叶の可不可
冬の冷たい雨風を避けるように、それはビルの隙間に座り込んでいた。最初は、少女かと思ったが、違った。髪は若干長めだが・・・。
この話、デジャヴ・・・。
丁度去年、主が子供を拾ったシチュエーションと似ていた。
「君、大丈夫ですか?」
話しかけたが反応がない。聞こえなかったのかな。土曜の夜とはいえ、天気が崩れると、皆早足で駅の方に向かっていく。その雑踏に、かき消される。しかしながら、職業上放っておくこともできず・・・。
「いいですか?触りますよ?」
この真冬に、肌の露出したコスチューム。その二の腕、素肌に触れた。冷え切っている。体が小刻みに震えているのが見て取れる。「低体温症」の四文字が、脳裏をかすめる。このままだと、凍死しかねない。
「私のうちに来ますか?」
返答はない。でも、かすかに顔を上げ、こちらを見た。
傷ついた眼をしていた。
あの子に似ている。
見捨てられずに、着ていたコートを羽織らせる。
「君、私のうちに来ますか?」
「・・・いいの?」
震えるその声は、やはり男の声。喉仏が上下するのを確認した。けれど、少年は、短いスカート姿。いわゆる、メイド服だ。どこかの店から逃げてきたのか・・・。
「行く当てがあるなら、そこに帰しますが・・・。」
「やだ。どこにも行きたくない!」
正直、この子は未成年だと思う。保護をいい分にしたとして、下手をすれば、未成年者略取。誘拐・・・。
でも・・・。手当しないと死んでしまうかも。
同じような場面に遭遇したであろう主を思う。
あの人ならきっと助ける。
だから私も・・・?
拾って帰っても得はない。むしろ、リスクが高い。
でも・・・。
何度目かの『でも』。
「君、私と一緒に来ますか?」
「・・・。うん。でも、わたしなにもできないよ?」
「しなくていいです。」
「大人しくついてきて、手当てを受けますか?私は医者です。」
「お医者さん・・・?」
「そうです。このまま、ここに置いておいたら、夢見の悪いことになりそうです。いいですか?」
「・・・うん。」
少年は、少しためらったが頷いた。頷いたのを見て、念を押す。
「では、同意は得たということで。とりあえず、あなたおいくつです?」
「十八歳。」
「本当に?」
こく、と頷くのを待って、立たせて、コートを着せた。
カシミヤのチャコールグレーのそれは、彼にはかなり大きかった。胸元が開くので、していたマフラーも外して巻いてやる。コートのボタンを閉めると。白いソックスが目立った。
「どこかで着替えを買いたいですが、あなたを温める方が先ですね。」
通りに出て、なんとかタクシーを捕まえる。このまま歩くのは目立つし、何より寒かった。傘は一本しかない。
関東地方には大敵の、雪が降り出しそうだった。
家のあるマンションの方を告げると、タクシーは走り出す。
「どこか痛むところはありますか?」
「わからない。感覚があんまりなくて・・・。でも、あったかい・・・。」
そ、と白い指先が、マフラーに触れた。
「お名前は?」
「・・・ナナ。」
「それは、仕事上の名前ですか?」
少年は、しばらく考えていてたが、こういう格好をしているときの、と答えた。
「では、服を脱いだら本名が聞けますかね。服のサイズは,Mでいいですか?・・・男物でいいですか?」
頷くのを待って、スマホから服を何点か買った。部屋着のスウェットと、男物のシャツとセーターとデニムのズボンとパーカー、ダウンコート。明日には家に届くだろう。そういえば、大した食材もないが・・・。彼には、今日のところはおかゆでもあればいいだろう。米はあるな、と思った。自分の分は、コンビニで調達しよう。
そんなことを考えていると、やがてタクシーは家のあるマンションについた。一階にはコンビニが入っている。まずはそこで、弁当と、彼のための下着と靴下を買った。
雨がみぞれに変わり始めていた。
ナナのためにぬるめの風呂を用意し、とりあえずは自分のパジャマを脱衣所に置いた。
「さぁナナ。お風呂に入りましょうか。」
すると、ナナは過剰なほどびくりと反応した。
「あ・・・あのっ・・・わたし本当に・・・。」
「ナナ?」
怯えた様子の彼に、優しく呼びかける。
「低体温症を起こしかけています。ゆっくりお風呂で温まってきてください。」
「ぇ・・・?あの・・・。」
「何もしませんよ。」
彼が怯えているのは、おそらく、性的なサービスの強要だ。案の定、何もしないと言うと、彼は少しホッとしたような表情を見せた。
「じゃ・・・ぁ。お借りします。」
しつけのなってない子ではなさそうだ。そう思う。安心してもらうために、まず何をしたらいいか・・・。やはり、温かい食事だろうか。ナナが風呂を使っている間に、粥を炊くことにした。台所仕事は嫌いじゃない。米を研いで、水を分量どおりに入れ、土鍋に入れて、IHに乗せる。
粥が出来上がる頃、ナナは風呂から上がって、大分サイズの大きなパジャマを着て出てきた。袖や裾は、自分で折り返したのだろう。間に合わせだ。仕方ない。
「お粥,できてますよ。食べられそうですか?」
「・・・作ってくれたの?」
頷くと、嬉しそうな表情をした。
「その前に。女性の服を脱いだわけですからね。本名、教えてくれますか?
