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第一節「出会い」第一項

「離してよ! いたいっ、いたいって!」


 いくつもの出店が並び、人々の声が飛び交う活気のある商売通り。数えるのもうんざりするくらいの人間が、むき出しの地面を踏みしめて行く。涼やかな風が吹き抜け、抜けるような青空は正に快晴。そんな爽やかな雰囲気とは不釣り合いな、少女の悲鳴が昼間の空気に染み渡っていった。


 悲鳴を挙げたのはそれほど裕福ではなさそうな格好の少女。安っぽい生地のシャツに、汚れの目立つズボン。少女は年若い青年に腕を掴まれていて、青年の手から逃れようともがいている。しかしすぐに力の差を感じて諦め、代わりに罵詈雑言をまき散らし始めた。


 暴言を吐かれている当の青年ディルはしばらくの間それを黙って聞いていたが、容姿を執拗にあげつらう少女にうんざりし、少女の右腕をねじ上げた。うっ、といううめき声とともに一瞬口を閉じるが、次の瞬間には暴言の嵐。しかも今までよりも悪意が増していた。


 客観的に見ればいたいけな少女をいたぶる青年にしか見えないが、これには海よりも深い事情があるのだ。


「だ、誰か助けてください! この人痴漢です!」と、道行く人に必死で呼びかける少女。

 心配そうに様子を伺ってくる親切な通行人もいたが、「こいつはスリです」とディルが言うとみんな納得したように去っていった。


「うそーん……」

「残念だったな」


 ディルがにやりと笑ってみせると、少女は悲しそうに表情を歪めた。


「あーあ、冤罪なのに。きっとこのあと脅されて、この薄汚いケダモノにもてあそばれてしまうんだ……」

「何言ってるんだお前は。そんなことより俺の財布を早く返せよ」


 ディルが少女の固く握りしめられた手の甲を叩くと、そこから年季の入った革財布がこぼれ落ちた。


「あっ、私の財布……」

「俺のだろうが」


 ディルは地面に落ちた財布を拾ってから少女を開放した。彼女は半ば転がるようにして離れる。肩の辺りまで伸びた赤毛混じりの金髪が空気をはらみ、柑橘系の甘酸っぱい匂いが一瞬強くなった。が、すぐにたち消える。少女は赤くなった右腕をさするとディルに相対し、ぱっちりとした目で非難がましく睨んだ。


「私に感謝しないなんて、あなたは恩知らずな人ね」

「なんで被害者がスリ未遂犯に感謝するんだよ……」

「いい? あなたは明らかに危機感を持っていなかったし、誰が見ても隙だらけだった。私が盗もうとしなかったら私よりも上手い誰かに絶対盗まれてたよ」

「いっそ怖いくらい堂々とした自己正当化だ!? しかしなんだこの慈愛に満ちた表情は……。まさかこいつ、注意喚起のためだったなんて言い訳が本気で通じると思っていやがる……!?」


 そう言うと彼女はにかりと笑い、手のひらを差し出した。


「なんだこの手は?」

「お礼ちょうだい」


 全く罪悪感を抱いていない様子の少女に、思わずディルは肩を落とす。相手をするのもばかばかしくなったので立ち去ろうとすると、どこからかぐうぅぅという音がした。半ば反射的に少女の顔を見るとさっきまでの朗らかな笑顔を引っ込めて、悲しそうにうつむいた少女の姿が目に映った。


「もう一ヶ月間、何も食べてないの……」

「……はあ、わかったよ」


 相手はスリ。本来なら世話をする義理などないのだが、問答のために決して短くない時間を共有したことでわずかながら同情心が芽生えてしまっていた。周りを見渡すと少し向こうに串肉を売っている屋台が見えたので少女を引っ張っていく。


 そしてディルに手を引かれている最中、少女はずっと顔を伏せていた。一見図々しいように思える少女も申し訳なさや恥ずかしさを感じていて、それを人に見られたくないからだろうか? いいや違う。顔一杯に浮かべた喜色満面の笑みを、彼に見られないようにするためだ。


 悲しいことにディルは知らないのだ。少女が自身の生まれ育った村で、“声帯模写の達人”として名を馳せていたことを。

 特に人間の体が発する音を再現することが飛び抜けて上手かったことと、五時間前も同じ手口で朝飯を済ませていたことを、ディルは知る由よしもない。


「すみません、これ三つください」


 やたらと筋肉質な店主から串肉を受け取ると、その内二つを渡した。少女はありがとうとぼそりと呟く。串肉は決して少ないわけではないが、成人男子にとっては大した量ではない。早々に食べ終えたディルとは対照的に、少女は一口一口ゆっくりと食べる。

