憧れの恋愛小説の世界に来たはずのに、なかなか原作再現できない令嬢のお話
ふと、目が覚めた。
なんだかスッキリした気分だった。よく眠れたらしい。
心地よい振動。窓の外には穏やかな平原がゆっくりと流れている。どうやら馬車に乗っているらしい。
妙だった。馬車に乗った記憶が無い。行先にも見当がつかない。でも頭はやけにはっきりしている。
あたりを見回すと、向かいの席には一人の青年がいた。
肩まで伸びるつややかな銀髪。切れ長の怜悧な瞳。白い肌。
窓から外を物憂げに眺める、美しい青年がいた。
目にするのは初めてで、しかしよく知っている男の人。見たことは無くても、何度も読んだことのあるその人の姿に、わたしは確信をもってその名を呼んだ。
「ジールヴェルト様……」
銀髪の貴公子ジールヴェルトは、窓からこちらに向き直った。
その表情は驚きに満たされていた。
ああ、驚くのも無理はない。だってこれは「原作にないセリフ」だ。
わたしは一つ大きく息を吸うと、「原作のセリフ」で語りかけた。
「いいお天気ですね。心が晴れ渡る気がします。あなた様のおっしゃる通り、学園からはしばらく距離を置くべきなのだと思います」
期待をこめてじっと見つめる。
やがて、ジールヴェルト様はようやくふっと微笑んでくれた。
「……それならそんな堅苦しい言葉を使うことはない。僕のことも、様づけなんていらない。気安く『ジールヴェルト』と呼んでくれ」
「はい、ジールヴェルト様」
「様?」
「え、えとあの……ジールヴェルト……」
「よく言えたね、イェルオーネ」
「もうっ! からかわないでください!」
顔を合わせてくすくすと笑う。
よし、原作の会話の流れに戻すことができた。しあわせで胸が満たされる。
そして確信した。わたしは大好きな恋愛小説「水面にたゆたう乙女の想い」の世界にやってきたのだ。
「水面にたゆたう乙女の想い」。
乙女の切ない思いを描きあげた恋愛小説である。
学園に入学した貴族令嬢・イェルオーネは三人の青年と出会う。
誰よりも熱くてまっすぐで、凛とした赤毛のイケメン・レッディード。
クールでちょっとアウトローに見えて、しかし心優しい美男子・ブルーティアス。
冷淡かつ理知的、しかし実は情に厚く周りに気を配ることを忘れない銀髪の貴公子ジールヴェルト。
物語は二部構成となっている。
第一部の舞台は学園。イェルオーネと三人のイケメンをめぐる恋の駆け引き。ときめき、とまどい恋慕、友情、対立、葛藤。次々に移り変わる状況、一人の乙女と三人の青年の甘く切ない想い。繰り広げられる恋模様はまるで咲き乱れる花のようにきらびやかで美しい。
第一部のクライマックスでは、己が愛をかけてレッディードとブルーティアスが決闘することになる。その勝負を止めようとしたイェルオーネは、二人の魔法に巻き込まれ怪我をしてしまう。
第二部の舞台は湖の近くにある街ラーケルトだ。イェルオーネの傷は軽いものだったので、回復魔法ですぐに癒えた。だが、心に受けた傷までは癒されなかった。そこで銀髪の貴公子ジールヴェルトに導かれ、彼の別荘のある湖の町で過ごすこととなる。学園では恋に翻弄されるばかりだったイェルオーネだったが、湖の町で穏やかな時を過ごし、自らの想いと向き合うことになるのだ。
目まぐるしく移り変わる、熱い恋の駆け引きを描いた、激流のような第一部。
穏やかにしっとりと、キャラの内面を深く鋭く描いた、静かな湖を思わせる第二部。
この性質の違う二部構成がファンを魅了してやまない。恋する乙女の教科書とでも呼ぶべき永遠の名作なのである。
わたしも大ファンだ。原作は何百回も読み返して、セリフは全て暗記している。公式の解説本やイメージイラスト集、舞台演劇もチェックに抜かりはない。
そしてどうやら、わたしは今、第二部の第一章、湖近くの町に向かう馬車にいるようなのだ。普通なら信じがたいことだろう。だが受け入れた。自分の中に、確かに作品の中にいるという確信があるのだ。それに目の前の美形で銀髪の青年がジールヴェルトと名乗り、そしてわたしのことをイェルオーネと読んだ。原作通りの会話もした。もはや疑う余地もなかった。
欲を言えば第一部の激しい恋の駆け引きを体感したい気持ちもあった。だが、きっと無理だろう。この穏やかな馬車の中でさえ心臓がうるさいくらいに高鳴っている。ちっとも興奮が治まらない。
もし激流の第一部に放り込まれた、きっと興奮のあまり、物語半ばで悶絶死してしまうことだろう。あの名作をそんな残念な終わりにしてしまったら、死んでも死にきれない。きっと永遠に謝り続ける幽霊になってしまうに違いない。
そんなことを考えていると、ジールヴェルトがこちらをじっと見ていた。
「さきほどからそわそわしているようだけど、大丈夫かい?」
そんな、原作にないセリフをかけてきた。
馬車のシーンは先ほどのセリフで終わりだった。つまり今は、原作に描かれていない時間。つまり『行間』! わたしは今、大好きな恋愛小説の『行間』にいる!