私は、叶光明都内で医者をしています。」
彼は、迷ったようだったが、お腹がキューとなると、恥ずかしそうに、目を伏せた。
「桜小路・・・七緒」
「桜小路?」
聞き覚えがあった。金持ちばかりが集まるパーティーで、昔よく来ていた高齢の男性の苗字だ。確か名前は、剛三。
「桜小路家に、養子に迎え入れられた子の一人・・・ですか?」
莫大な財産を継がせるべく、子供のできなかった夫妻が、何人もの養子をとったことは、風の噂で聞いていた。なるほどそれなら、しつけができていて当然だろう。しかし、逆に疑問もわいてしまう。
何故、あんなところで、あんな格好をして佇んでいたのか。
「桜小路家のご子息が、なぜ?」
「なぜ?そんなの・・・僕が聞きたいです。」
あ、「わたし」から「僕」に変わった。
服が変わったから?それとも、解離?
どちらにせよ、慎重に質問しないと・・・。
「記憶が飛んでいますか?」
「・・・繋がってますよ。僕はどこもおかしくない。」
「・・・そう。ですか・・・。」
まぁじゃぁ、冷めないうちに食事を、と促すと、上品な所作で、粥を食べ始めた。食事は一緒にとった方がいいだろうと思い、弁当を温める。弁当に箸をつけると、七緒は不思議そうに、それを見た。
「どうかしましたか?」
「叶・・・先生。僕のは作ったものなのに、先生はお弁当?」
「おかゆは簡単ですが、自分の分は面倒でしたので。」
変なの、と七緒は少し笑った。可愛い笑顔だった。
桜小路家の御大が、見目の良い男子ばかりを養子にしている噂は、昔聞いたことがあった。それは、いつのころだったろうか。確か、主の家の付き添いで、パーティーに出かけた時のことだったと思う。まだ学生だったか・・・。
何人養子に迎えたかなどの情報はなかったが、名前から察するに、七緒は七人目。確かもう、遺産は分けられたはず。迎えられた養子が、金に困るような事態にはならないと思うのに・・・。
騙されて、盗られでもしたのだろうか・・・。
そこがいいというので、ソファーベッドに毛布を出してやり、エアコンは少々きつめ。加湿器を動かして、ベッドに横になった。
逃げたり・・・するだろうか。
熟睡するわけにはいかないな、と思い、眠りについた。
朝、目を覚ますと、七緒がキッチンに立っていた。
「おはようございます。」
「あ。おはようございます。」
「何をなさっているんでしょう?」
「・・・先生に作らせると、またお粥になりそうなので、朝ごはんを作っていました。」
冷蔵庫に卵とベーコンがあったので。と七緒は続ける。
「料理が作れるんですか。」
「ある程度のことは、一人でできるよう育てられました。」
まぁ。あの家では、親は確実に先に死ぬでしょうけれど。
「作ってくれる方がいたでしょう?」
「お父様が亡くなったら、みんないなくなりました。」
「みんな?」
仕えていた人たちだろうか。
「お母さまは、病気で・・・お父様より先に亡くなられたので・・・。身の回りの世話は、僕たち兄弟と、何人かの使用人でしていました。食事も・・・。でも、遺産を相続した兄さまたちが、使用人に給料を払わなかったので・・・。」
あの家にはもう誰もいません、と続ける。
「家も売りに出して、兄さまたちがわけるようで・・・。僕は帰る家がないんです。」
「あなたは、遺産は?」
「兄さまたちの苛めが酷くて・・・放棄せざるを得ませんでした。」
あっ。と小さな声を上げる。
「お味噌汁、沸かしちゃいました。」
失敗、と苦笑する。その仕草は、なんだかとても儚げだった。
朝食を終えると、七緒の服が届いた。パジャマから、スウェットの上下に着替えさせる。この方が楽でいいからと。
「七緒さん、それで・・・頼れる方とかは、いらっしゃらないんですか?」
「・・・弁護士の方たがいたんですが・・・今は行方知れずで・・・。」
「そうですか。・・・その・・・女の子の格好をしていたのはどうして?」
質問攻めですね、と苦笑し、七緒は、少し迷ったようだったが、ゆっくりと答えた。
「初めてではないんです。学祭で、ノリでやってから・・・時々。女の子の格好をして街を歩いていたら、お店で働いてみないかって。寮もあるからって。・・・それで。」
でも、と続ける。
「寮の暮らしが合わなくて・・・昨日、やっと隙を見て逃げ出したんです。」
「逃げたってことは、それまでの給料は?」
「日払いでしたので、それなりに。・・・あ、洋服代、お支払いしますね。」
謙虚にそう告げる七緒は、普通の男の子というよりはだいぶ大人びていた。少なくとも、最近接した十八歳よりは。
「できない、と言ったのは、性的なサービスのことですか?」
「はい。それは、未経験なので。」
