1、城宮那津[前半]
初書きなのでやさしい目で見てやってください…(作者より)
放課後の教室に充満する空気に僕はもの寂しさなど感じたことがない。
何よりもこの放課後の教室という空間が僕は好きだ。
コンクリート製の白い壁。チョークの粉が薄っすらと残る黒板。
床に多少の消しゴムのカスが落ちていったて良いし、誰かが暇つぶしにした机の落書きだって消されないままの方がいい。
そんな放課後の教室には生徒たちが普段、授業を受けている日中とはまた違った趣が感じられるから。
僕が今座っている木製の椅子だって少しくらいののガタつきがあっても、それはそれで教室という空間の一部分により相応しいものになると僕は思う。
そんな考え事から覚めると、教室の中央辺りに位置する僕の席まで窓から差す光が届いていた事に気が付いた。太陽の高さが徐々に低くなるのは陽が沈むという合図だ。
暖かい光に包まれた身体に脳から「立て!」と指示を出す。まだここに居たいという気持ちともう行かなければという気持ちが交差する。結果として椅子から立ち上がった僕は教室の壁に掛かった時計を横目にドアに向かって歩き出した。
時計の針は四時二十分を指していた。
午前七時。退屈な月曜日がまた始まった。そう感じるのも今日で最後がいいなと思いながらクラクラする頭を起こした。洗面所に行き、歯を磨く。そのまま冷たい水を頭からかぶる。
毎日行うこの習慣が僕に日常を感じさせてくれる気がする。
日常というのは習慣の積み重ねで出来ていて一つでも欠けると何か違和感を感じてしまう。そういうものだ。
ようやく目覚めてすっきりした頭と心の中のモヤモヤが少しむず痒い。
けれど濡れた顔に触れるタオルの肌触りはいつでも気持ちがいいと感じられた。
朝食は食べずに制服を着てマフラーを巻き、家の戸締りをしてアパートの階段を駆け足気味に降りる。
肌寒い季節なのでこうして少しは体温を上げておく。
「三条くん、おはよう」
と後ろから声を掛けられた。
「おはようございます。秋さん」
人柄の良さが滲み出る様な彼の表情は年相応のものだろうか。それにしては若い印象を受けるこの人物は僕が住んでいるアパートの管理人だ。寝癖を少しだけ立てた大学生のようにも見えるほど若い顔立ちをしている。
秋さんの両手を塞ぐゴミ袋が視界に入った。
「ごみ捨てですか?」
「朝の散歩がてらね」
「・・・散歩ってこの距離をですか?」
アパートの敷地内に設置されたゴミ捨て場は僕の目線のすぐ先。秋さんの部屋からなら五メートルもないだろう。歩数にして七歩ほど。往復でも十四歩。
「・・・学校に遅れるよ」
「話の逸らし方下手なんですね」
この距離を軽い散歩と認識してしまう程の秋さんの引きこもり生活には改めて衝撃を受けたが、秋さんの言う通り、立ち話のしすぎで学校に遅れる可能性も捨てきれない事も確かだった。
「気をつけてね」
「ありがとうございます。秋さん」
秋さんが僕に向かって右手をひらひらと左右に振ってくれる。
軽くお辞儀をして一度止めた足を再び踏み出す。
十分程歩くと、右手側に小さな公園が見えた。
高さの違う鉄棒と二つ並んだブランコ。赤く染まり始めた木々が風に揺れている。ビルやマンションの建設による都市化が進む中で僕らはこういった公園の重要性に初めて気づかさせられたりする。
場所に悩まずボール遊びが出来た幼かった頃の自分達は幸せだったなとつくずく思う。
朝の賑わいを見せる商店街を抜けて駅のホームが見える頃、踏切の警告音が鳴り始めた。立ち止まってポケットからイヤホンを取り出し、絡まりを直す。
駅のホームに入ってきのは僕がいつも乗る電車の反対方面のものだった。
踏切のバーが上がり、また僕は歩き出す。
ICカード型の定期券を改札にかざして駅のホームに入った。しばらくの間、人の波に乗せられ自分の意志とは関係なくホームを漂う。
いつにも増して会社員や学生で込み合う駅に違和感を覚えながら電光掲示板を見上げると「人身事故の影響で、40分ほどの遅れが出ております」と表示されていた。
まだ聴けていないアルバムがあったし好都合だな。とか思いながら僕はイヤホンが伸びたスマートフォンの液晶画面を操作する。水彩画の様なタッチで描かれたアルバムのジャケット絵を見つけ、再生ボタンをタップした。
結局、一時間ほど遅刻して到着した学校の最寄り駅は落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
生徒たちの波が過ぎ、連続していた改札の電子音が静まり、駅員の人たちのささやかなコーヒーブレイクが始まりそうな予感がする改札を静かに通った。
駅を出てすぐの坂を上り、住宅街を抜けると開けた坂の頂上に出た。
校庭を囲うように建てられた高いフェンスと白い校舎。
ここが僕の通う高校だ。
校庭では一限目の体育の授業を受ける生徒たちも見えた。緑色のジャージを着た生徒たちがサッカーボールを必死に追っている。