またしても興奮してしまいそうになるが、どうにか気持ちを抑える。ここは自分の原作への理解度が問われる場面だ。
たとえ原作になかろうと、今のわたしは「水面にたゆたう乙女の想い」のヒロイン、イェルオーネなのだ。ふさわしいセリフを言わなければならない。
「……ええ、大丈夫です、ジールヴェルト様……いえ、ジールヴェルト! こんなに長く馬車に乗るのは初めてで、少し気分が昂ってしまったようです」
「そうか。でも、あんなことがあったんだ。身体は大事にしないといけない。何か異常を感じたら、すぐに言うんだ。いいね、イェルオーネ?」
「はい、ジールヴェルト」
微笑みを向けて答えると、ジールヴェルトおだやかに微笑んだ。そして窓の外に目を向けた。難しい顔で、なにか考え事を始めたようだった。
そう、これだ。ジールヴェルトは一見冷たそうに見えるけれど、こんな風にきちんと気を配ることができて、それでいて距離感を保ってくれるのだ。そんなジールヴェルトがどれかけ多くの読者を魅了してきたことだろうか。
一方のわたしはと言うと、今のやりとりはまずますと言ったところだ。一度間違えて「様づけ」をして言いなおしたところがポイントだ。ちょっと抜けてるところがイェルオーネの魅力のひとつなのである。三人の素敵な男性を相手にしながら、ヒロインに反感を持つ読者は少なかったりする。
ジールヴェルトが外を見ている隙をついて、自分に精神安定の魔法をかけた。ようやく精神が落ち着いた。
「水面にたゆたう乙女の想い」について語る時、熱くなりがちなわたしにとって、精神安定の魔法は欠かせない。使い慣れた魔法なのである。
そして、馬車はジールヴェルトの別荘に着いた。歴史を感じさせるしっかりした造りの立派な建物だった。
それからが大変だった。小説で読んだことしかない、あれこれ想像していた建物が目の前に在るのである。もう中を歩き回ってありとあらゆるものをスケッチしたい衝動に駆られる。
しかしダメだ。イェルオーネはそんなことをしない。
原作小説ではこの時、イェルオーネはふさぎ込んでいるのだ。馬車の中で少しは気分も上向いたけれど、彼女は落ち込んでいるのだ。自分を愛する二人の男性が決闘して、それに割って入って怪我をした。
怪我をしたことそのものの恐怖もある。だがなにより彼女の心を占めるのは後悔だ。自分の迷いが二人の男性を決闘に駆り立てた。それを止めようとして割って入り、かえって心配をさせることになった。その後悔が、彼女の心を苛んでいるのだ。
だからイェルオーネとして作品の世界に入ったわたしは、案内された客室で引きこもることしかできなかった。
世の中には「自分だったらこうする」「原作とは別な展開を見たい」と言った考えを持つ読者もいる。
だがわたしは違う。「水面にたゆたう乙女の想い」という作品は、わたしにとって完璧な作品なのだ。原作を追体験したい欲求は極めて強い。だからこそ、原作から外れた展開を凄く恐れている。
自分の安易な好奇心で、あの名作の完成度を貶めることになったとしたら……悔やんでも悔やみきれない。わたし一人の命ではあがなえない大罪だ。
作品がヒロインの死に至るバッドエンドならちょっとは迷うかもしれない。でも「水面にたゆたう乙女の想い」はハッピーエンドの恋愛小説だ。正規のルートを外れる理由もないのだ。
別荘の中を見て回りたい。でも原作から外れてしまうからできない。これでは生殺しだ。苦しみにどんどん気分が下向きになっていく。イェルオーネもこんな風に、落ち込む気持ちを抱えながらこの部屋にいたのだろうか。これも原作の追体験だろうか。いや、落ち込む理由があまりにも違いすぎる。
夕食も原作通り断った。原作のイェルオーネ同様、今の私は何も喉を通りそうになかった。
悶々とした気持ちを抱えながら、それでも早めにベッドに入り、睡眠の魔法を自分にかけて強引に眠った。明日の早朝は重大イベントがあるのである。まさか寝坊するわけにはいかなかったのだ。