「安心しました。病気の心配をしてましたので。」
「性病、ですか?」
「エイズを含めて。」
答えると、七緒は両腕で体を抱きかかえるような仕草をした。
「恐ろしい。でも、そんなところにいたんですものね。疑われても仕方ないですよね。・・・あの・・・先生は、僕の体に興味は?」
「患者としてみていますからご心配なく。」
そう言うと、我慢していたのか、左の目じりから、ポロリと涙がこぼれた。
「・・・ありがとうございます。よかった・・・。」
聞けば、店の客はかなりえげつない要求ばかりをしてきたらしい。身を守ることに精いっぱいで、けれど要求を断ると、客からも店からも、酷い罵声を浴びせられたとのこと。
漸く安心できたと言ったところか。ほっと溜息をつくと、こちらに向き直り、深々と頭を下げた。お世話になりました。と。
「七緒さん、ここを出て行くんですか?」
「いつまでも、面倒はかけられませんから。」
「でも、行く当てもないし、どこにも行きたくないと。」
「そうですが。先生、たまたま日曜で家にいるだけでしょう?お仕事があるのに、こんな得体のしれないものが家にいたのでは気が気じゃないでしょうに。」
それはそうなのだが・・・。
どこか、避難できる場所を手配してからでないと。
こんな時、女性なら割とすぐに行政が動いてくれるものなのだが・・・。七緒は男で。しかも、こんな容姿だ。男ばかりのところに詰め込んだらどうなるか。きっと悲惨なことになる。七緒自身も、それを避けるために逃げてきたのだろうし。
ほとぼりが冷めるまで、あまり出歩かない方がいいような気がする。
となると、自分に用意できる、自由が利く避難場所は、ここしかない。
腹をくくった。
「身元もはっきりしていることですし、ここにいていいですよ。」
「・・・話を合わせているだけかも。」
「苗字が桜小路というだけで、信頼に値します。家の中のものは、ある程度好きにしてくれていいですよ。しばらくは外に出ない方がいい。外出するときは付き添いますから。」
土曜の午後と、木曜の午後と、日曜しか休みはありませんが、と続ける。
「夜は・・・何時頃に?」
「八時くらいです。七時までは患者が残っていることが多いので、それから書類の整理をして出てきます。
あなたの食事を確保しないといけませんね。」
「そう・・・ですか。では、夕食は家で?私の食事は、日中は下のコンビニで買えば済みますから。お金も、少しならありますし。」
見たところ、ほとんど手ぶらの七緒は、ナナのバッグから財布を取り出した。中性的な、ブランド物の財布だ。男女どちらが持っていてもおかしくはないだろうが。
「所持金は口座に?」
「はい。」
お父様が作っていてくれたものが、役に立っています、と苦笑した。小さいころからのお年玉なんかを入れていた口座で、兄さまたちも、こんなはした金には興味がなかったようで。
「でも、あなたにとっては大切なお金でしょう?」
「お父様が、とりわけ僕を可愛がったので、いただけたお金ですが・・・その分苛められもしましたので。」
長い前髪が、伏し目がちの目に影を落とす。
外は、十センチほどの積雪で、自分は歩けないほどでもなかったが、ナナのヒールでは到底無理だと察せられた。
「靴も用意しないといけませんね。さすがにはいてみないと買えませんから、あとで靴屋にもいきましょう。午後になれば雪も解けますよ。」
幸い今日は天気に恵まれている。積もった雪も、跡形もなく消えるに違いない。ナナの痕跡もまた。
「そうしていると、ちゃんと男の子ですね。」
「・・・でも、女装も嫌いではないんです。できればもっと、中性的な服を着たいです。」
「ナナと七緒は同一人物・・・ですか。」
こく、と七緒が頷く。
「どっちもわたしです。」
また、わたし・・・か。
人格は統合できているようだが、扱いは難しそうだと思った。
開け放たれたカーテンから、日が差して眩しかった。
「すみません。私のセンスが悪くて・・・。今度は、一緒に買い物に行きましょうか。」
提案すると、七緒は少し恥ずかしそうに笑った。
「受け入れてくれるんですね。こんなわたしのこと。」
「拾った責任を果たしませんとね。」
雪のせいで空気が澄んで、窓からは遠くまで見渡せた。
「美容室に行きませんか?」
少し印象を変えるだけでも、目くらましになるでしょうから、と続けると、七緒は嬉しそうに微笑んだ。
「いいんですか?髪の色、もう少し控えめにしたくて。エクステも取れかけてるし、整えたいなって思ってたんです。」
「お付き合いしますよ。その後、靴を買いに行きましょう。」
日曜日の予定は、家で一日論文を読んでいるはずだった。
