雨の日、喫茶店
こちらカクヨムにアップした作品と同じ内容です。
雨の音に気が付いたのとだるさに気が付いたのは、どちらが先だったろう。
頭痛に耐えられなくなってパソコンを閉じると、耳に雨の音が飛び込んで来た。未だカーテンを買っていない窓を見る。ここからでは、まだ雨が降っているのか分からない。
確認しようと、立ち上がり窓を開ける。土の匂いが鼻を突いた。
面倒だな。
僕は少し眉を寄せた。この後文月さんと会う予定があるのに。
ばらばらと、雨が木々の葉を叩く音がする。雨はあまり好きじゃない。気圧が下がって頭が膨張すると、心も膨張するからだ。しかも負の方に。雨の日は憂鬱だ。
こういう時は外に出てしまった方がいい。立ち上がって服を着替えようとする。けれどだるさを抱えた心に引っ張られるようにして身体が重くなっていき、眠気が襲ってくる。
このまま、ベッドで寝ていたい。
部屋の隅をちらりと見る。今寝たら、起きた時は雨が上がり、さぞ心が軽いだろう。先輩との約束だって、約束時間に三十分遅れれば反故にするのが僕らのルールだ。それを互いに咎めることはしない。だから、休むのはとても簡単。
……でも、と思い返す。
今寝て人と会わず一日を終えたら、逆に心が重くなるかもしれない。
約束を反故にすることは簡単だけど、破った側は案外それを忘れられない。それがこうやって、雨の日に僕を締め付ける。
やっぱり、行こう。明日の僕の心をなるべく軽くするためにも。
のろりとクローゼットに寄って、シャツとジャケットとジーパンを引っ張り出す。ジーパンは濡れるかもしれない。まあ、どうでもいいか。靴は濡れを防ぐためにも革にしようか。
袖を通す際に自分の腕を見て、嫌な記憶が脳を掠める。そこからの記憶は芋づる式だ。四年も五年も前の記憶が、脳内をぐるりと回った。叫んでしまいたくなる。
嫌だ、嫌だ、全てを投げて、全てを捨てて、全てをどっかへ。僕を投げ捨てよう。あそこに鋏、隣にカッター。あれで机をぐちゃぐちゃにしようか、硝子を叩き割ってしまおうか。その刃物で、僕をぐちゃりと。
――もう成人になるというのに、僕は何も変わっていない。
我に返って頭を振る。このままじゃ文月さんと会うのが嫌になってしまう。折角気が合う人と会うのだ。どうせなら楽しく過ごしたかった。
約束よりだいぶ早く着くかもしれない。それでもこうやって落ち込むくらいなら、外に出た方がいい。そう思って僕は傘を握り、部屋を出た。
文月さんは、紅茶が好きだ。この辺で紅茶が専門の喫茶店はないかい? と言われて調べれば、文月さんの家の近くに一軒あるのが分かった。それで、今日はそこに行こうという話になった。だから僕は今、在来線に乗り、喫茶店へ向かっている。
平日だから、電車はがらがらだった。角に座って、何をする気もないから前の窓を見つめる。窓に当たった雨粒が、勢いよく左へ流れていく。それがここまで音が届かないのが、なんだか不思議でしょうがない。
雨を見つめていると、ある程度、心がからになる。空は雲で真っ白だ。
いつのまにか、最寄りの駅に着いていた。ドアが閉まる前に、立ち上がって出なければ。
道に迷ったせいで、結局件の喫茶店に着いたのは約束の五分前だった。中に入り、先輩を探す。
カウンターのところに酒瓶が多く並んでいる。雰囲気も全体的に暗めだ。テーブル席にはキャンドルが置かれているし、夜にはお洒落なバーに変身するのかもしれない。
奥のほうまで行くと、椅子がL字型のソファになっている席に先輩が座っていた。オレンジのワイシャツに、白いパンツ。髪はバレッタで止めている。手元の文庫本に集中していて、僕に気が付いてないようだ。
先輩はLの短い方に座っている。角を挟んで傍に座ると、はっと先輩が顔を上げた。
「意地が悪いな。声をかければいいものを」
「夢中になっていたようだったので。何を読んでいたんですか?」
「詩集だよ」
「珍しいですね。いつもは実用書が多いのに」
「今日は雨だからね」
先輩が本を仕舞う。テーブルの上には、まだ何の飲み物もなかった。
「待たせましたか」
「いや、私が来るのが早すぎただけさ。何を飲む?」
一つのメニュー表を広げ、二人で覗き込む。先輩からラベンダーの香りがした。香水だろうか。
メニュー表は一枚だったが、紅茶、ハーブティー、中国茶と、様々な種類が載っている。紅茶専門店というより、お茶専門店のようだ。