翌朝。別荘からしばらく歩いた湖のほとりにわたしは立っていた。
夜明けのすこし前。山の間から昇り始めた日の光が見えてくるころ。時間はばっちり。位置も大丈夫なはず。
あとはジールヴェルトが来るのを待つだけだ。
ただ湖面をじっと見つめて、待つ。
「イェルオーネ! こんなところにいたのか。メイドから部屋にいないと聞いて、心配したんだぞ」
背後からジールヴェルトの声がする。昨日、別荘に入ってからは会えなかった銀髪の貴公子。
今すぐその姿を見たい。反射的に身体が振り向きそうになるが、意思の力で抑え込む。
背を向けていなくてはならない。原作ではそうなっているのだ。精神安定の魔法をかけて心を落ち着かせ、わたしは原作通りのセリフを口に出した。
「日の差さない静かな湖をみていると、落ち着いて考えられるような気がしたのです」
「イェルオーネ……」
「わたしは、もっとちゃんと考えなければいけなかったんです。レッディードには、わたしの思っていることをもっときちんと伝えるべきでした。ブルーティアスとは、拒まれてももっと近くにいるべきでした。そうしたら、あんな決闘なんて、きっと起きなかったんです」
「……あまり自分を責めるんじゃない」
「いいえ、足りないんです。全然、足りてないんです。もっともっと真剣に考えなければいけないことなんです!」
「イェルオーネ!」
ジルヴェルトの叫びに、ようやく振り向く。その動きに涙が飛び散る。
原作のイェルオーネの涙は後悔によるものだったが、わたしの涙は原作の名シーンを再現している喜びによるものだったりする。
原作の追体験を至上としているけれど、わたしは読者であって役者ではない。登場人物と同じ涙を流す必要はない。涙さえ出てればいいのだ。
振り返ると同時に、山間から顔を出した太陽が一面を照らし出す。すごい。原作通りのタイミングだ。さすが恋愛小説の世界だ。
ジルヴェルとはわたしの手を引き、腰に手をやりぐっと引き寄せる。彼の美しい顔がぐっと近づく。
銀の髪が日の光を跳ね、瞳を輝かせる。
幻想的なまでに美しい。まさに銀髪の貴公子の名にふさわしい、絢爛たる美丈夫の姿が、あまりにも至近距離にあった。
「僕と一緒の時に、他の男のことを考えないでくれ」
彼の顔には、男の独占欲はかけらもない。原作を読み込んでいるわたしにはわかっている。彼はただ、自分を責めるイェルオーネを止めたいと思い、こんな言葉を選ぶしかなかったのだ。
だってその瞳からは、いたわりの気持ちしか感じられないのだ。これこそ真のイケメン。この眼差しが、どれだけの女性読者の心を虜にしてきたことか。
叫びだしくなった。とにかくなんでもいいから声を張り上げて外にこの気持ちを出してしまいたくなった。
だが、できない。イェルオーネはこんなところで叫ばない。
叫ぶのを強引に抑え込むと、胸からこみあげるものがあった。なんか、吐きそう。感動しすぎて吐きそう。
だが、できない。イェルオーネはこんなところで吐かない。
外に出したい想いも、ずっと見つめていたいという衝動も抑え込み、原作通りに恥ずかし気に顔をそむける。
「もう、ジールヴェルトったら、そんなことを言うなんて! 辺りの花々も、恥ずかしがってしまっていますよっ!」
辺りに咲き乱れるピンクの花を見て、イェルオーネはそんなことを言うのだ。
そしてジールヴェルトは「そうだね、君のかわいらしい頬と、同じ色になっているね」と冗談を言って、イェルオーネは更に恥ずかしくなってしまうのだ。
もう読んでいるだけで角砂糖をほおばったみたいな、甘い気持ちになる最高のシーンなのだ。
だが、おかしい。
視界に入るのは白い花ばかりだ。ピンクの花なんて一輪もない。
思わずきょろきょろとあたりを見回してしまう。本当にない。なんでないんだろう。
「君のかわいらしさに、花たちも嫉妬のあまり、顔色を無くして白くなってしまったようだね」
「もう、バカ……!」