一人の生徒が右足を大きく振りかぶって勢いよく蹴ったボールが左に鋭く曲がる。ゴールネットが大きく揺れた。
シュートを決めた生徒と同じ色のゼッケンを着た生徒たちが歓声を上げているようだったが、両耳にイヤホンをしている僕にはその声は聞こえなかった。
昇降口を通り、自分の下駄箱の前に立つ。一時間も遅刻しただけあって、周りには僕以外誰もいない。
右手で下駄箱の取っ手を掴んで引っ張った。
「ガシャ」という下駄箱の扉が開く音と共に白くて薄いものが僕の足元に落ちてきた。
少し前かがみになってそれを手に取る。
「三条くんへ」
と綺麗な字で書いてある。
それはどうやら手紙のようだった。しかも僕宛の。
誰かの悪戯かもしれないし、俗にいうラブレターというものかもしれない。
メールや電話などの通信機能が発達した現代で手紙という古典的な方法をとった手紙の送り主に心から敬意を称したいところだったが、あいにく僕は遅刻をした立場上早めに自分の教室に向かわなければならなかった。
とりあえず手紙を制服の内ポケットに押し込み、自分の教室のある階まで階段を一段ずつ飛ばすようにして急いだ。
再び手紙の存在を思い出したのは昼休みになってからだった。
制服の内側のポケットに手を入れると指先に何かが触れた。不意に取り出すと、それはまさしく僕の下駄箱に入っていたあの手紙だった。
白い花の形をしたシールを半分だけ剥がして二つ折りになった中身の紙を手に取る。
二つ折りになった紙を広げると、手紙の表側に書かれたのと同じ綺麗な字が並んでいた。
「あなたのことが好きです。今日の放課後、4時半。校舎裏で待ってます。 城宮那津」
と、そう書かれている。
文面から察するにラブレターで間違いなさそうだ。
けれど、何よりも驚いたのが手紙の差出人が城宮那津という女子だった事。
僕は彼女を知っている。というより、二学年のほとんどの生徒が知っているといっても過言じゃない。
成績優秀、運動神経抜群、芸術の才能もあって絵画コンクールを総なめにしていると噂で聞いたことがある。確かに定期テストの順位表では五位以内に必ず名前が入っているのを見るし、部活動の表彰を全校生徒の前で受け取っているのも見たことがある。
それに加えて、整った顔立ちをしている彼女が学校内で有名にならない訳がない。どの学校にも一人はいる完璧超人というのが、この学校での彼女の立ち位置だ。
そんな彼女と僕の接点と言えば二年の初めごろに所属していた委員会くらいだった。一クラスにつき一人づつの委員会の集まりでは活動を行う際、隣のクラス同士でペアを組むことがある。僕の場合、その相手が城宮だった。
けれどそれだけの関係といってもいい。連絡先の交換もなければほとんどの会話も事務的なものだけで彼女が僕にこういった手紙を送る理由にはどれもならない。
やはり単なる悪戯と考えるのが一番の正解なのだろうか。
「三条。そのニヤニヤをやめろ。気持ち悪いぞ」
そう話しかけてきたのは、男の英語担当教師だった。
五時限目の英語の授業に合わせて早めに職員室を抜け出してきたようだ。
僕はなんとなく手紙を机の中に素早く隠す。
「そんなにニヤニヤしてました?」
自分の口の周りを隠すようにしながら言った。
「自覚なかったのか?手紙見ながら口角がおもいっきり上がってたぞ」
手紙を見ていたのはバレているらしい。
「ラブレターか?いいな高校生は」
皮肉の様な、若かった頃の自分を思い出すようなそんな口調で先生は僕に言った。人間は歳を重ねると勘が鋭くなるものなのだろうか。
「先生も貰ったことがあるぞ」
「この話、聞かないとだめですか?」
「よし、お前の関心意欲をEにしてやろう」
「そんな理不尽なことあります?」
完全に教師としての権力の横暴だ。逃げ道がどこにも見当たらない。
昼休みの教室で、ましては教員の二十年以上前の恋愛トークに花を咲かせられるほど僕は話を聞くのが得意じゃない。
「先生が若い頃、一通だけな」
「挑戦状とか決闘状とかそういうやつですか?」
「三条」
「はい」
「評価はEで決定だな」
「冗談ですって」
これ以上の抵抗は無意味そうだ。
それどころか自分の成績まで深刻なダメージを受けてしまう可能性だってある。
「なんで手紙だったか分かるか?三条」
「先生の時代は恋文的な風習でもあったんですか?」
「平安時代の貴族じゃないぞ」
「じゃあわかんないです」
「昔の携帯電話は通信料が高かったんだよ」
「なるほど」
とりあえず理解した振りをしておく。
「その人とはその後どうなったんですか?」
これは素直な疑問だ。少しだけ興味がある。
「キンコーンカンコーン・・・」
鐘の鳴る音は授業開始の合図だ。この絶妙なタイミングで。
「じゃあ授業を始めるぞー」
そう先生が言ったのは僕一人に対してじゃなくクラス全体に聞こえる大きな声。授業中の先生が話すあの声だ。
