第二節「痛快」第七項
森の中、ディルは草むらに潜み、出来る限り息を殺していた。狙いは一〇メートルほど前方、命を狙われているとも知らずにのんきに草を食はんでいる草食動物。弓に矢をつがえ、指先に意識を注ぐ。
――おい獣、動くんじゃねえぞ。一撃で決めてやるからな。
張り詰めた弦をめいっぱい引き絞り、指を離す。弾かれるように空を裂く弓は無抵抗な草食動物に吸い込まれていき、見事その隣の木に突き刺さった。獲物は甲高く鳴いたあと、一目散に逃げていった。
「くそっ、また外した!」
「惜しい惜しい。今までで一番近いよ。確実に上手くなってるって」
鍛冶屋の励ましは今日だけで何回聞いただろうか。弓を外す度に言われているから、少なくとも一〇回以上は言われている気がする。
今日は鍛冶屋の人、ガンテに連れられて朝から森で猟をしている。今度狩りに行こうと言われたのは以前挨拶に上がった時だ。正直な話すっかり忘れていたので、今朝方無理矢理に起こされて引っ張り出された時は何事かと思った。
村は森に囲まれているが、人通りが多いため生き物はそれほど住み着いていない。なので森のかなり深く、小型・中型獣が多く生息するところで猟をしている。
「くよくよしていても仕方がない。次だ次!」
髭面ひげづらのガンテは無骨な腕で肩を叩いた。しばらく獲物を探して歩いていると、遠くの方に一匹の獣を見つけた。
「あ、あそこにいるのって」
「うん、ありゃ『ムケワリ』だな」
ムケワリは四足歩行で、短くてカールした毛で全身が覆われていた。足は太くて長いがその割に胴体が小さく、特に首が寸詰まりな印象を受けた。高さはディルの肩ぐらいで、不格好な馬のようにも見えた。
その動物はなぜか上の方を見上げながらふらふらと歩いていた。
「なにしてるんですかあいつ」
「ムケの木を探しているんだろう」
「ムケの木?」
「ああそうだ。ムケの木には実がなってな、それがムケワリの主食なんだ」
鼻をひくつかせているムケワリ。しばらくそうしている様子から察するに、ここらへんにムケの木とやらはないらしい。
「木を見つけるのが苦手なんですかね」
「いや、ここらへんの木は全部ムケだぞ」
「え? それじゃあなんで」
「全ての木に実がなるわけではないんだ。時たま実がなったとしても成熟してないと食えたもんじゃあないからな」
なんとなく木を見上げた。見える範囲に実はなかった。
「しかもこの実ってのが厄介でな、めちゃくちゃ硬いんだ。鉄と同じくらいの硬度があるらしい」
「鉄と同じ!? 植物なのにそんな硬くなるんですか」
「そのぶん栄養があるしめちゃくちゃ美味い」
美味いと聞いて思わず生唾を飲み込む。もう一度木を見上げたが、やはり実はみつからなかった。
「ムケの実を割れるのはムケワリだけだからな。いつもはそっと息を潜めて、実をこじ開けた瞬間に仕留めるんだが、今日は目的が違うしな」
ははあ、ムケの実を割るから『ムケワリ』。なんて安直なんだ。
ガンテに促されて、今度こそと弓を構える。
そして無心、何事にも邪魔されない自分だけの世界を築く。目に映るのは獲物だけ。しばしの空白のあと、放つ。
時を超越するような集中力をもって放たれた矢は、果たしてあさっての方向に飛んでいった。
「……あ、あれー?」
「……こりゃだめだな」
真後ろから聞こえる落胆の声。なんとなく悔しい。
「さっきも言ったけど弓は苦手なんですよ」
「弓がだめなら獣にどうやって近づくんだ?」
「近づくというよりも、俺のところに向かってきた動物を返り討ちにするんですよ」
「返り討ちに? ……剣も持ってなかったよな?」
「まあ、そうですけど。でも俺だけが使える秘密の技があるんで」
「へえ、いつもはどんな感じでやってるの」
そう言われて思わず戸惑う。ディルの能力をどう説明したらいいものか。いつもの状況を思い出して、端的に言葉にした。
「怒って獲物を狩ってます」
「お、怒って? だめだよ怒っちゃ、冷静にいかないと。動物は感情がわかるからね。それじゃあ逃げちゃうよ」
「あ、そういう意味ではなくって」
確かに今の言い方ではそう受け取られてもおかしくはない。自分で言っておきながら、怒りながら狩りをするというのはどういうことだろうか。
当たれ! 当たれってんだよ! おい待てこの野郎! 待てって言ってんのが聞こえねえのか獣風情が! ……こんな感じか。そんなやつがいたら近づきたくないよな。
「じゃあ実際にやってみましょうか」