ジールヴェルトがフォローしてくれたので、とりあえずそれに合わせて原作のセリフを言って、彼の胸に飛び込んだ。
イェルオーネはこのことをきっかけに、後悔ばかりすることをやめ、少しだけ前向きに考えられるようになる。ストーリー上、重要なシーンなのだ。
だがわたしには新たな後悔ができてしまった。失敗した。原作通りの場面を選んだつもりだった。太陽がうまい具合に見える位置を選んだ。上ばかり見ていて、足元に目が及ばなかった。そもそも夜明け前で薄暗かったから、花の色がよくわからなかったのだ。
せっかくの原作の名シーンを再現しきれなかった。こんなことでは原作ファン失格だ。
湖でのイベントのあとは、一緒に朝食をいただいた。正直、気分が重くて食べる気にはなれなかった。だがこのあとも重要イベントがある。昨晩から何も口にしていなくては、さすがに身体がもたない。
原作でも気分を持ち直したイェルオーネが朝食を摂る描写がある。それを無視するなどできるはずがなかった。とにかく口の中に詰め込んだ。
でも我ながら現金なもので、お腹がいっぱいになったら気持ちも上向きになった。先ほどのミスは痛いものがあった。でもジールヴェルトがうまくフォローしてくれたので、原作の流れは崩していない。
考え方を変えるべきだ。
確かにここは小説の世界だ。本来なら、決められたとおりに各イベントが展開するのだろう。だが今は、わたしという異物が存在する。完全に原作通りとは言えない。
原作再現にはこだわりたいところだが、わずかな違いを気にしすぎるのはよくない。多少の違いには目をつぶり、小説の世界を楽しむことこそが大事だ。本は物語を楽しむのに読むためのものだ。まずそれを第一に考えよう。
そんな風に考えなおしたのは、次に行く場所のせいだった。
ジールヴェルトの別荘とは、湖面を挟んで反対側にある町。湖の町「ラーケルト」を散策するのである。その過程でイェルオーネはこれからのことを考えるきっかけとなるイベントを経験するのだ。
「水面にたゆたう乙女の想い」は、その場の情景がイメージできる素晴らしい美文で書かれている。だからと言って、細かな道順までわかるわけではない。初めて行く町を、小説の描写だけで正確に同じ道順をたどれるとは限らない。原作にないちょっとしたアクシデントに出遭うこともあるだろう。多少のイレギュラーを前提としなければ、とてもやっていけない。
「部屋でふさぎ込んでいるばかりなのもよくない。近くの町に行かないか? 外を歩けば、きっといい考えも浮かぶさ」
「……そうですね。あなたがいつも話してくださる湖の町、一度歩いてみたいと思っていました。ぜひ、ご一緒させてください」
原作通りのやりとりをして、馬車に乗って湖の町へと向かった。
湖の町「ラーケルト」は、古い建物が多く、その中に新しめの建物が混在する、情緒あふれる町並みだった。初めてなのに、妙に懐かしくて思えて、なんだか気持ちが落ち着く。
懐かしく感じるのは、きっと原作で描写された雰囲気通りだからに違いない。どこもかしこも素晴らしい。目に焼き付けようと、歩きながら辺りを見回した。記憶力には自信がある。脳内には歩いたルートの詳細な地図が出来上がりつつあった。
「ずいぶんと熱心に辺りを見ているね。そんなに珍しいかい?」
ジールヴェルトが早速、原作にない語りかけをしてきた。
「はい! 初めて来た町なのにどこか懐かしく思えて……とっても楽しいです!」
「初めてなのに懐かしい、か。そういう風に感じるんだな……」
「どうしたんですか、ジールヴェルト?」
「いや、僕にとっては慣れ親しんだ町だからね。君に懐かしいと言ってもらえて、なんだか嬉しいんだ」
「ふふっ、やはり町に出てきてよかったです、ジールヴェルト!」
「喜んでもらえてうれしいよ、イェルオーネ」
そんなことを言って、二人して笑いあった。
よし、今のは原作っぽい会話だったような気がする。
ああ、楽しい。わたしは今、原作の世界観を存分に味わっているのだ!