こんなことがあっても、たまにはいいだろう。美容室の待ち時間は、時間がかかるだろうから、タブレットを持って行こう。論文はそこで読めばいい。
日曜だが、スマホで調べると、空き、のある美容室は結構あって予約を入れた。時間が合わなかったので、靴を先に見に行くことにした。冬物の、雪にも対応できる白いブーツを買ってやると、七緒は履き心地を確かめるようにトントン、と跳ねた。
「うん。いいみたいです。」
「手ごろな価格ですね。それはプレゼントしましょう。」
「えっ?いいんですか?」
頷くと、七緒は頬をバラ色に染めてほほ笑んだ。その様子がなんとも女の子を彷彿とさせる。こんなところ、婚約者に見つかったら、絶対誤解されるに違いない。
「そろそろ時間になりますから、美容室の方へ行きましょうか。」
「はい。」
ヒールは袋に入れてもらい、買ったブーツを嬉しげに履いて、美容室へ向かう。ただし、移動はタクシーだ。ナナのいた店の人間が、彼女を探しているかもしれない。鉢合わせたら面倒だ。
労働契約を、ちゃんと結んだのだろうか。こういう時、弁護士の手が借りられれば・・・。
「そうだ。家の?知り合いの弁護士がいると話していましたね。」
「はい。塩島さんという方です。今は連絡が取れなくて・・・。」
「どうして連絡が取れなくなったか、わかりますか?」
「事務所から出てしまったらしいんです。携帯の番号は分かりますが、僕からかけるのははばかられて・・・。」
「かけてみてはどうです?」
「それは・・・。」
七緒は俯いてしまった。
「名刺か何かお持ちでしたら、私がかけてみましょうか?」
「・・・塩島さんに、ご迷惑ではないでしょうか・・・。」
「あなたを雇用していたお店との交渉などをしていただきたい。あなたを自由にするため、と言えば、力を貸してくれないでしょうか。」
少し、考えさせてください、と七緒は下を向いて、何か考えているようだった。
美容室での七緒は、終始楽しそうだった。呆れるほどにずっと喋っているのだ。見ているこちらがはらはらした。
髪の長さを整え、エクステを外し、色を変えて、それだけで別人のようだった。
「今の服装に、合ってるって。」
「あぁ。でも、服も買いたいんでしたよね?」
「・・・ちょっと予算が・・・。」
美容室ってお金かかるんです、と困った顔をした。
「では、安価なショップで良ければ、私が買いましょうか。」
「いえ。そんなつもりで言ったんじゃないんです。それに・・・。」
「それに?」
「塩島さんは、男の格好のわたししか知らないので。」
「あぁ・・・。携帯に、連絡をする気になったんですか?」
「・・・はい。」
それは良かった。連絡、繋がるといいな。
正直、一人では手に負えない。
どうかその弁護士が、まともな人ならいいのだが。
七緒と、タクシーで家まで帰る。近所のケーキ屋で、イチゴのショートケーキを買ってやると、大事そうに箱を抱え、部屋へと戻った。
おやつのケーキを食べ終わり、安物のティーバッグの紅茶で唇を潤わせた七緒は、ナナのバッグからスマホを取り出した。そのケースの中に、銀行のカードと、弁護士事務所の名刺。手書きで、携帯の電話番号が記されていた。塩島真治。何度か、深呼吸しているのを、脇で見守る。
「じゃぁ・・・かけてみます。」
どうぞ、と頷いて見せると、七緒はもう一度大きく息を吸って、吐いた。震える指先でダイヤルする。すると、ほどなくして電話は繋がった。こちらから、相手の話し声は聞こえないが・・・。
「塩島さんの携帯でよろしいでしょうか。・・・今、お時間よろしいでしょうか。」
そう言って、七緒は話し始めた。
話す内容は、自分にしたのと同じ内容だった。女装をして、働くことになったが、寮が合わず飛び出してしまったこと。
お店と、書類らしきものは交わしていないということ。給料は日払いで、一か月ほどそこにいたということ。そんなところだった。まだ、お店の人間が、探しているかもしれない。連れ戻されたくはないので、助けてもらえないか、と七緒は震える声で懇願した。
ややあって、七緒は、何度か頷きながら、通話を切った。
「塩島さんと、待ち合わせをすることになりました。」
「・・・では、手を貸してもらえるんですか?」
七緒は、嬉しそうに小さく頷いた。
「僕のこと、心配して探していてくださったらしくて。ありがたい話です。これから会ってきます。」
「えっ?これから?」
頷く七緒に、しかし時計を見る。あちこち出掛けて、もう六時。日が暮れている。
「こんな暗い時間に、一人で外に出すのは危険ですね。どこで会うんです?」
「住んでいた家の近所に、喫茶店があって、そこで、と。」
「桜小路邸の?」
頷く七緒は嬉しそうだが。心配事がある。