 彼の目にはその行動が久しぶりの食糧だから大事に食べているように映っていた。次にいつ食事にありつけるかわからないから、食べきっていいものかと悩みながら食べているんだろうな、と勝手に考えていた。


 しかしこれは少女がそれほど空腹ではないだけである。


 そんなことを知るよしもないディルは温かい視線で少女を見守っていたが、実際他人の食事を見ていて面白いことなんて何一つない。なんとなく手持ち無沙汰になったので、懐から懐中時計を取り出す。丁寧な銀細工が施された、素人目から見ても明らかに高そうな一品だ。


「それ……結構良いものだね」


 もそもそと串肉をかじっていた少女はディルが見ている物に気付くと頬張った肉を飲み込み、真剣な視線を懐中時計に注ぐ。比喩でもなんでもなく自分の半身とも言える懐中時計を評価されて、ディルは少しだけ嬉しくなった。


「やっぱり高いの?」

「もちろんそれなりにするだろうけど、俺にとっては値段にできないくらい大事なものなんだ」

「ふうん……」


 不意に、凶暴な肉食獣に命を狙われているかのような感覚を覚える。鳥肌が立ち、ディルの身体が硬直するほどだった。すかさず辺りを見やるが、もちろん何かがいるわけでもない。街を行く人々に変わった様子は見られないし、少女にも怯えた様子はない。

 どうやら今のは気のせいだったらしい。一息つきながら懐中時計を懐にしまう。


「ふう」と少女が息を漏らした。手元を見ると肉のなくなった串があった。「ようやく食べ終わったか」と言うと、少女は返事もせずにもう一本にかじりついたので思わず転びそうになる。もう一度降りた沈黙を誤魔化すために、ディルは彼女について質問することにした。


「仕事はしてないの?」

「もちろんしてるよ。荷造りをして届けたりしてる」

「ふーん。どれぐらい稼げるの?」

「んー? ……まあ三〇〇ゲルドゥくらいかな」


 この返答にディルは思わず戸惑う。ある程度しっかりとした額だったからだ。それぐらいなら二日三日食事に困ることはないだろうし、宿代を含めても十分生活していける。いったいどういうことだと思考の海に潜っていると、突然少女がディルに抱きついた。


「本当にありがとうね、お兄さん!」


 胸板に感じる、柔らかくも存在感のある弾力。思わぬ感触にどぎまぎしていると、少女がディルの顔を見てにかっと笑った。


「それじゃっ、ごちそうさまでした!」

「えっ、あっおい!」


 知らぬ間に串肉を食べ終えていた少女が駆け出していく。制止の声も聞かずに走っていき、すぐに姿が見えなくなった。

 ディルは少女の肩を掴めずに宙ぶらりんになった手をそっと下ろす。自分でも気づかないくらいに、ディルの表情はどこか楽しそうだった。彼女と関わって得したわけではないが、人助けをしたような気がしてなんだか気分が良かった。


「まあいいか」


 ディルは清々しい気分を抱えて歩き出す。その後に見て回った街の景色は、素晴らしく見えた。

 それからしばらくして。少女と別れてから決して少なくない時間が経過した後に、なんとなく時間を確認しようとして胸元を探った。しかし手が懐中時計に触れることはなく、胸ポケットの中を覗いてみても懐中時計は見つからない。「あれ……?」背中にひやりとした嫌な汗がつたう。


 ポケットの中を探しても、ブーツの中を探っても見つからない。原因はわかってる。自分の財布をスリそこねた少女に、財布よりも大事な物を今度こそスリ取られたのだ。


「あ、あのアマァァ!!」




 少女ことフレナはディルから銀の懐中時計を盗んだ直後、おんぼろの建物が密集し、太陽がろくにささないせいで昼間でも薄暗い路地裏を歩いていた。この街が平和なのは表通りやそこから派生するいくつかの大きな道だけで、そこから二・三本ほど道を外れると一気に治安が悪くなる。いわゆる裏通りは活気が全くと言っていいほどなく、人はほとんどいなかった。建物の外壁は薄汚れていて不潔である。妙な臭いが鼻をつき、思わずむせた。


「ちょろいなあ」


 にやりと笑いながら呟き、手元の懐中時計に目を落とす。銀の細工がほどこされた、いかにも価値のありそうな一品だ。彼の態度から察するに、売ればまとまった金になるに違いない。それを懐にしまうと、歩く速度を緩めて振り返った。