原作にない要素もとりまぜて、自分なりの原作追体験をする。やはりこの方針でいこう。
ちょっとした雑談を挟みながら歩いていくと、教会が見えた。
来た。重要イベントの発生場所だ。無事たどり着くことができた。
この教会でイェルオーネは懺悔をするのである。懺悔室で、これまで学園で自分のしてきたことは間違っていたのではないかと吐露するのである。
そして彼女は、神の赦しを得る。そのことをきっかけに、イェルオーネは自分の過ちを否定するのではなく、受け入れられるようになるのだ。後の展開にも関わる重要イベントである。
原作通り、教会の前で立ち止まる。そして思いつめた顔で、じっと教会を見つめる。
すると教会から神父様が出てきて声をかけてくるのである。そこでイェルオーネは懺悔することにするのである。
懺悔のセリフはばっちり覚えている。実際に教会で、原作のセリフ通りに懺悔したこともある。その時は「小説の内容を読み上げたあなたの罪を赦します」とたしなめられてしまった。残念な結果だったけど、教会関係者にも「水面にたゆたう乙女の想い」を読む人がいて、あらためてその名作っぷりに感心したものである。
しばらく待つと、教会の神父が現れた。年老いた穏やかな顔をした白髭の老人だ。うん、原作のイメージ通りだ。
「おや、お嬢さん。ずいぶんと思いつめた顔をされていますが、何かあったのですか?」
「ええ。少し思い悩んでいることがあるのです……」
よし、あとは懺悔室に招かれるだけだ。重要イベントを前に、緊張に震えた。
「ちょうど近所の子供たちにクッキーをふるまおうとおもっていたところです。よければご一緒されませんか? 子供たちと触れ合えば、気持ちも楽になるものですよ」
「えっ」
なにやら神父様はよくわからないことを言い出した。
ここは神父様が懺悔を受けることを提案し、イェルオーネが受ける場面なのだ。自分から言い出すのもおかしい。そもそもこれから子供にクッキーをふるまうというのなら、懺悔を聞いてくれる人がいないかもしれない。
あれこれ迷ううちに、神父様の熱烈なおすすめによって、子供たちとクッキーを食べることになってしまった。
結論から言えば、子供たちとクッキーを食べる時間はすごく癒された。
近所の子供たちは急にやってきた貴族令嬢と貴族子息に物怖じすることなく、日々の出来事や今日の遊びのことなどを笑顔で面白おかしく話していた。その流れに自然につられて、気づけばこちらも笑顔になっていた。昨日から気を張っていたこともあり、久しぶりに肩の力が抜けた思いだった。
そして笑顔で教会を発ったところで、気づいた。
これはおかしい。
この教会で赦しを得ることが、後の展開に重要な影響を及ぼすのだ。
確かに子供たちとの時間はいいものだった。でもこれでは後の展開につながらない。この町に来てからの行動はおかしくなかったはずだ。それなのに、ここまで展開がずれるなんて、あり得るのだろうか。
思わず空を振り仰いだ。
強烈な違和感があった。その元をたどろうと、視線を下げたところで気づいた。ありえないものが見えた。
「イェルオーネ!?」
ジールヴェルトの引き留める声も無視して、全力で走った。走らずにはいられなかった。見間違いかもしれない。でも、なんとしても近くで確かめなくてはならなかった。
そうしてたどり着いたのは、街の中心部にある時計塔だった。
「ハァハァ……やっぱり……見間違いではありませんでした……!」
赤いレンガの時計塔は、「水面にたゆたう乙女の想い」の作中で繰り返し描写される印象的な建物だった。
だが、この時計塔は石造りだ。赤ではなく灰色なのだ。小説の描写からイメージするものは人によって微妙に異なる。だが、赤と明記されたものが、実際には灰色だったなんて、まずありえないことだろう。
おかしい。
ここは小説の中の世界のはずだ。わたしの中には未だその確信がある。それなのに、原作通りの展開にならない。原作と描写の異なるものが存在する。いったいこれは、どういうことなのだろうか。
どこをどうさまよったのか。気づけば町の書店にたどり着いていた。日頃の習慣で、本を探した。世界で一番愛している名作。ここにはあるはずのない本を、無意識に探して視線を彷徨わせた。
そして、見つけてしまった。
本の題名は、何度読み返しても変わらない。「水面にたゆたう乙女の想い」。そもそも、このわたしが見間違えることはない。装丁もよく見知った新しいものだ。旧版は今やオークションで高値でなければ入手できない。
震える手で本を手に取り、中を確かめてみる。慣れ親しんだ美文が綴られていた。間違いない。これは「水面にたゆたう乙女の想い」だ。
開いたページでは、ジールヴェルトがイェルオーネの美しい金色の髪を褒めるシーンが描かれていた。
