと思っていた光ある世界の眩しさに思わず目を眇めた。

 目の前で少女の唇が軽く笑みの形をつくり、その間から鈴を揺らすような声が発せられた。ああ、この声だ。私は隣で、ずっとこの声を聞いていたのだ。

「お礼にこれを見てもらえたらと思ったの。でも、内緒になさってね。ひとりの人間にこんな風に干渉したと知れたら、私が仕えているお方に怒られてしまうから」

 彼女は顔の前に人差し指を立て、目は柔らかく笑ったままで小首を傾げた。そして、神格の高くない自分ではあなたの目をすっかり治してしまうことはできない、と済まなそうに付け加えた。私は、それでも構わないと首を振った。彼女をこうしてひと目見ることができて、目を合わせて話ができた。それだけで、演奏の対価としては十分すぎるものだと思った。それに、私は自分がこの景色を永久に留めておくことができることをもう知っている。記憶が色褪せぬうちに、歌物語の中に閉じ込めてしまえばよいのだ。そう、私は吟遊詩人で、私にはこの歌声と竪琴があるのだから。

 少女は暫く私を見つめていたが、やがて時間が来たと言って、私にさよならの挨拶をした。そして、そのまま二・三歩後ろに下がったかと思うと、羽根の形の装飾が巻きついた履き物で地を蹴って空へと飛び上がった。白金の長い髪と白い薄衣の裾を靡かせ、金色に輝く一対の翼を大きく広げて、彼女は風のように飛び去ってしまった。やがて鮮やかな虹の向こうに彼女の姿が消えるまで、私は竪琴を胸に抱いたまま長いこと空を見上げていた。

 彼女が言った通りに、私の視界の光はだんだんと弱まり、灰色の靄のなかへと呑まれていくのが分かった。虹の色がひとつずつぼやけてゆく様子を、私はただ静かに観察していた。闇は緩慢に辺りへ広がり続け、ついにはすっかり元のように私の視界を支配した。

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