口で説明するより、一度やって見せた方が信じてもらえるだろう。ディルの能力は発動するのに怒りという感情を必要とする。
なので嫌な敵がいない時、要はそれほどいらいらしていない時に能力を発動したい場合、日常の中であった嫌な出来事を思い出して怒りを高めることにしているのだ。
彼は、この前大人のお店に行ったときに受けた屈辱を思い出す。女性の胸を揉めるというから五〇〇ゲルドュも払って席で待機してたときのこと。
奥の方からきれいなお姉さんが出てきて喜んだのもつかの間、その女性はメスのリュリュを差し出したのだ。その後ろには屈強な、スキンヘッドの男がいたのでなにも言うことはできなかった。
確かに良い感触だったけども! ああだめだ、ちょっと怒りを高めるだけだったのに本気で腹が立ってきた。ふつふつと怒りが煮えたぎる。
「うおおおっ! くそっ!くそっ!くそがあああ!!」
「えっ、おい、どうしたおい!」
「おっぱいいいいい! おっぱいいいいいいいい! おっぱいがもみたああああああああいい!!!!」
「――――いや落ち着けって!」
頭を激しく振りながら絶叫していたディルは、ガンテに羽交い締めにされる。あと少しで能力が発動するというところで、怒りが霧散してしまった。
「な、何するんですか!?」
「な、なにって……。明らかに様子がおかしかったぞ」
「こうやってやるんです!」
その後も能力が発動しそうになる度に止められた。鍛冶屋の独特なリズムで調子を狂わされ、すっかり気が抜けてしまった。
苦労してようやっと能力を発動したときには、手のひらから赤い煙がふわふわと湧き出るだけだった。
「な、なんだこれは!? ……確かに不思議だが、これだけじゃあ獣は狩れないよな」
「だからいつもはもっと凄いんですって!」
その後も少しだけ粘ったが、ガンテがそろそろ帰ろうというので切り上げることになった。まだ明るいが移動に時間もかかるし、日が暮れたらそれこそなにも見えなくなってしまう。ちなみに成果はゼロだ。
「でもまあ襲ってきた獣を狩るっていうスタイルなら、草食動物は狩れないよな」
「ですね。ここらへんで肉食獣といったらラグリルぐらいですか?」
「たしかにラグリルは肉食獣だが、基本的に臆病で慎重だから狩り慣れた動物しか狙わない。人間は目線が高い分、自然界の中ではかなり大きい部類に入るからな。奴らは人間を襲うことはまずない」
「へえ。声だけは勇ましいのに臆病なんですね」
「ああそうだ。走り回って獲物を疲れさせてから狩るため、肺がとても発達しているんだ。なにせ『咆哮獣』と呼ばれるくらいだからな、声のでかさはお墨付きだ」
そんな感じで雑談しながら和やかに帰り道を歩いていると、いきなりガンテが身を低くした。それにつられてディルもしゃがむ。
「ど、どうしたんですか」
「しっ! ……静かに」
ただならぬ雰囲気に緊張が走った。ガンテは鋭い目できょろきょろと辺りを見回す。決して短くない時間が過ぎたあと、彼は安堵したようにため息をついた。
「い、いったいなんなんです?」
「……これは見てみろ」
指で示された方に顔を向けると、半ばから折れている木があった。
「これがどうかしたんですか? 木が折れているくらいで。例えばほら、木こりが木を切りかけて途中でやめたとか」
「切り口が汚いだろ。それは鋭い刃物ではなくて、力技で木を折ったってことだ。……あと問題は折れた木じゃなくて、その下だ」
視線を言われた場所に向ける。大きな糞があった。……だからどうしたというのか。鍛冶屋を見るが彼は真剣そのもの。ならきっとなにかがあるのだろう。しばらく観察していると、糞の中に白い何かがあることに気がついた。
「……骨?」
「恐らくは。ラグリルの顎はそれほど大きくないから、骨を砕くなんてことはできないはずだ。それに骨が綺麗だろ?」
「え? うんこまみれですよ? 死ぬほど汚いですよね」
鍛冶屋はガクリと肩を落とす。
「そうじゃない。原型を保っているだろって話だ
」
言われてみて、頷く。糞にまみれているのでわかりづらいし、ところどころ破損してはいるが、ひと目で骨だとわかる程度に原型は保っている。組み合わせたらもとの形にできそうなほどだ。
「これは糞をした動物が骨を消化する能力を持たないってことだ。それに血が混じっているから、骨の尖ったところが内臓を傷つけたんだろう。本来骨を食べる動物ではないはずだ」
「骨を砕くほど顎の強い肉食獣なんてこの地域にはいない。最近暖かかったからな、もしかしたらよそから紛れ込んだのかもしれん。気をつけるにこしたことはないな」