そのとき、ふと、気づいてしまった。
本屋の隅には鏡があった。本屋は本をたくさんあるように見せるためや、あるいは万引きを防止するために、そうした鏡を設置しているのは知っていた。そこに映った自分の姿を見た。
鏡に映る少女の髪は、赤だった。金髪ではなかった。
「わたしは、イェルオーネじゃ、ない」
そうつぶやいた瞬間、意識が遠のいた。
目が覚めると、別荘の客室のベッドにいた。
心配そうにこちらを見る銀髪の青年がいた。
「イェルオーネ! ようやく目を覚ましたんだね!」
ほっとしたように顔を緩ませ、銀髪の青年はわたしの目覚めを喜んだ。
だがその言葉に、わたしは眉をしかめてしまった。
「すみません、もういいんです」
「イェルオーネ?」
「だから、もういいんです。ようやくわかりました。わたしは恋愛小説のヒロイン・イェルオーネじゃなくて、ただの子爵令嬢エルヴィラシア。あなたは、その後輩にして研究の助手。男爵令息リギュレートです」
その言葉に、銀髪の青年は目をぱちくりされた。
「ああ、よかった。戻ってきてくれたんですね、先輩!」
そう言って、銀髪の青年……リギュレートは泣き笑いの表情を浮かべた。それは人懐っこくて暖かで、銀髪の貴公子ジールヴェルトのするような顔ではなかった。
わたし、子爵令嬢エルヴィラシアは、魔法学校でひとつの研究に心血を注いでいた。
その研究とは「記憶領域への書物情報の転写」。
わかりやすく言い換えると、「一発で本の中身を完全理解できる魔法」の研究である。
この魔法の有用性は高い。たとえば百科事典を魔法で覚えれば、だれでもすぐに物知り博士だ。論文を書くために何冊も本を読む必要は無くなる。研究の効率は大幅に向上することだろう。教育においても極めて効果的だ。この技術が完成すれば、人類の進歩に大きく貢献することだろう。
そんなお題目で魔法学校から研究資金を得ているが、真の目的は違う。
この研究の目的は「『本って字ばっかりで、なんか読むの面倒臭いよね』とか言っている不埒な輩の頭の中に、魔法一発で名作小説を叩き込む」ことである。
わたしは恋愛小説「水面にたゆたう乙女の想い」が大好きだ。愛している。その名作を拡げる手段を、少しでも増やしたかったのである。
そんな研究を一人だけで続けるのに、少々限界を感じていたころ。有望な新入生が入ってきた。
男爵子息リギュレート。彼は魔法学において優秀な成績で入学してきた。だが、彼に注目していたのは学力だけではない。彼の家の所有する領地だ。
「水面にたゆたう乙女の想い」の舞台、湖の町「ラーケルト」。男爵領内には、そのモデルとなった町「ミウズコ」があるのだ。
そういうわけでリギュレートを研究室に招待した。「記憶領域への書物情報の転写」の意義と有用性、そしてその時点での研究成果を誠心誠意語りかけた。彼は自分の意思で研究室に入ってきてくれたのである。
そして研究にどっぷりはまった段階で、「水面にたゆたう乙女の想い」の大ファンであることを明かした。リギュレートは凄く嫌そうな顔をした。事前のわかっていたことだが、彼はその所有する領地ゆえに、「水面にたゆたう乙女の想い」ファンにいろいろちょっかいをかけられることが多かったようだった。
とにかく、有能な助手を得て、研究はさらなる進歩を遂げた。それまでも数枚程度の紙に書かれた内容を記憶に転写することには成功していた。彼が参加して研究は更に進み、10ページ程度の冊子なら記憶へ転写できるようになっていた。
そしていよいよ、分厚い本を転写可能か実験することになったのである。
「それで、本の記憶への転写には失敗したんですね……」
「ええ。そうなんですよ。先輩もご存じの通り、記憶転写の魔法は、元となる本の情報量によって術式が複雑になります。どこかに誤りがあったらしく、魔法は暴走しました」
「本来の実験対象は読んだことのない魔法学の本でしたね。暴走した魔法はそれではなく、わたしが肌身離さず持っていた『水面にたゆたう乙女の想い』に作用し、わたしの記憶に転写されたわけですか……」
目覚める前からおおよその見当はついていたが、リギュレートの言葉で確信が得られた。
スッキリした気分でいると、リギュレートは「ちょっと待ってください」と疑問の声をさしはさんできた。
「魔法が暴走したとはいっても、基本的にはただ本の内容が記憶に転写されただけでしょう? 先輩はなんだって、自分がそのヒロインになっただなんて思い込んだんですか?」
「ああ、そんなことですか」
やれやれ、共に研究を進めてそんな簡単な理由に思い至らないとは嘆かわしい。
ここは先輩としてきちんと説明してあげるべきだろう。
「『水面にたゆたう乙女の想い』はわたしの人生を変えた一冊です。何百回となく読み返したこの名作は、言わばわたしの人生の一部!