「七緒さん、あなたお店には本名で勤めていましたか?」
「いいえ。桜井、と名乗っていました。」
「そう・・ですか。なら・・・家まではバレていないですかね。」
「多分・・・。」
店の人が、苗字から家を探り出して、待ち伏せているとも限らない。正直、家の近所で会うというのは心配だった。
「でも、塩島さんと、共通で知っている場所があまりなくて。」
「・・・念のため、私もついていきますよ。」
「本当ですか?ありがとうございます!」
七緒は深々と頭を下げた。
喫茶店には駐車場があると言うので、車を出すことにした。
愛車は黒のパジェロ。時々雪の降る所へ出かけるので、悪路に強い車に乗っている。その助手席に、七緒。桜小路家の住所をナビに入力し、車を走らせて行く。目的の喫茶店は、本当に、家の近くだった。
待ち合わせの二十分前に着き、車を降りようとした時だった。七緒が小さく、あっと声を発した。店の中から二人、ダークな色合いの服装の男が二人出てきたところだった。
「知っている顔?」
「お店の人に・・・よく似ています。」
七緒が、俯いて顔を隠す。その肩が、小さく震えている。
「・・・大丈夫。かなり外見も変わっていますし、このままやり過ごしましょう。」
「・・・はい。」
男たちは、一度店を出、桜小路邸を一瞥すると、車で去って行った。
「やっぱり、あなたが桜小路の人間だと知れているようですね・・・。」
「そんな・・・。じゃぁ、ナナの価値じゃなくて、桜小路七緒を追っていると言ことですか?」
「おそらく。身代金狙いか・・・。」
でも・・・。
「そんなの、もう払う人は誰もいません!」
叫ぶように七緒が言い、両手で顔を覆ってしまう。
そう。七緒は天涯孤独の身。異母兄弟たちが払うとは到底思えなかった。
「とりあえず、お店に入りましょうか。」
七緒は頷き、しかし恐る恐る車を降りた。
カラン、とドアベルを鳴らして中に入る。塩島は、まだ来ていないようだった。
約束の時間に、塩島と名乗る男がやってきた。七緒が、間違いないと言いうので、とりあえずは名刺の交換。これまでのいきさつを話すことにした。
「病院にお勤め・・・お医者さんですか。」
「はい。内科の医者をしています。」
「それがなぜ、七緒さんと一緒に?」
塩島は、年の頃は自分と同じくらいで、スーツの上にダウンジャケットを羽織っていた。チェック柄の、ブランドのマフラーを取ると、単刀直入に聞いてきた。
「路地でうずくまっていたところを拾ったんですよ。捨て置けば凍死していたでしょうから。」
仕方なく、と付け足したいところだが、七緒が不安そうにしているので、こらえる。
「七緒さん、お変わりないようで安心しました。」
ぴく、と七緒の肩が揺れる。ナナのことは、電話で話していた様だったが・・・。
「あの・・・僕・・・。」
「遺産相続の日から、いなくなってしまって、心配していたのです。」
「僕、遺産は放棄しましたから・・・。」
「そういうわけにはいかないのです。」
塩島が食い下がる。
「失礼ですが、塩島さんはもしや遺言状の内容をご存じなのですか?」
「はい。うちの弁護士事務所が立ち会いましたので。」
「でも確か、亡くなったのはもうずいぶん前の話では?」
塩島は、運ばれてきたコーヒーで口を湿らせると、大仰に頷いた。
「はい。でも、剛三様は、七緒さんのことを大変気にかけておりましたので、遺言で、七緒さんが十八歳になるまで、遺産の相続はしないと書いてありまして。ですから、ご兄弟との遺産分けができたのは、七緒さんの誕生日にあたる先月の話なのです。」
隣に座る七緒が小さく頷く。
「しかも、未成年の七緒さんを気遣ってか、その額が・・・。」
「やめてください!」
七緒が遮った。
「お金の話は・・・もうたくさんです。」
「七緒さん・・・。七緒さん、後見人などは?」
未成年の彼を気遣ったとなると、いてもいいような気がした。すると、塩島が、誇らしげに言った。
「私です。」
「あなたが?それなのに、一か月もの間、音信不通?」
「いろいろありまして・・・。」
なんだろう。この違和感。このまま七緒を彼に引き渡してはいけないような気がする。しかし、どうするかは、彼が決めること。
その時だった。窓が見える位置に座っていた七緒が、顔をこわばらせて俯いた。
「七緒さん。」
「あの人たち、戻ってきた・・・。」
震えるその手を、強く握りしめる。
「大丈夫。そのまま、隠れていてください。」
七緒は頷くと、顔を伏せて、じっとしていた。
「隠れているばかりでは、何も解決しませんよ。私が行ってきましょう。」
塩島が席を立つ。止める間もなかった。
外に出た塩島が、黒服の男二人相手に何か話している。
危ないのでは?