「先輩何にします?」
「そうだな……アールグレイかな」
「王道ですね」
「どうせなら普段知っている味を飲んだ方が、飲み比べられるだろう?」
「意地が悪い」
からかうと、ふっと先輩が笑う。
「だけれど、アールグレイが一番好きなんだ」
君は? そう言われて、もう一度メニュー表を見る。何を飲もうか。僕はそこまでお茶に詳しいわけではない。だからピンとくるものも少ない。
たまたま目に留まったお茶が、カモミールティーだった。確か、昔一度飲んだっけ。薬っぽい味がしたのは覚えているけれど。
首を捻るも、他に気になるものもない。これでいいやと思い、カモミールティーを頼むことにした。
店員を呼んで、注文する。僕が頼んだ時、先輩が少し驚いた顔でこちらを見た。
「なんですか?」
かしこまりました、と店員が去ってから先輩に聞く。
「カモミール、飲んだことあるのかい?」
「ええ、一度だけ」
「独特な味だろう? 私の周りで好んで飲む人はいないから、驚いたんだ」
「味をそんなに覚えてなくて、気になって」
すでにティーバックが準備されているからだろうか。すぐにポットとカップが運ばれてきた。少し待って蒸していると、ふわりとお茶の香りが漂い始める。お茶の葉そのものを思い出させるアールグレイと、少し甘ったるい、薬のようなカモミールの香り。
あまり濃すぎるのも嫌だから、早々にティーバックを取り出し、白い陶器のコップに注ぐことにする。次々に立つ湯気で、匂いは一層濃くなった。
「カモミールの匂いは強いな」
すでに先輩はアールグレイを飲んでいた。熱くないのだろうか。傍にある角砂糖の壺は蓋が開いていて、やっぱり先輩だな、と頷いてしまう。
「文月さんはこの匂い、駄目ですか?」
「いや、別に平気だよ。あまり好んでは飲まないがな」
ふうん、とひとつ頷き、飲んでみた。甘い、不思議な味が口の中に漂う。飲み込むと、後味がとてもさっぱりしているのに気が付いた。何故だかため息をついてしまう。身体の力が綺麗に抜けた。
そういえばカモミールはこんな味だった。一口飲むだけで緊張がほぐれて、身体がぐたりと緩む。そのせいで余計に、カモミールは薬膳茶、というイメージが僕の中で強い。
思わず目を瞑ると、気配で先輩が笑ったのが分かった。
「えらく落ち着いているな」
「カモミールを飲むと、昔もこうなったんです。やけに落ち着くんですよね」
「カモミールティーは、心を落ち着かせるというしな。こんな日にはぴったりだ」
一瞬、先輩が僕の心の中を読んだのかと、ぎょっとして目を開ける。しかし文月さんが目を向けている方向は窓だった。こんな日とは、きっと雨の日というのをさしているんだろう。
安堵が半分、落胆が半分。
「アールグレイ、美味しいですか」
気持ちを隠すようにそう聞くと、先輩はにこりと頷く。
「飲むかい?」
いとも簡単にカップを差し出されるから驚いた。
「……僕、一応男ですけど」
「私はそういうの気にしないし、君なら別にいいさ」
「はあ……」
照れもせず、からりと言う先輩が僕には楽だ。この人とこうやってお茶を飲める関係にあって良かった。
「いえ、でもいいです。僕そんなにアールグレイ好きじゃありませんし、味の違いが分かるほど普段から飲んでいませんし」
「そうかい」
会話が途切れると、周りの音が耳によく届く。シンクで水を切る音。硝子と硝子がぶつかる音。何かを注ぐ音。
その中でも大きく聞こえるのは、隣の高校生二人組の会話だ。制服を着ているから、テストでも終わって学校帰りだろうか。
ちょうどクラスの人の噂話をしていたようで。不穏な単語が聞こえてきた。
「……さんがさ、なんかリスカしてるらしくてさ」
「リスカ? リストカット?」
「そうそう。そのせいでうちのクラス、いじめ調査させられて。あの子別にいじめられてもないのにさぁ……」
リスカ。日常であまり聞かないから記憶に残る言葉だ。ちらりと先輩を見ると、先輩もこちらに顔を向けていた。
「リスカって、自傷行為か」
「基本的にはそう言われますね」
「したことある?」
よくもまあ、こんな正直に聞ける。思わず少し呆れる。
けれど、こういう質問の時先輩の目を見るととても不思議な気分になるんだ。だってこの人、変な欲に満ちた目をしていないから。同情とか、嘲笑とか、そういうのは完全に抜け落ちて残っているのは、純粋な興味の目だけ。これが嫌いな人もいるだろう。でも僕は下手に生ぬるい感情を向けられるよりかは、科学者のような目をして質問してくれる方が気持ちが良かった。