「全く・・・」
と思わず呟いてしまった。
自分で話を振っておいて突然話を逸らす先生の態度はどこか変だった。もしかして自分に都合の悪い話だったのだろうか。
例えば付き合ってからひどい別れ方をしたとか、そもそもそんな手紙貰っていないとか。
「三条」
「はい」
急に名前を呼ばれたので反射的に返事をしてしまった。
「教科書三十ページの英文を読んでみろ」
と先生が言った。
咄嗟に先生の方を向き反論をしようとしたが、ある一点に目がいった。
僕が見ているのは先生の左手の手のひらに抱えられるようにして持たれた赤色の教科書。ではなく薬指。
銀色の指輪。
なるほど。そういうことだったのか。
僕の視線に気づいた先生がきまり悪そうに頭を掻いた。
一日の授業が終わり、部活の活動場所に向かう生徒もいれば「また明日ねー」とクラスメイトに別れの挨拶をする生徒も見えた。
対して僕は手紙に書いてあった時間までは十分な時間があったし、特にやることもない。
時間つぶしに図書室にでも向かおうかな。と思ったその時、僕の机の上に一冊のノートが置かれた。
「これ、あんたがサボった一限目の世界史の板書」
僕の二つ後ろの席の女子。メイクもスカートも今どき風の女子生徒。爪にはピンク色のネイル。
「サボったんじゃない。電車の遅延で仕方なく、だ」
「御託はいいからお礼くらい言ったら?」
「ありがとうございます。助かりました栞様」
「下の名前で呼ぶな」
彼女の名前は五月雨栞。僕に対して上から目線なのはいつもの事だ。
「英語の田中先生と仲いいんだ?」
「全く」
「仲良さそうに話してたじゃん」
「僕は話を聞かされてただけ」
栞はどこか納得がいってなさそうだった。
「ふーん」といいながら何か浮かない顔をした栞は、ノートを放した手が手持ち無沙汰に感じたのか机の上にあった僕のシャープペンシルを方手に取り器用に回し始めた。
「何の話だったの?」
「キュンキュンするような恋バナ」
キュンキュンするかしないかは別として、嘘は言ってない。
「あーそれは大変そうね。お疲れ様」
「ほんとだよ全く」
栞なりに少しは僕の大変さを共有してくれたようだ。
もう二度と思い出したくは無い思い出だが。
「で、一人暮らしはどう?」
唐突な話題変更。さっきの話はもう飽きたのだろうか。
「どうって何が?」
「なんか悩みの一つくらいあるでしょ。同じアパートにイケメン大学生がいるとか綺麗な年上のお姉さんがいるとか」
考えてみれば、秋さんは確かにそこそこスタイルもいいしカッコいいけどアパートの管理人をやってて、年齢がそこまで若いとは考えにくい。
年上の綺麗なお姉さんは少しだけ心当たりがあるが、ここでは言わないでおくことにした。
「なんかの漫画の見過ぎだ」
「だって中学卒業と同時に『一人暮らしするから』って急に言い出して大変だったって文也のお母さんも言ってたし」
「僕にも色々と事情があるんだよ」
「幼馴染の私にも言ってくれないし」
「それは悪かったって」
栞とは実家が隣で昔から関係がある。
つまりは幼馴染。幼稚園くらいからの腐れ縁だ。
高校の入学式に大幅に遅刻してきた栞が僕を見つけるや否や、僕の胸倉をいきなり掴んでこう言った。
「あんた私を家の前に二時間も待たせといて何様のつもり!?自分一人だけ何も言わずに引っ越すなんて最低!!信じられない!!」
かと言って中学生の頃から一緒に学校に行っているわけでもなく待ち合わせをした記憶もなく、どこからともなく飛んできた理不尽極まりない栞の怒りをおもいっきり物理的なビンタでぶつけられたことは今だに僕の最大のトラウマだ。ちなみに二位は小さい頃に車に轢かれたこと。
「食事はどうしてるのよ」
「栞は僕の母親か?」
「何言ってんの」
冗談が伝わりにくいのも栞の悪いところだ。
「たまには作りに行ってあげようか?」
「何を?」
栞が何を言いたいのかもちろん僕は分かっている。けれどそんなことを気まぐれでも絶対に言わない彼女が実際に口に出すのを見てみたいとも思った。
「わかるでしょ。料理よ料理」
「遠慮しとく」
「なんで私が遠慮されないといけないのよ」
「いらない心配だって」
「心配なんかしてない。そんなこと言ってるから文也は今日みたいに遅刻するの」
栞は相当ご立腹そうだ。いつの間にか手に持っていたシャープペンシルを僕の首元に突き付けている。
「まあそう怒るなって。ノートありがと。明日必ず返すよ」
「・・・明日遅刻したら怒るから」
何か他にも言いたげではあったけれど栞はそう言い残して教室を出て行った。
僕も僕で栞に借りたノートの板書を写しながら時間までしばらく暇つぶしをすることにした。
僕がやっと椅子から立ち上がる頃、教室には僕一人だけだった。
くだらない考え事をするのを止め、手紙の内容を思い出す。
「4時半。校舎裏で待ってます」
僕は教室のドアを開けた。