しかし、今ここを離れるわけにはいかない。
しばらくして、男二人が去ってゆき、塩島が喫茶店の中へと戻ってきた。
「話はつけてきました。」
「なんて?」
「七緒さんは、遺産を放棄していると。でも七緒さん、本当にいいんですか?四億円ですよ?」
「っ・・・。」
さすがに絶句した。十八歳の少年が、手にしていい額じゃない。それでこその後見人なのだろうが。
「・・・その四億、今はどこに?」
「私の権限で保留して、某銀行に。」
「兄弟で分けたわけではないんですね?」
追及すると、塩島は頷いた。
「七緒さん、もらっておいた方がいいんじゃないですか?」
「でも・・・。」
声を掛けると、七緒はかぶりを振った。
「額が大きすぎます。持っているだけで危険です。」
「そのための私ですし。」
「どこか、隠れ家をお持ちで?」
「そんなものは・・・いえ。ありませんが・・・。」
塩島に、あなたには荷が重い、とさりげなく言ってみる。
「私の、育ての親にあたる方が、桜小路家とも交流があったはず。一時匿ってもらえないか、掛け合ってみます。」
それまで、七緒さんは私の家でお預かりします。と塩島に言った。
「なぜ?」
「桜小路の家のある場所が、先ほどの輩に知られているところを見ると、おそらくはあなたの家も危ないでしょうから。」
何の関係もない私の家が安全ですよ、と七緒を窺った。
「それなら、ホテルでもどこでも借りて・・・。」
「塩島さん。何か用があればこちらから連絡いたしますので。
それから、その四億。くれぐれも持ち逃げなどなさらぬよう。」
「・・・引き出すには、七緒さんの生体認証が必要です。」
「それなら安心。遺言状もそこに?」
塩島は、しぶしぶといった様子で頷いた。
やはり・・・。
「では、七緒さんは、こちらでお預かりします。」
七緒も、事の次第を窺うように、横からこちらを見ていた。
「どうして、塩島さんにわたしを預けなかったんですか?」
とは、帰りのパジェロの中。七緒だ。
「・・・出会ったばかりの私を、全面的に信じろとは言いませんが・・・。塩島さんも、あなたのお金を狙っているかもしれない・・・と言ったら?」
「それで、彼が買えるなら安いものです。」
七緒が俯きがちに言った。
「・・・?・・・あなたもしかして・・・。」
「いえ。いえ、いいんです。聞かなかったことにしてください。塩島さんにそんな趣味がないのは分かっているんです。
奥さんも、お子さんもいらっしゃるし。」
妻子持ちなのか・・・。なにかお金に困っているのか?
「好き、なんですか?」
「・・・・・・はい。」
七緒は間を開け、窓の外に視線を縋らせて、しかし肯定した。
「わたしなんて、子供だし・・・男だし。相手にされません。
それこそ、お金がなければ。
だから・・・お金なんてなくなってしまえばいい。」
泣きそうに、震える声が、言葉を紡ぐ。
「女装はそのため?」
「それは・・・それも・・・そうです。」
気を引きたかった。
七緒はそう言って口をつぐんだ。
「これから、私の信用している人に、あなたのことを相談しに行きますが、いいですか?」
「・・・はい。」
七緒が了承したのを見て取って、車を路肩に停め、スマホを取り出す。相手はツーコールで出た。
「お久しぶりです。春水さん。雪也さんはお元気ですか?」
『社交辞令はいい。要件は?』
「少々困ったことになっていまして。本家の力が借りられないかと。あと、隠れ家が必要です。」
困ったこと、と口にすると、七緒がピクリと反応した。
その肩を宥めるように、ポンポンと叩く。
『わかった。とりあえず会おうか。』
春水はそう言うと、今から来られるのか?と問うてきた。
時間は夜の八時半。でも、明日の仕事を休むわけにもいかない。今から、春水の自宅のあるマンションへ向かうことにした。
「先生久しぶりです。」
玄関を開けたのは、七緒より一つ年上の雪也という少年だった。藤堂春水、自分の主のパートナーだ。まだ入籍前だったが。
春水は、自分の家が仕える藤堂家の息子で、今は会社を一つ任され、東京に住んでいる。自分のマンションとは、駅二つ分ほどの距離なのだが、何か用がなければ会う関係ではない。
去年、春水が、七緒を拾った時と似た様なシチュエーションで雪也を拾い、隠れ家の別荘で、その傷の手当てをしたことで、しばらく行動を共にした経緯があった。雪也の傷は、七緒とは比べ物にならないほどひどいものだったが。今は回復して、健康体だ。定時制の高校に通いながら、春水の手伝いをしている。
一通り話を聞き終えた春水は、仕事をしながら別荘に匿うのは現実的じゃないな、と言った。
「では、どうしましょうか・・・。」
「ここにいればいい。セキュリティーは万全だし、雪也も今は冬休みで家にいる。ここなら、お前が毎日ここに通ったとしても、不審がる人物はいない。むしろ、別荘に通う方が怪しいな。」
「どちらにせよ、ずっとどこかに隠れているわけにはいきません。」
七緒が口を開いた。
「それはそうですが・・・。今は少し休んだ方がいいです。」
「先生・・・。」
俯く七緒の肩にそっと触れる。
「先生の家は駄目なんですか?」
「駄目というわけでは・・・。」
まぁ、初対面の男の部屋に連れてこられて、ここで過ごせというのも酷な話か、とも思う。
七緒の不安は察せられた。
「大丈夫。春水さんは、優しいよ?」
雪也がそう言うが、七緒は俯いたままだ。
「本家の力を借りたいと言ったな。どうするつもりだ。」
「七緒さんが受け取るはずの四億を、扱えるようになるまで保管していただけないかと。」
「なるほど。桜小路家とは知らない仲じゃないし、頼んでみる価値はありそうだ。今日はもう遅いから、明日にでも打診してみよう。」
春水はそう言うと、お腹空いてないか?と七緒に声をかけた。