それが記憶転写の魔法なんて言う特殊な方法で記憶に書きこまれたのなら、それが本物の人生だと誤認識しても、まったくもって不思議ではありません」
「えっ」
「わたしとしては、本の世界に入り込んでしまったという認識でした。転生物の小説みたいな感じですね」
「えぇ……」
わたしのゆるぎなき答えに、リギュレートはなんだかうんざりしたような顔になった。まったく、先輩に教えを仰いでいながら、この後輩は無礼極まりない。
だが、わたしが小説の世界に入ったと思い込んでしまった理由に関しての疑問は無くなった。そうなると、気になる事がある。
「そう言えば、なんでわたしは馬車の中で目覚めたのでしょう?」
本の世界に入ってしまったと思い込むことになった原因は分かった。
だが、実験が行われたのは学園の実験室だ。その場でなくても、学校の保健室とかで目覚めることになるのではないだろうか。
それがリギュレートの男爵領に向かう馬車の中というのは変だった。
そもそもどうしてリギュレートは男爵領に連れて行ってくれたのだろうか。
小説のモデルとなったミウズコの町には、何度も足を運んだことはある。道理で小説の世界に入り込んだと思い込んでいた時、「どこか懐かしい」と感じたわけである。
だが、リギュレートに連れて行かれるのはおかしい。彼が研究室に入って、「水面にたゆたう乙女の想い」のファンだと明かした後。休みのたびに彼の領地に訪れた。楽しい時間だったが、彼はなぜか「いいかげんにしてください! 限度を考えてください!」とガチ切れして、連れて行ってくれなくなってしまったのだ。
「……先輩、けっこう大変な状況だったんですよ」
実験が失敗した後。わたしはまともな受け答えができない状態だったらしい。促されれば食事は摂れるしメイドに介助してもらえば着替えもできる。
だが、会話はほとんど無理だったらしい。
話しかけても「あー」とか「うー」とか、意味をなさない言葉を返すばかりだったそうだ。
学校の魔法医に診てもらっても、回復はおろか原因すらよくわからないようだった。
ただ、「水面にたゆたう乙女の想い」の話を振られると、それなりに言葉を返したらしい。
そこでリギュレートは、「水面にたゆたう乙女の想い」のモデルとなったミウズコの町にわたしを連れていくいことを思いついた。あの町に連れていけば、何か回復の糸口がつかめると思ったのだった。
「なるほど……おそらくわたしの頭は、『水面にたゆたう乙女の想い』の情報を処理しきれなくなっていたのです。何しろ人生二つ分の記憶が、どちらも本物として頭の中にあるようなものですからね。その処理に手いっぱいだったのでしょう。
それが、ミウズコの町に馬車で向かうという、原作小説の第二部冒頭と同じ状況になりました。そこで『本の世界に入り込んだ』と思い込むことで、頭の中の整理がついた、という感じだったのだと思います」
「急に『ジールヴェルト様』なんて話しかけてくるからビックリしましたよ……」
あの時は原作にないセリフを言ったから驚かれたのだと思った。実際は、まともにしゃべれない状態の病人が、急に小説のヒロインになりきって話しかけてきたから驚いていたのだ。それはまあ、ビックリすることだろう。
「それにしても、あなたもずいぶんと上手く『ジールヴェルト』を演じてくれていましたね。大したものです」
リギュレートには普段からことあるごとに「水面にたゆたう乙女の想い」の魅力について語っているし、実験のちょっとした空き時間には名シーンをピックアップして読み聞かせたりするし、週に3回程度は名シーンの読み合わせに付き合わせたりしている。だから原作の重要シーンのセリフを憶えているのは不思議ではない。
それでも、今回の彼の行動には驚かされるものがあった。湖の早朝のイベントでは、ピンクの花が無かったのに的確なフォローをしてくれた。その他の日常会話にしても、申し分ないクオリティの受け答えだった。我が後輩ながら、実に大したものだと思う。
「こっちは必死だったんですよ。今の状況が崩れたら、また先輩が『あー』とか『うー』とかしか言わなくなるんじゃないかと思うと、気が気じゃなくて……」
「ああ……それは何て言うか、申し訳ないです……」
リギュレートは今にも泣きだしそうな顔になった。
わたしはバツが悪くなって顔をそむけてしまった。
こういう空気は苦手だ。明るい話題に切り替えよう。
「ええと……でも、あれです! トラブルはありましたが、研究としては大きな成果です! 本の内容を記憶に転写することには成功しました! 今回は魔法が暴走して、転写先の領域が良くなかったんですよ。でもこの結果をもとに改良すれば成功の日も近づくことでしょう! だから……」