「……先輩はあります?」
逃げてそう聞けば、はて、と首を捻られる。
「ないな。自分の身体を傷つけるのは、痛そうだ」
「……自傷行為って、必ずしも痛いわけではないんですけどね」
「自分の皮膚を切っているのに?」
「その辺の感覚が馬鹿になっていたりしますから」
目を伏せて、お茶を一口。薄い甘い味を、必死で追いかける。
「己に刃物を向けるより、そういう感情にさせた他者を刺そうとは思わないのかい」
なかなかに物騒なことを言う。僕は思わず苦笑する。
「その人にとっては、向ける先は無いんだと思いますよ。誰にも言えない罪を、自分以外で減らすことは出来ないでしょう」
だって、物に当たっても、人に当たっても、悪いのは結局自分だから。自分に罪があるのなら、それは自分で片づけないといけないから。
なんて言ったら、まるで僕が昔、切っていたようになってしまう。だからここまでは語らないけれど。
それでも、こういう話は過去を思い出す。未だ癒えていない過去。傷がぱかりと割れて、心が悲しみに満ちる。
ただでさえ、今日は雨なんだ。嘆く心は限度を忘れている。
人といるのに、この感情は駄目だ。何かが零れそうになるのを必死でせき止める。駄目だ、駄目だ。
そこで先輩がぽつりと呟いた。
「分からないな、どうしても」
「……、」
先輩にそういう気がないのは知っている。ただ自分の思っていることを正直に言っただけだと、分かっている。
でも、どうしてもその言葉に続くのが「そんな訳の分からないことをして、逃げているだけじゃないか?」の気がして。先輩はそういうことは言わないはずなのに。どうしてもそう考えてしまう。
逃げとは知っているんです。自傷に限らず、心の闇を拠り所のように抱え続けるのは。でも、捨てられないんです。どうしても、なぜだか。だから、許してと、誰に許可を取るわけでもないのに、ただ、許してと、
――前が歪んだのは一瞬。ぼろりと涙が零れ落ちた。
わ、うわ、やってしまった。
慌てて目を擦る。文月さんの慌てた気配が伝わった。
「な、香川くん、どうしたんだい」
「す、すいません、すいません理由はないんです。ただ、なんでか」
たまに決壊する僕の心は面倒で、決壊と同時に涙が零れる。昔からそうだから、どうしようもないと思うけれど、こうやって人に見られると治したいと思う。急募、涙の枯らし方。
なんてギャグみたいに考えて、少し涙が止まる。そのまま収まってしまえ。
「気に障るようなことを言ったかい。私の言葉は正直すぎるだろう。それに対して君は、文句を言わないから」
「ちが、違います。先輩の言葉を、考え過ぎた、のは、僕です。すいません。すぐ、すぐ収まりますから。気にしないでください」
顔を背けて目を擦る。早く、早く止まってしまえ。
と、
柔らかく頭を撫でられた。
びっくりして、目が赤いというのに文月さんの方を向いてしまう。先輩は僕の勢いに驚いて、手を離した。
「嫌だったかい? それなら止めておくが」
「い、いえ。びっくり、して」
「じゃあ撫でていよう」
ふわりふわりと、まるであやされているようだ。
「今日は、雨だからな」
「雨、だから」
「だから、君が泣いたって、それは普通の事なんだ」
その言葉で余計に涙が零れる僕は、とても女々しい。
時々頭皮に触れる文月さんの手はくすぐったい。肩を震わすと強く撫でてくれるから、こちらに気を使ってくれているのが分かる。
申し訳ない。
申し訳ないけれど、それ以上に心地良かった。
「……先輩、もたれてもいい、ですか。少しだけ」
「そのまま寝ても構わないぞ。三十分後くらいに起こすから」
「寝るのは……」
少し笑ってしまう。先輩の肩にもたれると、薄いワイシャツ越しに先輩の体温が伝わってきた。
とても暖かくて、ざわついていた心が収まる。人肌ってすごいんだなと、感心してしまった。
暖かくて、窓を叩く雨の音は優しくて、紅茶の匂いは穏やかで。
心地良いと思っている内に、自然に瞼が下りてきた。
読んでくださりありがとうございました。キジノメです。雨の日はなんだかしんみりしますね。私だけでしょうか。
感想や評価くださると嬉しいです。それでは、ありがとうございました。