喫茶店で、紅茶を飲んだきりだ。何かお腹に入れた方がいい。
「七緒さん、食事に出ましょうか。」
今日のところは、私の家へ帰りましょう。」
そう言うと、七緒はやっと顔を上げ、小さく微笑んだ。思わず、ドキリとする。雪也も相当に可愛らしいが、見劣りどころか、その上をいくかもしれない。
「あ、では・・・今日のところはこれで。相談して、私が仕事の間は、ここで預かってもらうことにするかもしれません。」
「それがいい。朝、お前の車で送ってくるのか?」
「そうします。」
帰りがけ、春水に背中を小突かれた。
「叶。妙な気起こすなよ?あや音が泣く。」
「あなたと違って、そういう趣味はありませんよ。」
婚約者の名前を出されて、ため息をつく。
「さ、七緒さん行きましょうか。」
頷く七緒を連れて、まずは食事のできるところを考えなければならなかった。
行きつけのすし屋で食事を済ませ、帰宅する。とりあえず、と風呂の支度をし、七緒に入るように勧めた。
「あの・・・。」
「なんでしょう?」
「・・・僕、今自由になるお金があまりなくて・・・。お礼を、体で払ったらだめですか?」
「お礼?」
「泊めてもらったり、食事代とか・・。」
「体で払うように、強要されるのが嫌で、逃げ出してきたんでしょう?」
七緒は頷いたが、小さな声で先生なら、と言った。
「あいにく私にそういう趣味はありませんし、春には結婚する約束をした人がいるんです。ですから、お気持ちだけ。
拾ったのは私ですから、責任は取りますよ。」
「でも・・・。」
「塩島さんに裏切られて、自棄になっていますか?」
ぴく、と七緒の肩が揺れる。
「そういうことでしたら、なおさらお断りです。」
「先生・・・。」
「初めてなんでしょう?本当に好きな人ができた時のために、とっておいた方がいい。」
七緒は、俯くと、床にぽたりと雫が落ちた。
「ごめんなさい・・・。」
震える声で、七緒が何に対してか謝る。
「さぁ。お風呂に入って、温まったら寝ましょう。」
頷くと、七緒はバスルームの方に消えていった。
雫をティッシュで拭きとって、何もなかったことにした。
翌月曜日。朝早く、七緒を春水のマンションに送り届ける。
春水も仕事だが、雪也がいるというので、安心していた。
日中は、仕事が忙しく、昼休みになってやっと、交換した電話番号に、電話することができた。
「もしもし?七緒さん?」
『はい。』
「ゆっくり過ごせていますか?」
『はい。同年代の方と話すのは久しぶりで、楽しいです。
一緒にご飯を作りました。』
「そう。それは良かった。九時前には迎えに行けるかと思いますので、そのままそこにいてくださいね。」
『・・・はい。あの・・・塩島さんから連絡がありました。』
塩島から?少し驚いて、咳払いでごまかした。
「なんて?」
『二人で会えないかと。お断りしました。』
「賢明な判断です。何か言われても、居場所を教えてはいけませんよ。」
『はい。』
七緒は、迷いなく返事をすると、お仕事頑張ってくださいと、通話は切れた。
塩島が一体何の用だろう。彼の意図はお金にあるとしか思えない。
帰ってから、少しゆっくり話ができればいいのだが・・・。
平日は難しいな。
そう思い、午後の仕事へと頭を切り替えた。
家から連絡があった。と春水が言った。
午後九時少し前。春水のマンションに、七緒を迎えに行った時のことだ。
「早かったですね。それで?」
「遺言状を確認してからになるが、七緒の後見人に、伯父が名乗り出てくれた。」
「あぁ。それなら安心ですね。」
「雪也はやれなかったからな。」
春水の伯父は、雪也を養子にしてもいいと言っていたことがあった。まだ、養子を探しているのだろうか。けれど、それなら、七緒は守られる。
「あの?」
七緒が、恐る恐ると口を開いた。
「なんです?」
「僕今、高校を休学していて・・・学校へは行けるようになりますか?」
「都内の?」
事と次第に寄っては転校だ。
「はい。寮に入っていたんです。」
家が売りに出ているので、と申し訳なさそうに七緒が告げる。
「籍は残っているんだな?」
「はい。」
春水の問いに、七緒が答えた。
「でも、学校は塩島さんに知れていて。」
「誘拐・・・の心配をしていますか?」
尋ねると、七緒は頷いた。
「心配・・・しすぎでしょうか?」
春水が、いや、と答えた。
「そうだな。伯父に、お金と遺言状を預けてしまえば、お前が狙われることもなくなるわけだからな。早々に手を打とう。
もとの学校へ戻りたいんだろう?」
七緒は、目を潤ませて頷いた。
「弁護士なら、藤堂家所縁のものがいる。復学はできるだろう。」
「よかった。ありがとうございます。」
「俺の伯父の養子に入ることになるが、かまわないか?」
「・・・お子さんはほかに?」
「いない。大丈夫だ。」
春水と七緒がやりとりするのを、雪也と共に見守った。
「七緒君、何とかなりそうで良かった。」
一日共に過ごした雪也が、心底ほっとしたという表情で、笑顔を向ける。
「良かった。僕本当に・・・なんてお礼をすれば・・・。」
「礼は、伯父夫婦にしてくれ。尽くしてやるといい。まぁまずは、学校に戻る手続きだな。」
それから、その塩島と言う男に話をつけなければならないな。
春水はそう言うと、どうする?お前が話すか?と話をこちらに振ってきた。
「いえ。そういうお話は、力のある人でないと、信用されませんから。」
「俺はお前を信用して、伯父にこの子を預ける話をしているんだがな。」
「そうですが・・・桜小路の力でしょう?」
言うと、春水は、静かに舌打ちし、それだけじゃない。と言い放った。
「それは・・・すみません。」
謝って、機嫌を損ねたな、と思う。でも、やることはやってくれるだろう。春水はそういう男だった。
「今夜はもう遅い。明日仕事場からかけるので問題ないか?