「……先輩!」
「は、はい!」
リギュレートが急に大声を出すものだから、驚いて返事してしまった。
彼はなにやらわたしのことをじっと見ている。なんだろう。こんな真剣な目のリギュレートは初めて見るかもしれない。
かと思うと、その視界は塞がれてしまった。今は彼の胸元しか見えない。
リギュレートに、ぎゅっと抱きしめられてしまったのだ。
「な、なんですかリギュレート? ははーん、第一部第20章の、保健室のシーンの再現ですね。いいですよ、付き合ってあげま……」
「先輩、ちょっと黙っててください」
「…………」
なんなんだろう、一体。
リギュレートとは原作シーンの再現ごっこはちょくよくやっている。キスのまねごとをしてみたり、軽いハグをすることも珍しいことではない。
でも、こんなに強く抱きしめられるのは初めてだ。どちらかと言えば線の細いイメージのある彼だったが、こうして抱きしめられると思ったよりがっしりしている。力も強い。やっぱり男の子なのだ。
そう考えると、なんかちょっぴり怖くなってきた。
婚約もしていない年頃の男女が、ベッドの上で抱き合うなんて、恋愛小説でしか許されないことなのではないのだろうか。
「先輩……今回のことは本当に怖かったんです。先輩が二度と戻らないんじゃないかって……心配で心配でたまらなかったんです……」
リギュレートの身体は震えていた。
鼻をすする音が聞こえた。彼は、泣いているのかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。
「先輩の研究は立派です。意義のあるものです。だから、研究を続けるのはいいんです。僕も協力します。でも、そんなに焦らないでください。もっと自分を、大切にしてください」
リギュレートは更に強く、わたしのことを抱きしめた。
少し痛い。息がうまくできない。顔が火照る。心臓が高鳴って仕方ない。
苦しい。それなのになにか嬉しい気持ちもある。なんだこれ。よくわからない。頭が上手く働かない。
「……ごめんなさい……」
わたしはそうささやき返すのが精いっぱいだった。
あの後。わたしは別荘の客室のベッドの中でぼうっとしていた。
リギュレートはわたしの謝罪の言葉を聞くと、「じゃあ先輩はゆっくり休んでください」と行って、そそくさと立ち去ってしまった。後ろ姿に見えた、真っ赤になった耳がなんだか印象に残った。
まだ心臓は高鳴っている。顔が火照って仕方ない。
頭の中ではいろんな感情が乱れて、考えがちっともまとまらない。それがなんとも落ち着かなくて、とにかく思ったことを口に出した。
「くやしーっ! このわたしが! 『水面にたゆたう乙女の想い』の大ファンであるこのわたしが! たかが後輩に、恋愛小説を読んだときと同じくらいドキドキさせられるなんて、屈辱です! くやしーっ! くやしーっ! くやしいいいいいいいいいっ!」
口に出したらちょっとだけ落ち着いた。そうだ。わたしは悔しくてしかたないのだ。顔が火照るのも、心臓がドキドキしっぱなしなのも、きっとそのせいなのだ。
精神安定の魔法をかけると、布団をひっかぶって、とにかくこの恥ずかしさを寝て忘れてしまうことにした。
当時のわたしは気づかなかった。この件では、見逃してはならない疑問点があったのだ。
それは、リギュレートのことを、「水面にたゆたう乙女の想い」の重要キャラの一人、「ジールヴェルト」と認識してしまったことだ。
魔法による本の転写で、「水面にたゆたう乙女の想い」を自分の人生と認識して、本の世界に入り込んだと思い込んだ。自分をヒロインの「イェルオーネ」と思い込むところまでは、仕方ない。あの名作にそんな大それた思い込みをするのも恐れ多いことではあるが、そういう特殊な状況だったのだ。
だが、リギュレートのことを「ジールヴェルト」と認識してしまったのは別だ。彼は銀髪で顔もそれなりにいい。でも共通点はそれくらいで、内面は全く異なる。顔の良さも、さすがにあの名作のキャラには及ばない。普通なら、誤認識なんてありえない。
最も好きな恋愛小説の、最重要キャラの一人。リギュレートにその役を任せてもいい……そう思ってしまうくらい、わたしは彼に心を許していた。大事な人だと思っていた。
その想いに気づくのはこの件からずっと先のことになるのだが、それはまた別の物語である。
終わり
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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