「ただのカモだったけど、別に悪いやつじゃなかったな」


 ここまで歩くと大分静かだが、大通りの方からは未だに賑やかな声が聞こえている。


「もし全てが終わったら、恩返しにでも行こうかな……なんてね」


 少女は前を向き、歩きだした。弱音なんて言ってられないとばかりにその歩みは力強い。


「さあ、明日も頑張ろう!」


 その時、少女の視界の端の暗闇から、ぬるりと手が生えた。

 ただでさえ薄暗い路地裏のさらに暗い横道を少女が通り過ぎようとした時、その横道の血を思わせるほどねっとりとした暗闇から手が現れたのだ。


 少女の首よりもはるかに太く、毛むくじゃらで小汚いその腕が少女に向かって伸びていく。


「えっ、きゃっ!」


 助けを呼ぶよりも速く少女の口を抑え、乱暴に抱きすくめる。もちろん少女だって必死に抵抗はするが、男との力の差は歴然。そして数秒間の格闘の後に、少女は暗闇に吸い込まれていった。


 後にはただ、痛いくらいの静寂だけが残るだけだった。


 ☆★☆★☆


 ぼんやりとした意識の中、フレナはかすかな頭痛と共に目を覚ました。どうやらどこかの部屋にいるらしい。小さな窓から光が射すのみでやけに薄暗く、今は夜かもしれないと思った。

 がらくたがいくつも見受けられ、物置小屋と言われれば納得できるくらいに雑然としていた。掃除が行き届いていないのかやけにほこりっぽく、思わず咳き込んだ。


「よう、お目覚めかい?」


 野太い誰かの声。声のした方に顔を向けるとチンピラといった風体の男がいやらしい笑みを浮かべていた。粗暴な顔の下にある首元は宝石でごてごてで、まるで成功した盗賊のようだ。最初一人だけだと思ったが壁際にもう一人、チンピラの子分らしき男がこれまたいやらしい視線をフレナにそそいでいた。


 身の危険を感じて反射的に逃げ出そうとする。だがなにかに遮られていて身動きが取れない。今さら気がついたが、背後の壁に鎖でがんじがらめにされているようだ。乱暴に振り外そうとしたが、やかましい音をたてるだけで壊せそうになかった。


「取ってよこれ!」

「いいや駄目だね」


 フレナの訴えにチンピラがすかさず答える。ニタニタしながらにじり寄り、フレナの顔をのぞき込んだ。


「お前、俺の顔に覚えはないのか?」

「知らないわよあんたなんて!」


 もちろん嘘ではない。男の顔なんてちっとも見覚えがなかった。


「嘘つけ! 俺の財布を盗んだのはお前だろうが!」


 正直そんなことを言われても困る。なにせこの街に来てからまだ三日しか経っていないとはいえ、両手の指では足りないぐらいの財布を盗んだのだ。


 常識的に考えて覚えてないに決まってる。


「だったらなんだっていうのよ! 盗まれる方が悪いに決まってるじゃない!」

「なんだと!?」


 こんなところに縛り付けられた怒りに任せ、フレナは男を口汚く罵った。段々とチンピラの顔が歪んでいくが、過熱している彼女はそれに気が付かない。やや暴言が行き過ぎたあたりで男が怒鳴り、拳を振り上げた。


「てめえ、黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって!」


 男の激情にフレナが怯んだのも束の間、次の瞬間目の前が真っ赤な光に包まれた。殴られたわけではない。実際に何かが光っているらしい。眩しさに思わず目を細める。何度か瞬きすると、薄っすらと周りの様子が見えてくる。それから部屋の中を観察した。そしてフレナは心の底から戸惑った。


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「……え?」


 見間違いではない。拳に灯った真っ赤な炎は肩のあたりまで伸び、時々頭の高さを超えている。空気中のほこりが焼かれ、焦げた臭いがした。部屋の細部がわかるくらい明るくなったというのに、男の巨大な影が背後の壁に映っているせいで、今までよりもいっそう暗くなったように感じられた。


 驚いているのは自分だけのようで、子分は平然としている。気がついていないのか? もしかしてこの炎は幻覚? そんな疑問を抱くほど、チンピラの顔からは苦痛がみじんも感じられなかった。まさに今、自分の右手が燃えていると言うのにだ。


「な、なに……これ……」


 質問が聴こえているのかいないのか。男は顔をゆがめたまま再び怒鳴った。興奮しているせいで何を言っているのかはわからなかった。


 チンピラは目の前の小虫を追い払うように手を振るう。拳が届く範囲ではないが、炎が伸び、鞭のようにフレナの額を叩いた。ぼわっとした熱気のあと、遅れてじんじんと痛み出す。まつげと前髪の焦げる臭いがする。

 事態はすでに理解できる範疇はんちゅうを超えていた。額に感じる激しい熱とは対照に、頭の熱は急速に冷めていく。

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