七緒、塩島とやらの電話番号を教えてくれ。」
「出ますかね?」
「それはその時考えよう。」
どうやら、今日できることはなくなったようだった。
七緒が帰り支度を始める。
「僕、今日も先生の家に泊めて貰っていいんですよね?」
「もちろんです。多少は慣れましたか?ゆっくり眠れた方がいいです。」
ソファーベッドじゃ、あちこち痛むだろうが。
「帰りましょうか?」
「はい。」
七緒は元気に挨拶すると、春水と雪也に礼を言って、玄関口まで来た。見送りに来た二人に、自分も礼を言って、ドアを開ける。
外は寒い。
また雪でも降らなければいいが・・・。
手を振る雪也に、小さく手を振って、地下の駐車場を目指した。後ろをついてくる七緒。それがなんだか可愛くて。
丁度去年の今頃、なついてくる雪也とたくさん話したのを思い出していた。
家につくと七緒は、弁当を食べる自分の横にちょこんと座り、その様子をじっと見ていた。
「もしかして、夕ご飯まだでした?」
「いえ。雪也さんと作って、いただきました。」
「何を作ったんでしよう?」
尋ねると、はにかみながら、ハンバーグを、と苦笑して、焦がしてしまいましたが、と付け足した。
「あれは難しい料理です。」
外が黒焦げでも、中が生とかよく聞く話。
「よくトライしましたね。」
「雪也さんと、本を見ていて・・・美味しそうだなぁって。」
そんな様子に、ふふ、と笑ってしまう。そういえば、このところ、一人称が『僕』で安定しているように思う。
不安にさらされて、不安定になっていたに違いない。
「七緒さん、もう女装はしなくていいんですよね?」
塩島の気を引くため、のようなことを言っていた。もう、その必要はない。
「あ・・・はい。そんなことをしているようじゃ、春水さんの伯父様たちに嫌われてしまいますから。」
「媚びて生きろとは言いませんが、ある程度の自由は保障されますよ?」
「そこに女装は入りません。・・・先生。最期にするので、僕のこと、抱いてくれませんか?」
他にお礼の仕方がわからないんです。と七緒が儚く微笑んだ。
「それは・・・。」
「駄目ですか?」
頷くと、七緒は、やっぱり、と俯いた。それが、泣きそうな姿に見えて、少し慌てた。
「では・・・こうしましょうか。何もしませんが、私のベッドで眠りますか?」
「・・・何もしないのに?」
「ソファーベッド、疲れるでしょう?一晩、私と一緒に、添い寝してください。」
春水のことを思い出していた。雪也に、添い寝の仕事を申し付けた時の。あの時も、確か『お礼』だった。あまり感心しませんね、と言っておきながら、この体たらく。
七緒は可愛い。泣かせたくはない。
「あの。それがお礼になるんでしょうか?」
「なります。お風呂あがったら、ベッドに来てください。
もう、時間も遅いですから、眠りましょう。」
七緒は不思議そうな顔をしていたが、やがて納得すると、表情が明るくなった。
「痛いこと、しないんですか?」
「しませんよ。私はこれでも医者ですからね。」
むやみやたらに抱けません、と笑ってやると、七緒もつられて笑った。
可愛い。けれど、藤堂家に入る子を傷つけるわけにはいかない。
明日には春水が、塩島と話をつけるだろう。そうしたら、さようならだ。
少し淋しい気もするが、お互いのために良い選択をした。
体を抱くことはできないが・・・。
風呂から上がった七緒が、ベッドに上がるのを躊躇している。何かもの言いたげな。
「どうしました?冷えますから、布団の中に。」
「・・・先生、キスも駄目ですか?」
キス・・・?
可愛らしい申し出に、小さくため息をついた。
「親愛のキスなら。」
言うと、七緒はベッドに上がり、座る自分の頬に口づけた。
柔らかい、唇の感触。
「返しても?」
頷くので、七緒の頬に同じように口づけてやる。
これが、自分にできる精一杯だった。
「七緒さん。早く学校に戻れるといいですね。」
「はい。でも、もうすぐ卒業です。」
「その先のことは?」
「許してもらえるなら進学したいです。」
俯いて、首をかしげる七緒の肩を、ポンポンと叩く。
「ご夫妻は、勉強熱心な方なので、きっと許してもらえますよ。」
「よかった。」
「さぁ。もう寝ましょうか。」
七緒を、体温で温まった布団に、招き入れる。婚約者に対して、後ろめたい気持ちはあるが、七緒の気持ちに応える、これが限界ラインだった。
朝が来たら忘れよう。
そう思い、眠りについた。
END